灰色の背中 1
大学は実質九月いっぱいは夏休みだ。二か月も休みだなんて、日本の大学生は腐る一方だ。
その一か月に腐りかけの俺たちは本格的に映画制作に取り掛かっていた。脚本のグループが三年の先輩を中心に七月くらいから書きはじめていたのをもらい、初めは撮影に必要な道具や日程の確認などの会議が続く。桃はいつからか脚本の方に入っていたらしく、先輩は桃の出すアイデアや世界観をいたくほめていた。日程など、大体のベースが決まると、いよいよそのスケジュールに合わせた撮影に入る。先輩いわく、一ヶ月半くらいで撮り終え、学際前日まで編集に追われるのがいつものコースらしい。
俺はカメラ班で、メインのフィルム用のカメラではなく、予備のビデオカメラの方を今回は任されることになっていた。
「いよいよやな。なんか、やっぱ高校なんかより本格的で、わくわくするわ」
蒼汰は台本にたくさんの書き込みをしながら、そう呟いた。最近、三食ほとんど学食だ。そして、たいていこいつと一緒だった。俺も自分なりにメモを書き込んだ台本をめくりながら、食後の冷たいお茶をのどに流し込む。
「明後日からは、長野だろ?準備しているのか?」
ロケと称した合宿のようなものに出かけることになっていた。全員が行くわけではないが、今年は一年は全員参加だ。
「もちろんや。でも、楽しみやな〜。お前も、藍ちゃんと旅行って楽しみなんやろ?」
「はぁ?」
俺は思わず噴き出しそうになる。
なんとかこらえ、缶を置くと、蒼汰を見つめた。蒼汰はいたずらっぽくこちらを見上げながら肩を揺らす。
「お、ポーカーフェイスがくずれたな。やっぱり、そうなんや」
「何がだよ!」
むきになって突っかかると、奴はポンポンと肩を叩き、俺の台本を手から奪い適当に広げた。そして、それを見てにやりとする。
「ほら…ここにめっちゃ『園田青は御影藍が好きです』って書いてんで」
「馬鹿!」
俺は顔が熱くなるのを隠せないまま、台本を取り上げるとそのページをみた。別に、そんな事どこにも書いていない。
「何を…」
「ほら、藍ちゃんのシーン…そこになると、自分の担当カメラ以外の書き込みも丁寧にしてある…藍ちゃんがどう撮られるか、気になるってことやろ?」
「それは」
無意識だった。
でも、指摘されて見直すと、確かに…彼女のシーンは他より書き込みが多い気もする。
「応援したるって。な?」
「勝手に勘違いすんなよ。俺は別に…」
その時、蒼汰が俺の背後の誰かに気が付き、軽く手を挙げた。
「おう!これは大女優と人気脚本家さん」
藍と桃だ。俺は一気に恥ずかしくなって、熱くなってきた顔を隠すように俯く。
「先に休憩だったんだ。…どうしたの?」
藍が俺の顔を覗き込む。蒼汰は楽しそうにそんな俺の様子を見ながら
「青は今、病気やねん。なんなら藍ちゃん、看病したってや」
軽口を叩いた。
「え、具合悪いの?」
桃が俺の額に手を置く。
「熱は…ないみたいだけど」
「合宿、行けそう?」
この時ばかりは鈍感な二人に感謝しながら、俺は無言でうなずくと、さっさと机の上を片付け「蒼汰、時間だ。行くぞ」無愛想な面でその場から逃げだした。
集合時間には少し早かった。部室棟にはさほど人の気配がなく、俺は蒼汰に小突かれながら部室に向かった。このくそ熱い中、食堂にいられないなら部室くらいしか避暑地はない。
その時、部室の方から何か倒れる音がした。
俺と蒼汰は顔を見わせる。足早にドアの前まで来ると、やはり物音は映画部の部室かららしかった。
「なんや」
蒼汰がドアノブに手をかけようとしたのを、俺が止める。何か…中から言い争いのようなものが聞こえたからだ。
「様子を見よう」
先輩同士の喧嘩なら、巻き込まれたくない。蒼汰は不服そうに俺を見つめてから、そっとドアに耳を寄せた。声は男性と…女性のもののようだった。男性がひどく怒っていて、女性の方が諫めている感じだ。ドア越しの声はぼんやりしていて、内容まではよく聞き取れないが…時折、物がぶつかる音がする。
「おい…これって…」
「部長と紅先輩や」
蒼汰の顔色がおかしい。そう思った次の瞬間、奴はもう行動に出ていた。こちらが止める間もなく蒼汰は硬い表情で部室のドアを開けると、躊躇いもせずに踏み込む。
「部長!なにしてるんですか!!」
「蒼…っ」
蒼汰を止めようと腕を掴みながら部室に入った俺の目に映ったのは、椅子や台本が散乱する床に上半身だけ起こして倒れている紅先輩と、拳を握り締めてそれを見下ろす部長だった。一瞬で、部長が紅先輩に暴力をふるっていたんじゃないかという疑いが浮上する。
しかし、考えにくかった。二人はいつも一緒で仲が良かったし…第一、部長はいつも温厚で優しく気が利いて…とうてい誰かに暴力をふるうような人間には見えないからだ。
「梅田、園田…早かったな」
神崎川部長は動揺するでもなく俺たちを見ると、いつもの様子で微笑みかけた。蒼汰は紅先輩に駆け寄り、立たせながら部長を睨みつける。
「部長…これは…」
「演技指導だよ」にこりとしながら事もなげに言い放つ。
俺はその部長の笑顔に何故か背中が冷たくなった。たぶん…嘘だ。今回の台本に、こんなシーンはないし…紅先輩だって黙っている。
「そんな…」
訝しむ蒼汰に聞かせるように、部長は大きな声で
「そうだよな?紅」
そう答えを強制するように尋ねた。紅先輩は小さく頷くと、蒼汰から離れてぎこちない笑みを浮かべる。
「本当よ。そんなに迫真の演技だったかしら」
嘘だ。演技なんかじゃない。
だけど、俺たちにはそれ以上聞くことはできなかった。