前編
夏のホラー2023参加作品です。
クトゥルフ神話的な雰囲気を目指してみました。
前後編に分けていますが、作劇的な効果を狙ったわけではなく、一気読みするには長すぎるかな、と思っただけです。
R15警告があるはずですが、残酷描写、性的描写があるのでご注意ください。
魔王ライオネルの赤黒くねじくれた鈎爪が、切り裂くというよりも叩きつけるという表現が相応しい力強さで振るわれる。一回目は躱すので精一杯、二回目もその迫力に思わず下がってしまい反撃できなかった。だがこれで三度目、レイラン山の剣聖に師事してスキル「見切り」を取得するイベントを無視した俺にももう間合いは掴めている。
元々FPSは得意なのだ。動体視力には自信がある。それに魔王は筋力は高いが、敏捷はそれほどでも無い事は四天王の二番目、獄炎のヒルガルドを尋問して知っていた。今度こそ最小限の動きで振り回された爪を躱し、盗賊に合図する。
「盗賊!」
「あいよ!魔封じのオーブよ!」
この魔王退治の旅の中で、最も苦戦したロメロの洞窟の最奥で手に入れた水晶玉を盗賊がかざすと、中から虹色の光が溢れ出した。一瞬強い光に怯んだ魔王だったが、流石と言うべきか直ぐに立ち直って呪文を唱える。
「コンプレッション!」
今まで数多くの不平魔族やこの世界の勇者たちを葬り去ったという魔王の最強呪文だ。だが先ほどの水晶玉から放たれた光は、効果範囲での一切の魔法を禁じるとっておきのアイテム。味方も使えなくなるし、効果時間が短いし、再使用までに一時間もかかるという使い勝手の悪さだが、予め四天王を含む側近たちを丁寧に尋問して魔王の行動パターンを研究してここぞというタイミングを見極めた上でのとびきりの不意打ち。
呪文が不発に終わって狼狽える魔王を見据え、聖剣の力を最大限に解放する。
「聖剣サルファルシーよ!真の姿を顕せ!」
俺の叫びと共にメタリックシルバーの刀身が虹色に輝く。先程までは羽のように軽かった聖剣は、内から放たれる聖なる力の重圧で両手で支えるのが精一杯だ。このままではいくら聖剣そのものに力が有ると言っても、魔王にそれを叩き込むことはできない。だがそれを覆すのが勇者の剣技スキルという物だ。キーワードで発動させれば自動的に体が動いてくれる。
「喰らえ!百裂光斬!」
その名の通り百回、目にも留まらぬ連続攻撃を繰り出す今の俺の最高のスキル。今の俺のレベルでは微妙に命中率が低くて十回くらいは空振りしている筈だし、もっとレベルを上げればさらに攻撃力の高いスキルも手に入るらしいがそれは単なるオーバーキル。もちろん俺以外の勇者が百人いれば百人とも、レベルカンストさせて万全の状態で魔王に挑んだかもしれないが、俺にはそんなちんたらレベル上げしている暇はない。なにしろ部屋にはまだ未開封のゲームが山積みなのだ。こんなクソゲーに付き合っていたら爺になってしまう。さっさとクリアしてリアルに帰らなければ。
大体百回、真の力を解放した聖剣に切り刻まれた魔王は全身血まみれで今にも倒れそうによろめいているが、その鋭い眼光だけは俺たち勇者パーティーが玉座の間に突入した時のままで、忌々し気に俺を睨んでいる。まだHPが残っているのか。だが後ほんの一押しの筈。俺は鍛え抜いた廃人ゲーマーの勘でそう判断して、聖剣を通常状態に戻すと体ごと突っ込んだ。
こんなバンザイアタック、本来の魔王なら軽く躱していただろうが、もうその体力も残っていないようでただその胸を貫こうとする聖剣を睨み…とても嬉しそうに笑った。
「!?」
その表情に驚いた俺だが、勢いは止まらず聖剣は魔王の身体に突き刺さり、勢い余って背中まで突き抜けた。もう一度顔を確認すると、さっきの笑顔が幻覚だったかのような憎々しげな顔で俺を見て、そして黒い霧になって消えて行った。
「勇者様、やりましたね!」
今回は練りに練った戦略でノーダメージ撃破の予定だったため、後ろに控えていた女神官が魔王の消滅と共に飛び付いて、幾夜も俺を悶々とさせてきた本当に聖職者かと確認したくなる爆乳を押し付けてきた。まあこれはゲームクリアのご褒美だ。リアルに戻ったらこの感触を使わせて貰おう。
「グッジョブ…」
俺が教えた意味も良く判っていない言葉とサムズアップで女魔法使いも祝福してくれる。普段なら女神官が俺に懐いている時に嫉妬するこいつも、今だけは素直に冒険の成功を喜んでいるらしい。
「さっすが大将!俺っちあんたに付いて来て正解だったぜ!」
盗賊も俺の背中をバシバシ叩いて大喜び。どうでもいいが痛いわ、加減しろ。
「なぁ、最後魔王の奴…」
俺なりにこの異世界召喚の終わりに感動は有るが、どうしても最後の魔王の笑顔が気になって、一番近くにいたはずの盗賊に問いかけようとすると、魔王が座っていた玉座の上の虚空が突然輝きだす。光は段々と強くなり、一際輝いた後人型に収束する。
光が消えると、そこには身長約3mの腰まで届く金髪と白い翼を持った絶世の美女が浮いていた。目を閉じているので瞳の色は判らない。右手には天秤を持っている。俺を何の許可も無くこの世界に召喚して「勇者」にした、バランスを司るというクソ女神リュースリアだ。
嬉しそうに乳を俺の身体に擦り付けていた女神官は慌てて跪く。女魔法使いや盗賊はそれぞれ別の神を信仰しているのでそこまで畏まらないが、やはり世界の主神を前にすれば緊張せずにはいられないようで、直立不動で女神を見つめている。自然体なのは俺だけだ。
「勇者よ…」
失礼なことにこっちを見もせずに呼び掛けてくる。しかし俺もガキじゃない。せいぜい恭しく振る舞う事にする。
「女神さま、たった今使命を果たしました」
「ええ、見守っていましたよ。貴方にこの世界の命運を託して良かった…」
じゃあ手伝えよ、と言ってやりたい。あと声に無闇にエコーがかかっているのがうざい。
「私の働きでこの世界に平和を取り戻せた事、嬉しく思います」
「本当にありがとう、異世界の勇者。約束通り報sdfgjkl…」
何か言いかけた女神の声がまるでノイズの酷いラジオみたいに、突然意味の分からない音の羅列へと変わった。怪訝に思った俺が女神をもう一度見上げると、その美しい顔が、いや身体全体がモザイクだらけになっている。
なんだ一体、と叫ぼうとして、声が出ていない事に気付いた。慌てて見回すと辺り一面モザイクだらけ。盗賊も、女神官も、女魔法使いもモザイクだらけの顔で何か叫んでいるが、やはりノイズのようにしか聞こえない。そして最初は人だけにかかっていたモザイクは徐々に玉座の間全体に広がっていく。乱立する柱も、天井も、床もモザイクだ。そしてモザイクも多彩から無彩色へと変化して、世界が白と灰色と黒に満たされていく。世界だけじゃない。俺の身体も徐々にモザイクに浸食されていく。
助けてくれ、そう叫びたいのに声が出ない。なんでこんなことに?ようやく魔王を倒して、これからクーラーの効いた部屋でピザとコーラとゲーム三昧の楽しい毎日が始まるはずだったのに。そんな散り散りの思考もだんだん薄れていく。冒険の最初の頃、ダメージを受け過ぎた時のことをぼんやりと思い出す。ひょっとして、これでゲームオーバー…?
気が付くと、薄暗がりの中で横たわっていた。何とか身体を動かそうとするのだが妙に重い。力が入らないのではなく重い。しばらく考えてから、鎧を苦労しながら体から外していくと、自然に動けるようになった。足元に落ちていた、羽のように軽いはずの聖剣も持ち上げる事すらできない。改めて自分の身体を見ると、勇者として鍛え上げた筋肉質な身体はどこかに消え、よく鎧に収まっていたと思う懐かしい肥満体が目に映る。どうやら俺は「勇者」じゃなくなったらしい。
そこまで自分の状態を確認してから、辛く苦しい冒険を共にした頼もしい仲間たちが居ないか、周囲を見渡してみたけど、ここには俺しかいないようだ。もっともこの暗さではひょっとしたら見えていないだけかもしれない。
「お~い!盗賊!女神官!女魔法使い!」
仲間たちを呼んで、また声が元通り出るようになったのに気付いた。ではモザイクの浸食は一時的なものだったのか。じゃあ暗いのはなんでだ?と思ってぐるりと周りを見回すと、地面はのっぺりした黒い平面だが、頭上には星が瞬いているのが判った。では今は夜なのか。そもそもここは何だ?地面に触れてみると、金属でもセラミックでもない硬質な感触だ。叩いても触れた途端に、力が抜けるようになって痛いわけじゃないのに、全く窪窪まない。叩いた音も出ない。
この状況を打破できるとしたらあのクソ女神だろう。そう思って呼びかけてみる。
「女神さま〜!聞こえますか〜!コレどうなっているんですか〜?」
どんなに大きな声を出しても薄暗い空間に消えていくばかり。空間の広さを表すように全く音が反射する気配も無い。しかしどうしようもないので、女神と仲間たちに呼びかけながら、何か目印になる物は無いかと少しずつ向きを変えて地平線(?)を伺う。
するとある一点に光の粒が見えた。頭上に広がる星の一つではない事を慎重に確認し、確実にこの不思議な地面を歩いていけば辿り着ける何かだと確信してから、その光の方へ歩き出した。
それからどれくらい歩いただろうか、運動不足の元の体にしては疲労を感じないが、その代償に歩き始めてからの時間と距離の感覚が無い。もう無駄だと思いながら仲間たちに呼びかけながら、一旦体力ではなく気力を取り戻す為に休もうかと思った時だ。突然さっきまで間違いなく何も無かった場所に極彩色のナニカが見えた。
それはウミウシとナメクジをごちゃまぜにして牛の様な大きさにしたような何かだった。ナメクジはともかく、ウミウシはカラフルで好きな人もいるらしいが、俺はあのウネウネとした見た目が苦手だ。どちらにしても、手のひらサイズでなくあんな巨大ではだれも可愛らしいとは思わないだろうが。
その毒々しい色の何かはしばらく俺の視界をノロノロと横切っていたが、突然体の一部が俺の方へと細長く伸びてきた。本能的な嫌悪感を感じた俺は思わず後ずさる。すると足元にぐにゅっとした薄気味悪い感覚。下を見るとこちらは膝くらいの高さまでしかないが、同じようなウミウシのような何かを踏みつけていた。
「ひっ」
今度は悲鳴を上げてしまう。見た目が薄気味悪いだけで害があると決まったわけではないが、慌てて飛び退いた。勢い良く変化する視界がさっきまでの暗がりから突然明るくなったのに気づいて見回すと、小さい奴は俺の靴ほど、大きいのは最初の牛のような大きさまで、ウミウシもどきが俺を取り囲んでいるのに気づいた。
「なんだこれ、なんだこれ?」
どうしていいかわからず立ち往生していると、さっき踏みつけた小さなウミウシもどきが触手を伸ばしてきて俺の足に絡みつく。
「うわっ、放せ、放せ!」
慌てて足をぶんぶんと振り回すが、触手は外れない。思い切ってウミウシもどきを掴んで強引に引きはがすと触手がちぎれて足が自由になった。俺は手の中にいるウミウシもどきを思いっきり遠くへと投げ捨てる。
危機を脱したと思ったのもつかの間、俺が上げた悲鳴が原因か、触手がちぎれて何かフェロモンみたいなのが出たのか、周囲に居たほかのウミウシもどきがこちらに向かって近付いてきた。幸い動きはそんなに素早くない。俺は慌ててウミウシもどきがいない方角‐残念ながらさっきまで進んでいたのとは別の向き‐に向かって走って逃げだした。
「…ふふふ…」
どこからか、さっき斃したはずの魔王の含み笑いが聞こえた気がした。
「は~っ、は~っ、は~っ…」
どこに逃げてもウミウシもどきが居た。その度に逃げる方向を変えたせいでもう自分がどこを目指しているのか全然わからない。おまけに理不尽なことに、光を目指して歩いていた時は全く感じなかった疲労が足をだんだん重くする。何よりも心を削るのは時々どこからともなく含み笑いが聞こえてくることだ。声色は毎回違い、男なのか女なのか、若いのか老人なのかさっぱりだ。
そしてどこまでものっぺりしていたはずの地面にあちこち何か岩のような物が出現していた。今は岩陰に寄りかかって息を整えている最中だ。ウミウシもどきも岩を通り抜けたり、岩の向こうの俺が見えたりという事はないようなので小休止できる。もう一度最初に目指していた光を探して周囲をぐるっと見回す。
ここからは見えない。ひょっとして岩の向こうかもしれない。そう思った俺は岩に手をつきながらぐるっと回りこもうとする。すると岩陰からにゅっと最大サイズのウミウシもどきが姿を現した。
「ぎゃぁっ!」
奴が出現するなりこちらに触手を伸ばしてきたのを見て、俺は我ながら情けない悲鳴を上げて方向も考えず逃げ出す。だがさっきまで周囲に何も居なくて休めたはずの場所に、とても避けきれないほど大小もその色も様々なウミウシもどきが出現していた。
「…ふふふ…」
そしてまたあの含み笑い。今度はあのクソ女神のような気がする。ひょっとしてこれは報酬とやらを払いたくないあのクソ女神の陰謀なのだろうか。ほんの少しそんな恨み節が心に浮かんだが、そんなことをいつまでも気にしていられない程ウミウシもどきはうじゃうじゃと居る。多すぎて躱して逃げることもできないので、小さい奴を蹴り飛ばして走り出した。
最初は小さい奴を蹴っ飛ばせば何とか道が作れたが、ウミウシもどきの密度は増える一方で、今では小さい奴は踏みつけ、中くらいの大きさのやつをかき分け、大きい奴だけはさすがに避けて走っている。奴らは遠慮なく触手を俺に向かって伸ばしてくるが、力いっぱい動いていれば簡単に千切れるので、ブヨブヨとした嫌な感触を無視してとにかく走る。最初は無言で蠢いていたウミウシもどきたちはいつの間にか気分が滅入るようなボエーだからホゲーだかの叫び声を上げるようになり、まだ時々聞こえてくる正体不明の含み笑いと一緒になって、俺の聴覚さえもいつまで続くともわからない迷路の中へ閉じ込めようとしてくる。
だが希望が見えた。行く手にまた光が見えたのだ。それも粒ではなく手のひらサイズで、はっきりと光っているのがわかる。流れ出た汗で髪の毛は額に張り付き、肺は悲鳴を上げっぱなしで早く運動をやめろと訴えてくるが、光に向かって最後の気力を振り絞って走り抜けた。
光の下に辿り着いた途端、さっきまでうようよ湧き出していたウミウシもどきはすっかり姿を消した。光の正体は黒幕第一候補のクソ女神だった。
「おい、これは一体どういうことだ?報酬ってのは嘘だったのかよ?」
全力で糾弾したつもりだったが、疲れ切った肺は頼りない息を漏らすだけでとても声にならなかった。仕方がないので深呼吸を繰り返して息を整える。その間女神は無情にも荒い息を漏らす俺を‐瞳を閉じているからはっきりとは判らないが‐見つめているだけだった。それも俺を苛立たせた。やがて落ち着いた俺は改めて女神を問い質す。
「この薄気味悪い世界と化け物はあんたの仕業なのか、リュースリア」
今度はちゃんと言葉になったのに、女神は何も答えない。カッとなった俺は豊満な肢体の透けて見える薄絹の胸ぐらをつかむ。
「おい、なんとか言えよ、クソ女神!俺を元の世界に早く帰せ!」
すると女神は反応して、ずっと閉じていた瞼を開いた。そこに有ったのは瞳ではなく、虹色に輝く宝石だった。意外さに宝石を見つめるていると、掴んでいた布のサラサラした感触がネチョッとした気持ち悪い手触りになる。慌てて手元を見ると、俺の手がウミウシもどきの中に突っ込まれていた。悲鳴を上げる事すら出来ずに女神の顔を見直すと、それは女神でもなんでもない、巨大なウミウシもどきでしかなかった。ウミウシもどきは本来なら腹についている筈の大口を開け、何も言えずに固まったままの俺を一呑みにした。
気がつくと俺はウミウシもどきの触手らしき、薄気味悪い感触の何かに手首を掴まれて吊り下げられていた。かろうじて足はつくが、爪先立ちになるのが精一杯で足を踏み替える事もできない。
そしてその俺をじっと見つめる、グレーの三揃えに身を包んだ背の高い黒髪の男が居た。俺には同性愛嗜好はなかった筈だが、ゾッとするほど美しい無表情のその男を微笑ませる事が出来たらこの上ない法悦を感じるのでは、と思わされた。
耳を飾るピアスは一瞬ごとに球体にも四角錐にも見える。そしてその瞳は…虹色に輝く宝石だった。
「目が覚めたかな、偉大なる勇者くん?」
美しい声だ。心を蕩かすよう、とは当にこの声のことだろう。薄気味悪い何かに吊り下げられている苦痛を忘れそうになる程の涼しげな声に、直接脳を愛撫されている気分になる。
「…あんたが女神リュースリアの正体なのか」
意識を失う直前の状況からの当然の推論を確かめたつもりだったが、目の前の男は何か悩んでいる様子で直ぐには答えない。
「おい、ふざけてんのかよ!」
「ふざける?とんでもない、真剣に回答するつもりだとも。ただ僕がリュースリアかどうかとなると、正直僕にも良く判らないな。僕はいくつもの貌を持つけども、その全部をいちいち覚えちゃいないぜ」
突然乱暴な口調になったかと思うと、その姿は一瞬黒い霧に包まれ、再び現れたのはずっと一緒に旅をしてきた盗賊だった。
「え?…お前も、偽物…嘘だよな?」
「勿論嘘だぜ。これはおいらの力を見せるためにほんのちょっと化けただけ…勇者…貴方はそんな事にも…気付かない?」
今度は俺の頭一つ分も小さい姿と、その幼い姿に似つかわしくない嗄れ声の女魔法使い。
「くそっ。趣味の悪い野郎だ、皆の姿になって楽しいのか?」
「楽しい…この変身はおまけつき…姿を盗んだ相手の…本当の気持ちもわかりますの、勇者様」
また姿が変わる。禁欲的な法服が窮屈そうな、現実にはとても存在しないような豊満な肢体の女神官。
「ずっと言えずにおりましたの。お慕いしていますわ、勇者様」
そう言って女神官…の姿をした正体不明の何者かは、吊り下げられた不安定な姿勢でそれでも何とか相手を睨みつけていた俺の頬に手を添え、ゆっくりと唇を寄せてくる。その仕草にずっと狙っていた女からのキスを想像して思わず目を閉じると、数秒後耳に焼けるほどの痛みが走った。
「痛ぇ!」
慌てて目を開けると目の前には最初のスーツ姿に戻った空恐ろしい程の美形の顔。どうやら俺が目を閉じた隙に耳に噛みついたようだ。かなり強く噛んだようでわざと見せつけてきた歯には赤いものが付いている。最悪だ、こいつ。
「初心だねぇ、偉大なる勇者くん。本当に接吻されるとでも思ったのかな?ひょっとしたら本当の姿はさっきまで君が必死に逃げていた、あの薄気味悪い化け物かもしれないのに?」
「そうだ、あのウミウシもどきは何だ?突然現れたり無数に分裂したり、そんな事もお前はできるのか?」
「造作もない事だけど、それは僕の本当の姿があんな風だという証明にはならないなぁ。大体僕の正体なんか知って君に何の意味があるんだい?君が求めてるのは親の金で買ったマンションの一室でピザとコーラとネットゲームに耽溺する事だったんじゃなかったかな?」
揶揄するような奴の言葉でハッとする。
「そうだ、俺は元の世界に戻れるのか?お前にはそれができるのか?」
「勿論できるし、その前にお礼を直接言うために、僕は君を此処にお迎えしたんだよ。何しろ僕は君に多大な恩義があるものだから、大抵の願いは叶えてあげるとも」
「恩?やっぱりお前が女神で、あの世界を救ったから帰してくれるって事か?」
「いやいや、あの世界の運命に興味は無いさ。ただあの世界にはこの僕を一ヶ所に繋ぎ留めておく楔が刺さっていてね。それを君が抜いてくれたのさ」
「楔?」
そんな物は全く記憶にない。こいつは何か勘違いしているんじゃないだろうか。
「サルファルシー…とか呼ばれていたかな」
「聖剣?つまり俺が剣を封印から解いたから自由になった…」
その時、魔王の最後の嬉しそうな笑顔を思い出した。
「ひょっとしてあの魔王は…」
「ああ、それは僕の力の小さな欠片で間違いないとも。あの世界を滅ぼそうとすれば、誰かがサルファルシーを抜いてくれると思ったんでね。本当にありがとう、この通りだ」
そう言った男は深くお辞儀をしてみせた後、俺の心を鷲掴みにするようなウィンクをした。だがこいつの言葉はとても聞き捨てならない物を含んでいた。
「そんな事のために世界を…」
「いやいや、大事な事さ。君だって自由は大切だ、と子供の頃から教えられてきたし、それを実践してきたんじゃないかな、親の金で」
なんだか嘲られている気がするが、確かにあの世界の運命に今はもうそれ程興味が無いのは確かだった。
「お前の事情は分かった。納得したわけじゃないが割り切ってやる。帰すなら早くしてくれ」
「残念ながら事はそう簡単ではない。君は自分の罪を清算しなければ元の世界には帰れないのさ」
「罪?俺にそんな物は無い。俺は世界を救った勇者なんだぞ」
「いやいや、間違いなく罪は有るとも。僕が自由になるための陰謀に唆されただけの魔族を何人殺した?魔族に飼われていたモンスターは?それに…おっと、これを言うのは野暮という物か。とにかく君が罪を贖う事が出来たならば、その瞬間君は懐かしいゲームソフトとゴミ袋に満ち溢れた広い部屋に自分を見出すとも」
そう言うと謎の男は宝石でできた目で俺の瞳をのぞき込んだ。繰り返すが俺に同性愛の趣味は無い。その筈なのにその宝石は俺の視線を捉えて離さない。見つめ合っていると虹の宝石は段々光り輝き始め、眩さに目を閉じたいと思っているのにどうしてもそうできない。いよいよ我慢が出来ないほど光が強くなると、その光に塗りつぶされるように俺の意識は再び薄れていった。
読んでくださってありがとうございました。
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