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ケトル

作者: 海上

「失恋というよりも、思いの保温ができなかっただけなんだよね」






私の恋はケトルのように沸きやすくて、冷めやすいと思う。






︎*


 稽古場を出た佐山(さやま)詩子(うたこ)に風がゆらゆらと漂って包むように吹いていた。

 掃除をしているみたいに茶色い落ち葉を転がす(かぜ)に、ホウキなんて要らないなあと吐いた息は少し白い。

 今年の夏は肌が溶けてしまいそうなほど過度に暑くて、夏から秋に変わる頃にはグラデーションのような緩和はなく、白から黒とはっきり変わるように急に寒くなった気がしていた。今年がこんなに激しいのだから、来年の夏の暑さや冬の寒さがもう怖く感じる。

 詩子は、あやふやではっきりしないことが嫌いだったので、今年の季節が好きだった。はっきりした世界にいることではっきりと自分の存在を感じられるからだ。グラデーションのようにあやふやで不安定な人は、はっきりの世界には生き残れない。そんな世界で生き残れた自分は悦ばしいことである。

 妄想で自分を讃えながら街灯に照らされた夜の道を歩いて家へ向かう。

 詩子は今、もどかしくてたまらない。大学を卒業して女優になるために小さな事務所に入ってから初めて貰った台本の台詞に困ってしまっていた。

 「好きなのかもしれない」とか「そうじゃないかもしれない」とか「嬉しいけれど眉を下げる」とか「相手には見えないところで悲しみを表す」なんて、最高にあやふやすぎている。伝わらなければ意味がないのに。

 役が貰えたことは嬉しいけれど、この台詞や表情をする配役に自分自身がのめり込むことはできないと詩子は判断していた。役が貰えた嬉しさは、台本に対しての(いと)わしさによってすぐ消えていたのだ。

 「好きなのかもしれない」なんて「好き」って言っているものだし「かもしれない」なんて保険に嫌気がさす。

 断言しないことのために思っていることをどうして簡単に使ってしまうのか。断言したくないなら言わなければいいのに。断言したいときまで秘めていたらいいのに。

 考え事に終わりが見えなくて勢いで吐いた息はやはり少しだけ白かった。


 一人暮らしの家に着いて部屋の電気をつける。誰もいないけれど「ただいま」と声をかけてバッグを玄関に置く。上下種類の違う部屋着に着替えてから、また玄関へ行き、バッグから台本と携帯を取り出してリビングのソファに座る。

 サーフィンの動画をユーチューブで検索する。詩子はサーファーの一人称視点動画が大好きだ。自分では泳げない海の表面を泳いだ気になるからだ。どこまでも続く水平線へと向かうような姿勢が好きだからだ。なによりも、街の建造物などない水と空のはっきりとした世界が映し出されているからだ。

 自分がどこに向かえばいいのか、悩んでしまっているときに見るのが好きだった。どうすればいいか不安なときこそ果てしなく広い海を見ることにしよう、と詩子は自分なりの回避を身につけていた。

 動画を見ながら台本をめくる。相変わらずあやふやなままだった。

 喉が渇いたので携帯と台本をテーブルに置いて立ち上がり、電気ケトルでお湯を沸かしてマグカップには紅茶の茶葉を用意する。

 ケトルは優秀で好きだ。飲みたいときに飲みたい分だけ沸かすことができる。そして沸く時間も圧倒的に早い。沸けば電気も自動的に消えるので安心である。

 詩子はメリットばかりが目立つケトルのデメリットが知りたくなった。お湯が沸くまであと数分。

 テーブルの方へ歩いて携帯を手に持つ。ロック画面を解除してからヤフーを開いて『ケトル デメリット』と検索した。結果として出てきたのは『保温ができない』ということだった。単純に冷めやすいということか。

 ケトルがパチンと音を鳴らして自動的に電源が切れる。沸いた合図だ。

 携帯をテーブルの上に置いてキッチンへ向かい、ケトルの取っ手を持ってマグカップにお湯を注ぐ。アツアツなお湯が茶葉を転がして、だんだんと透明な水面に色がついてきた。昇ってくる湯気からはいい香りが漂ってくる。

 ストレートな紅茶に角砂糖を三つ入れてそのままスプーンで混ぜる。

 紅茶の入ったマグカップをテーブルへ持っていき、ソファに座ったあと、一息ついて台本をまた読み始める。読んで、覚えて、読んで、悩んで、を繰り返しながら紅茶を飲む。

 少しずつ感情移入ができなくなったのか集中が切れ始めた詩子の体はソワソワしていた。

 いつのまにか時刻は二三時を過ぎている。お風呂に入るついでに気分転換でもしよう、とお風呂の準備をしたあとにお湯を沸かすボタンを押した。

 ケトルのように自分の好きなタイミングで早く沸けばいいのに、と詩子は思いながら少し冷めた紅茶を飲んでいた。



 「好きなのかもしれない」

詩子は迷った表情をしながら相手の人に台詞を発した。何台ものカメラのレンズが詩子に向けられている。詩子の言葉が、声が、マイクに拾われていく。今、この静寂は詩子が支配している。

 「カット」という声が響いて素に戻る。その声には少しの苛立ちが混ざっていた。

「佐山さん、表情だよ。表情が違う」

「表情ですか」

「眉間に皺が寄ってる。もっと自信持った感じで」

詩子は監督のダメ出しにモヤモヤしていた。自信を持っているような顔をするなら「かもしれない」なんて保険は要らないのではないか、まだ断言できないのだから迷った表情が正解なのではないか、そう言ってやりたかった。

「すみません、もう一度お願いします」

「気をつけてよ」

このままじゃダメだ、と詩子は自分の思いを打ち消した。女優として仕事をするならば、自分以外の自分を何人も作らなければいけない。

 この作品に侵略していくのは私の考えではない。私という外見なのだ。私ではない私を欲しているのである。

 詩子は関係者に頭を下げて撮影を再開した。


 放送日が来年の夏ということで、用意されている半袖の服を着る。秋らしくない肌寒さを我慢しながら次の場面撮影へ向かう詩子は、秋に撮影したものが夏に撮影したように見せることに驚きを隠せなかった。

 詩子には全部が初めてだったので、いちいち驚きを隠せない。事務所が小さいということもあり、細かい説明のないまま自分がスケジュールを確認して一人で撮影に挑んでいたので誰かと話す機会がほとんどなかった。撮影したものを編集したりするから期間をあけて来年の夏に放送するという流れも知らなかったのだ。

 着替えの用意が早すぎたのか、撮影場所では関係者が準備をし始めるところだった。監督は脚本家と雑談をしている。

 ぽつんとした自分の居心地が悪くなって楽屋というバスに戻る。携帯と台本を持ち出して撮影場所の休憩所の椅子に座った。

 壁に貼られている『本日のスケジュール』には、次の撮影時間まで結構な空き時間があるようだった。

 詩子は怖くなっていた。女優という仕事を掴むためには私が私じゃなくなる必要がある。このまま仕事を続ければ、私は消えていくんじゃないかと感じていた。

 考えれば考えるほど悩んでしまいそうになったので、急いでユーチューブを開き、サーファーの一人称視点動画を見た。

 映し出された水平線を無になって見ていると不安定な気持ちがだんだんと自分らしく成り立ってくる。このまま、この気持ちのまま休憩を終わらせてやると詩子は決めた。

 台詞は覚えている。台本を何度も確認した際に何度も自分があやふやになってたまるか、と気を強く持った。

「水平線綺麗だね」

背後からの声は相手役の梶谷(かじたに)和透(かずと)だった。二〇代後半で詩子より三つくらい上の雰囲気がある。彼も新人ではあるけれど、俳優賞を取っている部類の新人だ。自分のように生まれたての新人ではないのだ。

 振り返ったとき間近に顔があったため、今まで勝手に動画を覗いていたことを察した。

梶谷(かじたに)さん、こんにちは」

佐山(さやま)さん、こんにちは。水平線いいよね。僕は地平線のが好きだけど」

「地平線いいですね。でも私は水平線が好きです」

彼は笑った。そして詩子も笑う。梶谷のはっきりした言い分に似たような何かを感じていたのだ。

 梶谷は地平線の良さを語った。彼が言うには、水平線は幻想的で地平線は現実的である、と。

「僕らは地面を歩くことができて、そのまま進みたい方向に進めるんだよ。地平線を目指して歩いたらいつか辿り着けるはずなんだ。果てしない水平線よりも可能性が見えるから現実的で好きなんだ。水平線も素敵なんだけどね」

 詩子は水平線の良さを語った。

「考えるときこそ果てしない方がいい。ずっと向こうに存在しているのがいい。辿り着けなくていい。空と水という二つのはっきりした世界が素敵なんです。地平線も魅力的なんですけどね」

どちらも天地の分かれに該当するから良さは大体同じなんだけどね、なんて話して語り合いは終止符を打った。

「佐山さん、台本に納得していないでしょ」

彼が新しい会話のテーマを提供したなと思えば、図星をつかれたことに驚きを隠せない。

「どうしてですか」

「さっきの『好きなのかもしれない』ってシーンのところ。監督の指摘に不満があったように見えたんだよね」

「ありましたね。でも初めての演技なので、不満がある時点で素人ですよね」

「どんな不満?」

「『かもしれない』って保険つけて好きと断言しないのに、どうして自信を持っている顔をするんだろうって思ってましたね」

「分かるよ。可能性に賭けて本当の気持ちを軽く考えている感じがするよね。だけど自信持ってる表情、上手だったよ」

詩子は梶谷の言葉に胸がじんと熱くなった。地平線と水平線の語り合いもそうだった、彼は自分のようにはっきりしている世界にいるのだ。

 詩子は自分の中にある「はっきりの世界」に梶谷を入れた。彼なら生き残れると思ったからだ。関係を築いていけると思ったのだ。

 気がつけば彼を見る眼差しの熱さの意味を知っていた。あの胸の熱さの理由もしっかりと理解していた。胸の中でパチンと音が鳴った。



 梶谷(かじたに)和透(かずと)と話すようになってから現場に行くのが楽しくなった。

 演技をするときも、休憩するときも、撮影が終わるときも、全部一緒だった。話をすることで関係者とも会話が弾むようになった。

 梶谷は演技と現実で抑揚をつけることを教えてくれた。不満を感じても、違和感を覚えても、その場では上手くやって、仕事を終えれば違うものは違うと思えばいいんだ、と。自分も思ってしまうから、休憩中に愚痴会でもしよう、と。

 梶谷と詩子の役は恋人同士だった。ロマンチストで盲目的な役柄なのに、演者二人、現実ではロマンチックに批判的。

 台本に「はっきりしろ!」とツッコミを入れてしまうほどに隠れて作品を嫌っていた。

「もし、世界が敵になっても守ってみせるよ」

梶谷が台詞を言う。詩子はその言葉に嬉しくない表情をしていた。

 「カット」という声が響いて、やってしまったと我に返る。監督はため息を吐いていた。

「佐山さん、ここ大事な場面なんだよ。佳境なんだよ。しっかりやってよ」

「すみません、もう一度お願いします」

この台詞は名言になるのか、ここが佳境なのか、椅子に戻っていく監督の背中に詩子はちょっとだけ笑ってしまう。誰にも見られていませんようにと周りを確認すれば梶谷と目が合う。

 詩子は撮影を止めてしまったことや、梶谷が教えてくれたように不満を我慢出来なかったことに対して頭を下げた。梶谷は微笑みながら「僕もここ嫌い」と口パクで共感を語っていた。

 

 この撮影ももう終盤に近いと、梶谷と詩子は休憩中に話していた。

 こんな自分を押し殺すような撮影が女優業ならば演者に人生を捧ぐのは諦めようと考えながら、梶谷が同業でいるならば邁進しようかとも考えていた。

 撮影が終わるのは気分がよかったけれど、梶谷に会えなくなるのははっきりと嫌だったのだ。

「佐山さんの嬉しくないような表情よかったよ」

「梶谷さんの嫌いだって言っていたときの微笑みもよかったですよ」

「あの台詞が僕の中でとびきり嫌いだった。演じてる僕でさえも状況が分からなかったよ。『え、政府に追われる可能性あったっけ?』ってなってた」

「でも素敵な演技でした。さすがです」

「佐山さんも素敵だったよ。微笑みながら愚直に眉を下げたところとか、悲しそうな目を少しだけ見せているところとか、監督が褒めていたよ。脚本家も気合いを入れていた箇所みたいだったから嬉しそうにしていたし」

「思いの違いを表してみたんです。どうせ最後は別れてしまうから」

「佐山さんって、関係がはっきりしてくる終盤の演技が得意なんだろうね」

続けて「まだ撮影もしていないのに別れることなんて言わないでよ」と冗談っぽく言っていた。

「梶谷さんはこのドラマの結末をどう思ったんですか」

「別れてしまうのは当然だと思ったよ。あやふやな関係で在りすぎた彼らが悪い」

梶谷の言葉に詩子も頷いた。自分もそう思っていたからだ。愛を表す言葉の規模が大きい関係こそ脆いものだと思っていたのだ。

 同じ「はっきりの世界」の住民なのだから、考えていることも同じということは分かっていたけれど、詩子は胸が痛かった。

 別れてしまうのは当然だと言う梶谷の言葉が、詩子が思う梶谷と自分の関係性をはっきりと否定された気になっていたからだ。

 詩子の熱い思いはずっと温かいままなのだ。それは梶谷が火傷をしてしまうくらい熱くてはっきりとしている。


 休憩が終わって終盤の撮影に入る。

詩子は梶谷を思いながら、役として別れを告げる。梶谷からは「やり直せるよ」と引き止められ、それが嬉しいと思いながらも軽くあしらう。最後の勢いで抱き締められるけれど、詩子は「嫌い」とひとこと呟いて一人で歩いて行くのだ。

 梶谷の好きな地平線を見ながら歩いて行く詩子は自然と涙が出た。

 カメラのレンズは梶谷を見ている。

 ダメ出しをするためのカットがかかればいいのにと思った。このまま別れたくなかった。やり直せると言うのだから、やり直せるだろうと思っていた。嫌いではなく、好きなんだと叫びたかった。

 監督と脚本家は満足そうにオッケーサインを出した。梶谷も満足そうに「やったね」と口パクで言っていた。詩子は誰にも見られないように涙を拭いて梶谷に頷いて見せた。

 クランクアップのお祝いで花束が出てくる。監督は梶谷へ、脚本家は詩子へ、と花束を渡す。脚本家が最後の言葉を話している中、詩子は梶谷しか見ていなかった。梶谷と話をしたかった。梶谷へ自分が貰った花束を渡したかった。

 詩子の熱を遮るように雨がぽつぽつと降り始めた。

 関係者に促され、急いで楽屋というバスに乗り込む。座席に花束を置いて少しだけ濡れている衣装を脱ぎ、用意されていたタオルで肌を拭いてから私服に着替える。

 冷えた体を温めるためにバス内に常備されていたケトルのお茶を紙コップに注いだ。

 梶谷とはもう会わないのだろうか、と思いながらひと口含む。また会えるはずだ、と思いながらまたひと口含む。

 詩子は携帯を持ち、梶谷を知るため、ウィキペディアではなく『地平線』の画像を検索した。



 地平線を見ると進みたくなる、水平線を見ると眺めたくなる。

 梶谷のことを思いながら画像を見ていたら詩子はそんな結論に辿り着いた。

 ドラマの撮影が終わったあの日から、梶谷とは会わなくなった。彼は新しいドラマに出演していたり、雑誌に載っていたり、化粧品のポスターに写っていたり、多方面で活躍している。

 会っていないのに、詩子は幸せだった。顔を見れたことで元気になれた。

 詩子は稽古場と家を往復する毎日で、新しい仕事はご無沙汰だった。これからも演者を続けていくのかということを迷いながら、毎日演者として稽古場に通っているあやふやな自分に嫌気がさしていた。そろそろはっきりしなきゃいけない。自分のためにも、梶谷のためにも。

 

 ケトルに一杯分の水を入れて沸かす。マグカップには紅茶の茶葉を用意しておく。

 時刻は一七時ごろ。窓の外を見ると日が落ちかけていた。地平線がくっきり見えているのを感じながら、冬になると太陽が低い空までしか昇らないから暗くなるのが早いなあと何度も感心する。

 ネイビーな空を背景にしてしっかりと存在し続ける地平線、建造物でがたがたしていても梶谷が好きなこの線が素敵だなと思った。

 ケトルがパチンと音を鳴らして自動的に電源が切れる。沸いた合図だ。

 ケトルの取っ手を持ってマグカップにお湯を注ぐ。アツアツなお湯が茶葉を転がして、だんだんと透明な水面に色がついてきた。昇ってくる湯気からはいい香りが漂ってくる。

 ストレートな紅茶に角砂糖を三つ入れてそのままスプーンで混ぜる。

 夕食にカップラーメンでも食べようかと思っていた矢先、補充を切らしていたことを思い出した。あいにく冷蔵庫も空っぽだ。

 こんな寒い日に外に出なければいけない。行きたくないと思っていても、お腹は空いてくるばかりで買い物に行く以外の選択肢はないみたいだった。

 上下種類の違う部屋着の上から厚手の長い茶色のコートを羽織る。部屋の暖房を消して、紅茶を口いっぱいに含んで玄関へ行く。雑に放置してあったカバンから携帯と財布を拾い上げ、コートのポケットに入れた。スニーカーの(かかと)を踏みながら家を出た。

 

 冬の風がびゅーっと音を鳴らしながら吹いていた。街は光で満ち溢れていた。クリスマスが近いことを光の多さで思い出す。

 スーパーに着いて、カゴを持ったあとカップラーメンのコーナーへ早足で行く。うどんやそば、ラーメンやパスタのカップヌードルを六つくらいカゴに入れる。そして紅茶の茶葉を二袋と一リットルの水を二本追加した。

 半額のシールが貼られているショートケーキが目に入る。そろそろクリスマスが来るし、給料も思いのほか入っていたため買うことに決めた詩子はカゴの重さにお金持ち気分を味わっていた。

 店内を一周してレジにてお金を支払う。商品を精算している店員の頭にはサンタのかぶりもの。単純にかわいそうだなと思った詩子と、子どもの夢を壊しそうだなと思った詩子がいた。

 大きな袋に買ったものを乱雑に詰めて重さを我慢しながらスーパーを出た。

 

 梶谷(かじたに)和透(かずと)が前方を歩いているのが見えた。マスクをして、黒い帽子をかぶっていたけれど、雰囲気で彼だと分かった。

 詩子は話しかけたくても話しかけられなかった。コートを羽織っているけれど下は部屋着、カップラーメンばかりが詰まってぱんぱんになっている買い物袋、乱れた髪の毛。それだけではない。

 詩子は梶谷の少し後ろで歩いている女性に気づいていた。

 数歩進めば振り返る梶谷、それを見る女性。隣にいるわけではないし、手を繋いでいるわけでもないけれど、二人が一つに見えたのだ。二人は恋人同士なんだな、と理解したのだ。

 詩子の熱はだんだんと冷めていく。梶谷が大嫌いになったというわけではなく、単純に熱い思いが冷めて最初から何もなかったような感覚になったということである。

 ケトルみたいだな、と詩子は思った。

 自分のはっきりした感情がケトルのメリットやデメリットに似ている。「熱しやすく冷めやすい」なんて、今の自分の抑揚にぴったり合っていると。

 梶谷と女性はクリスマスの飾り物で溢れているきらきらしたデパートへ入って行った。

「さようなら」

詩子は「はっきりの世界」から梶谷を除外する。勝手に入れたくせに、勝手に除外をした。

 何もなくなったのに梶谷の良さだけは忘れたくなかった。地平線の良さを語る彼とはずっと話をしていたいし、あのはっきりした性格も良かった。今でも素敵だと感じている。

 後ろに隠していた買い物袋を持ち直してポケットから携帯を取り出す。悴んだ手で携帯の操作が上手くできない。何度も息で温めながら文字を打っていく。

 吐いた息が真っ白になるくらいの冬空の下、『はっきりとしている役をください』と事務所にメールを送っている詩子の姿がそこにあった。





 最後に梶谷和透の不満を我慢する方法を捨て、自分に合ったはっきりしている役を自ら掴みに行った佐山詩子はかっこいい!と思いました。

 梶谷が悪いやつとかではなく、(寧ろ、道を開いてくれた恩人なのだけれど)人のやり方を鵜呑みにせず、自分らしく在るために自分なりの演者を続けていくと決心した詩子。

 出会いや別れを通じて成長するというのは本物だなと、この物語を書きながら理解しました。

 長々しい恋愛よりも、淡々と進む恋愛も素敵だなと。パチンとケトルの沸いた合図のように熱を感じて、シュッと冷めていく。そんな恋愛もいいものです。

 この物語、紅茶のお供にでもどうでしょうか。

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