空色に滲んだ涙 11
平日だからか、晴れ渡った行楽日和なのに人影はまばらだ。遠足の小学生の団体とすれ違ったくらいで、館内にはすぐに入れた。
「手、つないでいい?」
いつもは勝手に腕をからめてくるくせに、今日は躊躇いがちに訊いてきた。俺は返事の代わりに彼女の手を握った。細くて華奢なその指に、少し驚く。強くて華やかなイメージしか彼女にはなかったからだ。
「行こう」
彼女は黙って頷いた。
水槽を見て回るスミレは、本当に生き生きしていた。何かを見つけては俺の手をひっぱり、何かに気がついては怖がって強く手を握る。素直に、可愛いと思った。もしかしたら、俺は魚を見ているより、そんな彼女のコロコロ変わる表情を追っていた時間の方が長かったかもしれない。
ただ、やっぱりそれは、藍に対しての気持ちとは全く異なるもので、桃に対しての気持ちとも違った。
可愛いとは思う。こんな俺に、こんなに一生懸命になってくれるなんて健気だとも思う。第一、考えてみれば、俺なんかの為に進路だって決めたんだっけ。そんな彼女の思いの深さを俺は今まで、まるで取り合おうとはしなかった。
理由はやっぱり、どこまで行っても、理屈抜きに心が動かないから。それに尽きてしまうのかもしれない。残念なことに。
いつの間にか、俺たちは最後の展示となる大水槽の前に来ていた。巨大な、魚というには大きすぎる生き物がゆったりと回遊し、何百という種類の魚が思い思いにきらめく水色の中を泳ぎまわる。俺たちはその前に設置されたベンチに座った。
スミレはそれを見上げ、ポツリと言葉を零すように話し始めた。
彼女の整った横顔は水槽が反射する光に照らされ、少し青ざめても見えるが、それが却って現実味を奪い、幻想的で美しかった。
「この水族館ね、絶対に青と来たかったの」
「どうして?」
理由を尋ねられたスミレはちょっと困った顔になり、肩越しにこちらを振り向いた。
「お父さんとの楽しい思い出の……最後の場所だから」
にわかには意味が理解できなかった。
スミレは視線を外すと、そのまま自由に泳ぎまわる魚たちにそれを移す。
「お父さんね、もう何年も前から愛人の所に行って、帰ってきてないの。両親は世間体もあるから、たぶんこの先も離婚はしないと思うけど。ほら、青と出会ったころの私、ちょっと荒れてたでしょ?」
確かに、金髪で、話し方も服装もひどかった。スミレは苦笑しながら
「理解できなかったの。愛し合って結婚して、なのに家庭を簡単に捨ててしまったお父さんの事が。そして、それを待ち続けるお母さんもみっともないと思ってた。でも自分の中のモヤモヤが何なのか、あの頃はわからなくて……あんな事が私なりの抵抗だったの」
そうだったのか。初めて知った。
「家は、結構お金持ちでしょ? こんな田舎じゃ、わりと顔もきいて、私をおおっぴらに叱る人間なんていなかったわ。ますますいらついた。そんな時、やっぱり世間体を取り繕うのに、大学ぐらいはいかないといけないからって母親がいいだして……。嫌だった。でも、おかげで青に出会えたんだよね」
昔を振り返るその目は、俺の知ってる、いや思い込みで見ていた彼女のものとは違った。
「青は私に嘘つかなかった。ダメなものはダメ。間違ってる事は間違ってるって、ちゃんと言ってくれて。嬉しかった。嘘と建前ばかりに囲まれていた私の世界に、初めて『本物』が現れたの。それに……ルックスも好みだったしね」
いたずらっぽく笑う。そして、そっと自分の鞄から俺の眼鏡を取り出した。
「もしかしたら青の事、お父さんの代わりにしていた所もあったのかも」
俺にそれを差し出す。俺は静かにそれを彼女の気持ちごと受け取った。
それを見て、ほっとしたように微笑む。そして再び、彼女は水槽を見上げた。
「お父さんとここに来た時の事、今でもはっきり覚えてるんだぁ。この水槽の前に立った時、まるで自分が海の中じゃなくて空に浮かんでいるような気がした。自由に泳ぎまわる魚たちは、重力なんてもの全く感じなくて、広い空をどこまでも浮かんでいるみたいに見えた。それをお父さんに話したら……お父さんは……」
スミレの頬から一筋の涙が零れ落ちた。それ以上過去への追想はできないようだった。
ふと瞼を下ろし、俯く。まるで帰り道を見失った迷子のようだった。
俺はその迷子の肩をなだめるように、優しく抱きよせて頭を撫でた。
「こんなところで優しくするのはずるいよ」
「そうかもな」
涙で滲んだその声は、純粋な子どものようだ。
「大好きだったんだよ」
「うん」
「青の事考えると胸が苦しくて」
「うん」
「声を聞いただけで嬉しくて」
「うん」
「信じられないくらい頑張れて」
「うん」
「本当に、本当に、大好き……で……」
「うん」
あのか細い両手で顔を覆い肩を震わせる。
きっと、彼女は俺の知らないところでたくさん苦しんで、たくさん泣いたんだろう。でも、やっぱり俺には、黙って聞く事しかできなかった。
「ここで、いいよ」
「え?」
スミレは顔を上げると、涙を拭った。そして触れれば壊れてしまいそうな笑みで
「こっからは、自分で帰る」
そう言った。その声は依然として涙にかすれていたが、確かな意思をもったものだった。
「わかった」
彼女の気持ちを、最後まで大切にしよう。俺は頷くと立ち上がった。
「一つ、約束して」
「?」
「あの、今日かけてくれてたCD、絶対捨てないでね」
そう言う気持ちが、少しわかる気がした。
俺はもう一度頷く。
それを見て、ようやく彼女に本当の笑顔が戻った。
涙に滲んだ頬に彩られたその笑顔は、水槽の空色にきらめき、本当に綺麗だった。
「青が後悔する位、いい女になってやるからね」
そう、はにかんだ。
俺は肩をすくめて
「きっとする」
そう言い、十分今でもいい女だと思うよ。心の中で付け足すと、背を向けた。
静かに、ゆっくりとスミレの影が小さくなっていく。
恋の終わりを、俺は生まれて初めて寂しく感じていた。




