茜色の空の下で 1
一四年前
俺は大学進学で、見知らぬ土地に来ていた。
知り合いも所縁もなにもないこの大学を選んだのは、単に受かった国立大学がこの地方の大学一つだけっていう、情けない事にそれだけの理由だった。
本命は都心の私立大学で、浪人して受験し直しても良かったが、本命にこだわる理由は特になかった。ただ、都心を本命にしていた理由は、実家から遠く、かつ孤独を紛らわすのに事欠かなそう。それだけだったのだから。
つまり、この地方の大学でも、孤独さえ紛らわせればよかった。もっと正確に言ってしまえば、実家から逃げることができ、趣味のカメラを向ける場所さえあれば何でも良かったのだ。
初めての一人暮らしに選んだ部屋は、築十年の少し塗装の落ち始めたマンションの3LDK。
一人暮らしには少々広すぎたし、大学から少し距離があったがほぼ即決に近かった。家賃が手ごろなのと、ベランダからの景色が決め手だ。
引っ越しして来たその日、俺は生まれて初めての自分の城に、妙に浮ついた気分だった。
靴を脱ぐのももどかしく、さっそく先に運び込まれていた荷物を縫って、そのお気に入りのベランダに向かった。
ベランダに続くサッシを横に引いた途端、一気に春風が、がらんとした部屋に舞い込んできた。ようやく春をわずかに感じさせるようになってきたその風が前髪を揺らし、思わず目を細める。
目の前には川幅の広い河原が広がっていた。ゆるりとした流れに沿うように、背の低い草が揺れているのが見える。少し視線を巡らせると私鉄の通る鉄橋が見えた。遠くで良く見えないが、どうやら鉄橋の麓あたりには公園があるようだ。
眼鏡越しの、見知らぬ街の見知らぬ風景。これからここで四年という歳月を過ごし、少しずつ自分の街になっていくのかと思うと不思議な気がした。
妙な高揚感は、部屋に閉じこもり荷解きをする選択を与えなかった。
俺はベランダから部屋に戻ると、手持ちで持ってきたスーツケースを開けた。何枚かの服をクッションにした黒い堅い塊を取り出す。自分の唯一の趣味、カメラだ。
手早くケースから取り出し、手に馴染んだそれにフィルムが入っているのを確認する。残り十五枚。近場を探検するには十分な枚数とは思えなかったが、仕方ない。
俺は首からそれをぶら下げると、春風に誘われるままに外に飛び出した。
大家の話では、歩いて十五分ほどで駅があり、生活に必要なモノはたいていその駅前の商店街か駅ビルで揃うという事だった。その駅からは、ほぼ一本道で大学に行ける。
初めての探検のルートは川沿いから駅へ向かい、大学の下見と、すぐに決まった。
マンションを出て土手を登る階段を駆け上がる。川沿いの道はアスファルトに覆われてはいなかったが、整備はされていた。左右見渡してもほぼ真っ直ぐ。あまり面白い画にはならなさそうだ。
河原に降りた方がいいだろう。そう判断するも、河原に降りる階段は近くには見当たらなかった。
「仕方ない」
俺は呟くと、川側の土手を、カメラを両手で保護するように包んでから一気に駆け降りた。 踝ほどの背の高さの草が絡み付くが、スニーカーだからか滑る心配はなさそうだった。自分が踏んだ草の青臭さに遠い日を思い出しながら、なんとか転ばずに河原に足を下ろす。
平坦な地にようやく足を付けた俺は、カメラからそっと手を離すと、息をついて天を仰いだ。吹き抜ける風は、アパートの窓に舞い込んできたのと同じ匂いで、思わず深呼吸する。
見上げた空は時を告げるように深い蒼がくすみ、浮かぶ雲には薄い朱がさしていた。
今、俺を知る人間は誰もいない。 その解放感は同時に寂寞さを連れてきた。
俺はこの町で見る初めての空を映そうと、レンズを天に向けた。
その時だった。
ふと、シャッターを押すのが躊躇われ手を止めた。そしてまるで何かに呼ばれるように川上の方へと振り返った。
俺は息をのんだ。
そこに一人の女性がいたのだ。彼女は川べりに膝を抱えて座り、何かを睨みつけるような顔で泣いていた。それは実際、子供が拗ねた様な横顔だった。でも、同時にそれは言葉にならないくらい、美しかった。
いつからそこにいたんだ?
なぜこの人は泣いているんだ?
湧き上がってくる疑問とは他所に、鼓動は高鳴りその横顔から目が離せなくなる。
彼女は酷く悲しげに眉をよせ、幾つもの涙をこぼすのに、その頬は赤みがさしていて怒っているようにも見えた。
夕暮れに冷たくなっていく風にさらわれる髪は、柔らかそうで、自身を抱きしめるように膝に回した腕は細くて長かった。
「何ですか?」
不意に彼女が涙を拭いながら振り返った。俺は急に見てはいけないものを見てしまったんじゃないかという罪悪感と、それでなくても、見知らぬ人を凝視してしまったことへの恥ずかしさに、慌てて眼をそらした。
「あ、いや。その、すみません」
訝しげにこちらを見る彼女の視線から逃げる様に頭を下げる。かなり気まずい。このまま逃げてしまおう、そう背を向けた時だった。
「ちょと、待って。それ、カメラですよね?!」
彼女が意外な呼び止め方をした。思わずその声の鋭さに足を止め振り返る。女は立ち上がり草を払うと、こちらに歩み寄ってきた。
女性がカメラに興味を持つなんて珍しい。近くまで来ると、俺を彼女は見上げた。
「あの、ここら辺の人ですか?」
「今日引っ越してきたばかりですが」
間近で見ると、彼女の美しい顔立ちはさらにはっきり見てとれた。やや厚めの前髪の向こうの大きな眼に睫毛の影が落ちていて、その先にイヤミのない程度に通っている鼻筋。ぽってりとした唇が女性らしい。今時、というより昭和の時代の女優の様な造形をしていた。彼女は首をかしげた。
「じゃ、もしかして大学生?」
「四月から」そう答えると、彼女は少し安心したような顔になって微笑んだ。
「じゃ、同級生ですね。私も四月から入学するんです」
「そうなんですか」俺も少し緊張を解くと、カメラから手を離した。
「私、文学部に入る予定の、御影藍。よろしく」
同じ大学ってことに少し嬉しくなったが、学部が違う。
「俺は経済学部に入る予定の、園田青。色の青って書いてセイっていうんだ」
いつもこの変わった名前を説明しているから、癖でつい話してしまった。だけど、彼女、御影さんは微笑んで
「私の名前は藍色の藍なの。同じ色。なんだか不思議ですね。私も引っ越してきたばかりだから、少し心細かったんです。あの、良かったら……何ですけど」
なにかを躊躇しながら、少しの間を置いてようやく口を開く。
「そのカメラで、この河原の空を撮って、その写真いただけませんか?」
出会ったばかりでものを頼むのに気が引けていたのだろうか。御影さんの躊躇いの理由は分からなかったが、俺は快く頷いた。
「風景はどうします?」
「入れないでください」そう即答すると、御影さんはさっきの俺の様に空を見上げた。
俺は彼女にカメラを渡す。
「よかったら自分で撮ってみたらどうです?どうせなら自分の目で見たものを撮る方がいいでしょう」
視線を戻した彼女は、柔らかい笑みを浮かべて頷く。そして俺の手からカメラを受取り、再び空を見上げると、そのレンズ越しの景色を胸に刻み込むように、そのか細い指でゆっくりシャッターを押した。
彼女とはその後すぐに河原で別れた。
でも、それからしばらくは鼓動の高鳴りが止められなかった。中学の頃から特に女子が苦手だったというわけではない。どちらかといえば、彼女が途切れたことのない方だったのに。こんなに緊張したのは初めてかもしれない。
振り返れば、それまでの女子との付き合いは、いつも一方的に向こうから告白してきて一方的に別れて、その繰り返しだった。女に興味がなかったわけでもないけれど、いきなり怒ったり、いきなり甘えてきたり、試すような態度をとられたり。そういうのが面倒くさかったのだ。それで放っておくと「冷たい」だの「ひどい」だの時には友人まで引き連れてなじりに来る。何をこちらに求めていたのか全くわからない。自分の満足や安らぎを満たすために付き合いたいのなら、それは俺を自己満足に利用しているのであって、俺を好きなことにはならないだろう。
そんな事を考えているうちに駅前に出た。 写真屋は小さいながらもすぐに見つける事が出来た。
もし入学式に会えるのなら、その時に今の写真を渡した方がいいだろう。そういう約束だ。
ところで、彼女に果たしてちゃんと再会できるのだろうか?
「あ」
その時に初めて、俺は彼女の名前以外の事を何も聞いてないのに気が付き、思わず苦笑した。やっぱり俺は、彼女に緊張していたんだ。いつもなら、約束をしておいて連絡先を聞き忘れるなんて間抜けなことはしない。しかし悔やんだところで後の祭り。引き返すなんて間抜けな真似もしたくない。
まぁ、そのうち近所で会うか、入学式には探せるだろう。
俺はそう楽観的に考える事にして、この町で出来た最初の楽しみに、小さくため息をついた。