モノクロな夜明け
目を覚ましたのは、いつもの時間。どんなに疲れていても、目覚ましより数分前に起きてしまう自分の習性が恨めしかった。でも、二度寝くらいはできるくらいの疲労はまだ残っていた。
俺が欠伸をすると、何かが肩に触れた。
紫の手だ。
半ば忘れかけていた、自分に寄り添う寝顔にため息をつく。そうだった、昨夜押しかけて来たのだった。
「おはよ」彼女の目が開いた。
パジャマがなくてなのか、計算なのか、下着姿に白い肩をあらわにした紫は、いっそうくっつくと俺にしがみついた。
「くっつくと温かいね〜」
絡めてくる足は柔らかく、本能が揺らぎ始めるが、俺は背を向けた。
「まだ眠いから、二度寝する」
「そんなぁ」
甘えた声で紫は起き上がると、こちらの顔を覗き込んだ。
「ね、今日はお休みでしょ?どっか行こうよぉ」
馬鹿か、昨夜の記憶はないのかこの女。俺は無視を決め込んで目を閉じる。それでも紫はめげないで、無理やりこっちの体を仰向けにすると、両手で俺の顔を包んだ。
「じゃ、キスしていい?」
どんな条件だ。意味が分からない。俺は面倒なので黙って頷いた。
それで放っておいてもらえるのなら構わない。そう思ったのだ。
だけど、彼女のキスは放っておいてもらえる様な軽いものではなかった。
ゆっくり食むように柔らかい唇を重ねると、湿った舌を滑り込ませてきた。そして、その華奢な手を太ももの方にのばし挑発してくる。
「ね、仲直りしよ?」潤んだ目でこちらを探る。
俺は自分の若さと軽薄さに苦笑すると、紫の頭を撫で
「いつ喧嘩した?」再び深いキスに沈んだ。
深く溶け合うようなキスは、優しく激しい本能を躯の奥底から引きずり出す。馴染んだ肌は、やがて熱を帯び、予定調和へと流れようとするマンネリを、今朝は許さなかった。
どんな心境の変化なのかはわからない。でも、女がいくつもの顔を持っているのを知らないほど、俺もガキじゃなかった。普段大人しいやつが二人になれば我儘になったり、逆に一見強気な女が酒に酔うと涙もろかったり、おしなべて女はみんな女優なのだろう。でなけりゃ、天性の詐欺師だ。それは、たぶんベッドの上でも同じ。マグロな女は論外だけど、淡白だと思いきや、日によっては驚くほど挑発的だったりする。変わらない女もいるが、要は万が一別な顔を見せても、驚くことじゃないってことだ。
今朝の紫がまさにそうだった。いつもは明るいのでさえ嫌がるのに、春にまだ手の届かない冷たい空気に朝日差し込む寝室で、汗ばむほどに求めてくる。それにこちらが応えると、さらに求め貪欲に躯を重ね合わせる。俺はそんな彼女の軽く寄せられる眉や、薄く開いた唇、そこから漏れる声に、この別れはそう簡単ではないのを感じていた。
いつも、終わった後は煙草を一本吸う。それは、もう癖のようなもので、ぐったりと白い肌を露わにしたまま躯を横たわらせる紫の隣で上半身だけ起こして座ると、ほとんど意識しないで口に煙草をくわえた。
ふと、開いたままのドアの向こうに居間の机が目についた。同時にまた、あの名前が胸を締め付ける。
今、他の女を抱いたところなのに。それどころか、この十年、音沙汰一つ聞いてなかったというのに。どうして、この隣で眠る女よりリアルな痛みを感じるのだろうか。
俺は煙草を強く噛むと、火もつけないままそれを灰皿に押し付け、八つ当たりのように紫にキスをした。
結局その朝、ベッドを離れたのは昼に近い時間だった。いつの間にか眠っていたらしい。どんな夢を見たのか覚えていないが、酷く懐かしくて思い出したくない内容な気がした。隣には紫の姿はなく、耳を澄ませば台所の方から物音がする。俺は背伸びをしてから、そのままシャワーに向かった。
一体いつからなのだろう。大抵の事には心が動かなくなり、おざなりな日常にも焦りはなくなった。どうにかなるさという考えは、楽観的というより自棄に近く、常に世界がガラス越しに見える様だった。
ラフな格好に着替えてから居間に向かうと、ブランチが用意されていた。
「タイミングばっちりだね」微笑む紫に非は認められない。
そう、客観的に見れば、頭の悪いところさえ除けば良くできた彼女だ。可愛いし、従順。つくしもするし、浮気はありえない。体の相性だって問題ない。きっと、こんなに無感動なのは、俺の心の方に非があるんだろう。
「眼鏡ない顔も好き」
「どうも」短く返すと、座って用意されていた冷たい水を飲み干す。
「眼鏡なくても見えるの?」
「そんなに悪いわけじゃないからね」
というより、今は現実を直視したくないのかもしれない。
いつかどこかで誰かに同じ事を言ったような気がして。俺は空になったグラスを置いた手と止めた。しかし、それはすぐには思い出せそうにはなかった。