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公正と正義

作者: 鈴木美脳

正義が公正を定めるのか? 公正が正義を定めるのか?


正義が公正を定めるのではなく、公正が正義を定めるのだと思う。つまり、正義かどうか問うならば結局、公正かどうかを問うことになる。


なぜなら、愛とは何か? 愛とは、自分さえ良ければいい、という発想の逆の発想のことだ。他者の幸せを思いやることであり、そのためには、他者の内にある心の迷いや苦しみに寄り添って感覚し考えることを必要とする。他者の苦楽を完全に自分自身のことのように感覚する発想は、良い家族などには普通に見られる。そのとき、家族という範囲において公正が実現されていると言える。同様に、一般に、思いやることは公正の範囲、つまり公正の質を高める。よって、愛とは公正であり、ゆえに正義も公正に由来する。


ある正義論、つまり正義のある定義が、真正のものであるか調べるためには、それによってリベラリズムを批判的に検討できるか試してみることが有用だろう。もしリベラリズムについて批判的に検討できなければ、その考え方は、多くの問題を引き起こし批判もされているリベラリズムの範疇をどうといって超えていないことになり、つまりは、リベラリズムそのものだということになる。例えば、単に自由や平等を唱えることは、偽善的な学者でも受け売りでできることであって、正義の概念を真正に定義することにはならない。


リベラリズムとは、共産主義と自由市場主義である。すなわち、福祉の充実を図る労働者と、制約なき経済活動を求める資本家の複合体である。よって例えば、移民を推進して労働者の立場を低下させるとともに、労働者の不満を福祉の不足や不平等へと向ける。そしてその平等主義によって生じた市民主義によって、国家などの権力を否定していく。リベラリズムは、国家や民族を否定してユートピアを夢想するが、実際には市場原理、ひいては技術力のダイナミズムに屈従していく。


リベラリズムは、大衆的である。というのも、平凡なすべての人々を肯定しようとするが、多数者以上に倫理的であろうとはしない。しんがりを務めて英雄として死のうとはしない。人間の利己性への肯定があり、自らの利己性への許しがある。他者が死を恐れることを肯定するが、自分が死から逃れるために他者を死に追いやることを否定しはしない。自分よりも他者を愛する自己犠牲の美学を持たず、他者への愛は自己への愛のための手段にすぎない。そのため、リベラリズムは自己愛だけで構成できる。


自己愛に由来する他者への愛情は偽りのものであって、つまり根本的には、他者を自分のための道具としてしか感覚していない。自己愛にとって合理的なときには他者に対して笑顔や馴れ合いで接するが、状況が変われば手のひらを返す。そのため、利害によって圧迫すれば、どんな声高に謳っていた友情や絆をも放棄する。集団のための自己犠牲的な信念が共有されていないために、烏合の衆の弱さを備え、つまり大衆的である。


しかし、利害によって圧迫されて状況が変わったとしても手のひらを返さないことが、人間にとっての友情の定義である。よって損得勘定で生きている人と友人になることは、表面的には可能であっても、実際的には不可能だ。同様に、リベラリズムの政治的な主張によって手をたずさえていても、心通じ合う友情は存在せず、極端には内ゲバで背反する。それは、互いを結局は道具としてしか見なしていないからであって、人間的なロマンの理想を共有していないからである。人格的に尊敬することもなければ、人格的に尊敬されることもない。それはつまり、人格的な尊敬という、人間という生物の歴史的な機能を喪失していく現象である。


一方逆に、公正を起点として発想していたならば、私的な利害によって圧迫されて状況が変わったとしても、推論や結論に影響が生じない。なぜなら、のちの世の人々の幸福にとって合理的な振る舞いとして、正義は客観的な実在だからである。他者を愛するということは、他者を愛するという生き様を見せるということであり、残る人々に明日のための夢を託すことである。例えば、嘘をつかないということ、価値判断を主張したり行ったりするときに、利己的に好都合なダブルスタンダードを行ってはならないと自覚していること。それが公正であって、公正とは、人間のうちの自己愛を超越した部分のことである。


世俗的には、男性は若く美しい女性を好み、女性は裕福で権威ある男性を好み、そんな言わば私利私欲を「愛」として自覚する。そしてやがて家族を持ち、子供を育てるなかで、自己中心的であった幼稚な精神は次第に大人びていくが、自己愛を逸脱しないうちに多くは寿命を迎えてしまう。自分さえ良けれればいいという発想が、自分から家族に広がるくらいであって、他者一般への公正の発想を感覚するには至らない。正義の息吹を知ることがない。よって、社会的な価値についての正しい知識は、ごく少数者のものでありつづける。


しかし、知識が知られないことは、客観的な事実を変えない。社会あるところ公正というものが存在し、公正こそが愛であり、公正こそが普遍的な価値である事実は変わらない。

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[一言]  おはようございます  御返事 とても ありがとうございます!!!  まさにというか じぶんの言語化へたくそ    な部分をすべて 綺麗に, 埋めていただけました。 -(1つ読みつつ再確認…
[一言]  こんにちは 「人」。にんげん -- とは  ヒーローもので悪役が 人間をそしるけれどそれは・・・人間の英知を~利用する法の逆手を描いているのだろう と思えて。  語彙の個体間の違い …
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