銀色の光と時間 6
知らず出ていた言葉は、少し非難めいていたかもしれない。なぜなら、俺の中に少なからず蒼汰を縛っている先輩の存在を良く思わない気持があったからだ。彼氏…いまや婚約者がちゃんといる。子どもまで出来ている。それなのに蒼汰が彼女を諦められないのは、もしかしたら彼女があやふやな態度をとっているからなんじゃないか…そう思わないでもなかったのだ。
「あいつは普段ふざけてますが、先輩への気持ちは本物なんです。だから…」
言葉が詰まる、俺が言う筋合いじゃないのかもしれない…一瞬そう思ったが、舌は止められなかった。
「だから…あいつを選べないなら、思いっきり傷つけてでも切ってやってください」
風が吹きすぎた。
春の香りを運ぶその風は、まだ頬に冷たくて…それに揺れる先輩の前髪の奥に涙の出せない泣き顔があった。
「…わかってるの。神崎川は……あの子の気持ちが真剣だってわかればわかるほど傷を深く穿つように、自分の力を…私との繋がりをあの子に見せつけた。だから…私はあの子のそんな傷つく姿を見たくなくて…。私を見なければ、あの子は傷つかずに済む…そう思って…酷い事をたくさん…」
支離滅裂な言葉が途切れ途切れに詰まる。先輩は何かの痛みに顔を歪めると、それを伏せた。
「でもね…」
泣いているのかもしれなかった。懺悔するように組まれた両腕はかすかに震えている。
「あの子はそれでも笑うの…そして…『自分は傷つきませんから。平気ですから』そう…」
言葉が見つからなかった。あいつの強さに…嫉妬すら覚えた。どうして、奴はそこまでこの人を想えるんだ?自分が傷ついてまで、どうして…。
「先輩は…迷惑じゃなかったですか?」
子どもをあやすように訊く。先輩は駄々をこねるように首を横に振る
「甘えていたのかもしれない…あの子の強い優しさに。でも、私はあの子に何にもしてあげられない」
「神崎川先輩から、離れられないんですか?」
それも首を横に振る。
「あの人には映画が全てなの。…誤解されてるかもしれないけど、あの人はとても弱い人よ…私がいなきゃ…」
不安定な悪循環、不条理なヒエラルキー…なのにその中にいる人間はそこから逃れようとすらしていないんだ。
目をつむって、蒼汰の事を考える…。じっと…出会ったころからの…アイツの強さと弱さ…。俺はゆっくり息を吐き出すと力を抜いた。そして自分の中にある優しさをすべてかき集めて声にする。
「もし…先輩があいつを少しでも思ってくれてるんなら…どうか、幸せになってください」
「え?」
手の震えが止まり、先輩が深い深い苦悩の眼差しでこちらを見つめる。
「あいつ、神崎川先輩と勝負の決着がつくまで…とか言ってるけど、たぶん…紅先輩の幸せを見届けたいだけなんだと思うんです。先輩が幸せになれば…奴も納得できるんだと思うんです」
「私…」
俺はハンカチを渡すと
「約束します。奴が納得するまで、俺は奴の傍にいて支えます。だから、先輩も約束してください」
じっと、その目を見た。
「幸せになるって」
「園田君…」
細い指先でハンカチを握りしめる。
しばらく揺れていた不安が、影をひそめはじめ、ようやくその頬に桜色が色づき始めた。
「わかったわ。約束する」
俺はその返事を聞くと、ホッとして立ち上がる。
「なるべく早くしてくださいよ。野郎の傍にいるのなんて趣味じゃないですから」
背中でクスクス笑う声が聞こえた。俺は急に恥ずかしくなって、眼鏡を落ち着きなくさわると
「じゃ、行きます。送別会で…」
「ええ」
そのまま彼女の顔も見ずにその場を後にした。
部室に向かう俺に吹く風は数分前のそれより僅かに暖かく感じた。
送別会は教授も大はしゃぎして、大盛り上がりだった。
蒼汰や紅先輩の事があって失念していたが、神崎川先輩は表立っては本当に気さくで面倒見がいい、カリスマ性もあるし…彼の周りにいる人間はすぐに彼の虜になる…そんな人だった。
俺はそれでも、あの一年の合宿の夜の事を忘れられず、皆の輪の中には入りづらかった。
蒼汰は蒼汰で頑張ったと思う。ずっと、送別会の間はずっと笑顔で、おちゃらけて場を盛り上げて、精一杯に先輩達の門出を祝っていた。藍も、この日ばかりは彼を黙って見守る…そう決めていたようで、何食わぬ顔で笑っていた。さすがに、最後…三次会の終わり…蒼汰は力尽きるように潰れた。
俺は奴を担いで店を出る。他人から見れば馬鹿な大学生にしか見えなくても、俺にはその横顔は戦い抜いた男の顔に見えた。
「園田」
背中から声をかけられ振り向く。
顔が一瞬にして凍りつくのが自分でもわかった。そこにいたのは、真顔の神崎川先輩だったからだ。
「神崎せ……」
「頼んだぞ」
先輩は俺の言葉を奪って、その一言だけ告げた。
頼む……何を?
酔いつぶれた蒼汰の世話?サークル?それとも彼もまた紅先輩のように?
「あの」
軽く混乱する俺を残し、先輩は再び店の中に姿を消した。
それが、彼を見た最後の姿で…悔しいくらいその背中は大きかった。
蒼汰をおぶって自分の家に向かう。深夜の空は春霞みに星がきれいに見えない。まるでそれは涙越しに見る夜空のようだった。
「なぁ…青…」
「ん?」
力の抜けた声。もしかしたら寝言なのかもしれない。
「映画…ええもんにしような」
こんな時まで…いや、こんな時だからこそなのか。どちらにしても彼らしい言葉に、俺は苦笑して頷く。
「そうだな」
背中で小刻みな振動を感じた。泣いているのだとわかった。
その言葉にできない、悔しさ、切なさ、狂おしさ、愛しさ、羨ましさ、もどかしさ、全てが染みて背中を通して心に伝わってくるような気がして、その、初めての蒼汰の涙を、俺は気がつかないふりをして歩いた。
将来の事なんかわからない、今が精一杯過ぎて…そんな余裕は俺たちにはない。愚かで幼稚なのだろうけど…今はそれでいい、そう思った。




