モノクロな静寂 2
自分がここに何しに来たのか、混乱し始めていた。
たぶん二人とも、何故ここで再会しようとしたのか、本当は明確な答えなんてもってないのだろう。
もしかしたらさっきのキスだって、十年ぶりにくすぶっていた想いの相手と偶然出くわし、気持が爆ぜた……それだけの事なのかもしれない。
俺は足元に転がっていた眼鏡を拾うと、それをかけて一瞥もくれないで言い放った。
「もし、ただ。過去を清算したいためだけに、俺を呼んだんなら。もう、あの日の事は忘れていいよ」
そうだ。いくら後悔と謝罪を重ねた所で、何にも変わらない。そして、それが彼女の目的だったんなら、これ以上自分の気持ちをさらすのは滑稽でしかない気がした。
「ごめん。さっきのも忘れて? どうか……お幸せに」
俺はまた、眼鏡越しの世界に戻り薄笑いを浮かべる。そのまま、もう気持ちが零れ落ちてしまわないように背を向けた。
「待って!」
その背に、またあの髪の香りがする。背中にしがみつくその温もりは、今度はあんなあやふやなものじゃなく
「もう、行かないで」
呟く涙その声は、現実への裏切りだった。
「……」
引き止める髪の香りに簡単に振り向いていいものか少し迷った。現実がそうさせたんじゃない、過去がそうさせていた。
「青くん。青くんに見せたいものがあるの」
「?」
そういうと、藍はそっと背中を離れる。
思わず振りくが、何を見せようとするのかわからず、立ちすくんでしまった。
一度部屋の奥に消えた藍が再び顔をみせ、俺の手を引く。再びあの空間に引きずり込まれた俺は、体を半分ドアに向けたまま彼女の方を黙って見つめる。
「これ」
彼女が差し出したのは、一枚の写真だった。
それは……。
その真っ赤でそれ以外何も映っていない写真に息をのむ。何よりも苦しい痛みが心を締めあげ、思わずあげそうになる声を、俺は奥歯を噛みしめる事でようやく耐えた。
「貴方があの日、私に置いて行った写真。覚えてる?」
忘れるはずがない。その写真は今の俺にとってもまだ特別なものだ。
藍は写真を掌に乗せると愛でるように眺めた。
「懐かしい……空」
そう、その空は、俺達が初めて出会ったあの日の空だ。
河原で泣いていた藍。それに心を奪われた俺。
ファインダー越しに見えていた空はまだまだ透明だった。
「この空は、この十年ずっと私を支えてくれた。何があっても、これを見ると頑張って来れた。まだ、カメラは続けているの?」
俺は黙って首を横に振った。
自分から逃げるために、孤独を埋めるために撮り続けた、俺のいない世界。でも、いつからかそれは藍のいる世界を撮るようになっていて、彼女のいる世界に別れを告げる為にその茜色の空の写真を置いて背を向けた時から、カメラさえも俺の孤独を埋める道具ではなくなった。
「私、青くんの写真、好きだったな」
「あれは……」
俺のいない世界だから。だから綺麗なんだ。
「ね、あれからの話、聞かせて?」
「わかった。藍の話も聞かせてくれよ」
俺はうまく微笑めているだろうか。
不思議と水を打ったように静かになった心を抱えたまま、俺はソファに腰をおろした。
彼女は水の入ったグラスを置くと、俺の隣に座って静かに話し始めた。
卒業の後地元に戻り、一年間は資格を取ったり語学留学に出たりしていたこと。その次の年に出版社の契約社員になり、仕事上司に認められ正社員になったこと。そして、仕事で今の婚約者と出会い、相手の誠実さに折れる形で結婚を前提に付き合いはじめ、そして今に至るという事。
十年を埋めるには簡単すぎるエピソード。
たぶん、あの四年間の事を話しだせば一晩じゃ足りないくらいなのに。それとも、俺に配慮して省略しているだけなのか。
とにかく、映画のパンフレットに書かれているストーリーのように想像できそうで要点のつかめない話だった。
それでも……。
俺は小さく笑ってグラスの水に口をつける。
俺よりはきっとましだ。
だって、俺の十年は仕事以外なんにもない。付き合った彼女の事を聞かれても、体の上を通過して行った影のようなもので、特にこれといった思い出もないし、仕事と言っても、毎日、無味乾燥にこなしていくだけだ。目標も生きがいも何もない。
空っぽな俺は『0』に何をかけても『0』なように、何にもないままだった。そこに悲観もなければ諦めも怒りも焦りも何もない。単純に、生きて行くというのはそういう事なんだと受け入れるだけだ。
なにか人間らしい感覚があるとすれば、荒涼とした空に渦巻く冷たい風の様な感覚がいつも心の中にあって、忙しくしていなければほんの隙でも入り込んで来ては不快な気分になる。その感覚くらいだ。
「……いい人と幸せになれそうで、よかった」
素直にそう思った。藍は困ったように眉をよせ、グラスを手元に引き寄せる。
「そうね。いい人よ。誠実で、優しくて。でも、過去を忘れさせてはくれなかった」
「だから、自分で忘れに来たの?」
藍は頷く。肩から落ちる髪が月の光を吸いこんで、黒く輝いていた。
「忘れられなくても、整理しないと『過去』にしてしまわないといけないと思ったの。……青くん」
瞳を上げると、俺の目を覗き込む。
「私ね、本当に、青くんの写真が好きだったの。蒼汰くんと一緒にいる時も、独りになってからも。ううん、青くんの写真を初めて見た時からずっと。それがどうしてなのか。この十年ずっと考えていたの」
「それは」
俺は苦しみに目を伏せた。
それは、俺のいない世界だからだ。




