桜色の旋風 1
一年はあっという間で、また春がめぐって来た。
すっかりこの町にも慣れた自分の撮りためた写真は、整理しきれないくらいになり、春休みはその整理と車の免許の合宿で終わった。
「どうして、俺が出ないといけないんだよ」
「部のためやって!」
入学式の日、大学に朝早くに呼ばれた俺は、あのチラシ配りをしろと蒼汰に説得されていた。
「女子はみんなコスプレしてやるんやで?素のままでええって、破格の待遇やろうが」
「で、どうして男子のお前までコスプレ?」
俺は冷たい目でスパイダーマンになってる蒼汰を見つめた。
「俺はここで受付だって聞いたから来たんだ。あんな馬鹿騒ぎに駆り出されるなら帰る」
「そう言わないで、行こうよ」背後からの声。
振り返ると、クリスマスの時にもらったウサギの着ぐるみを着た桃と、スターウォーズの姫の格好をした藍が立っていた。
「なんだよ、その恰好…」
「塚口先輩が、幅広い層を勝ち取るためだって…」
唇を尖らせる桃は、ぬいぐるみのようだ。そのまま秋葉原に行ってもきっと、その道の連中に受ける。
「青〜。せっかくいい顔してるんだから、一肌脱いで、女子部員獲得してきてくれよ」
そう背中に置かれた手は、まさに塚口先輩のものだった。俺は眉を跳ね上げ
「あのですね…俺は…」
「はいはい。照れない照れない。チラシみんな配り終わったら、帰ってきていいから」
塚口先輩は強引にチラシを押しつけると、俺ら4人を廊下に放り出した。
「んじゃ、桃ちゃん、俺らは正門行こか。青と藍ちゃんは講堂前な」
「あ、おい!」
蒼汰は大声で決めてしまうと、俺にウインクして、ちび兎をかっさらい、とっとと行ってしまった。なんだよ…こんな気遣い、今更…。かえって俺が格好悪い。
「青くん、いこっか」
蒼汰の背中を睨みつけていた俺の腕を、白いドレスの藍が引っ張った。悔しいくらい、その姿は綺麗で…。俺は…まだスタートラインから足を踏み出すか、そのまま諦めるか迷っていた。
外に出ると、あのお祭り騒ぎはすでに始まっていた。無数にあるサークルの勧誘の団体が、所狭しとひしめき合っている。気を抜けば、こんな目立つ格好でもはぐれそうだ。去年の花火大会を思い出した。あの時、俺はなんの躊躇もなく桃の手を握れた。今…同じ事を藍にできるだろうか。していいんだろうか。だって藍は…。
遠くで紅先輩と神崎川先輩の姿がチラリと見えた。4年になった二人だが、当然卒業はまだなわけで、もう神崎川先輩は映画会社の内定をもらっていて…もしかしたら卒業と同時に結婚するんじゃないかって噂だった。そんな二人なのに…。
紅先輩を目で追う藍がいた。
その目は、嫉妬というより羨望の眼差し。諦めともどかしさが同居する、自分ではどうしようもない痛みに耐える目だ。好きな相手の好きな人。でも、それは片思いで…なのに自分の入る余地は見当たらないくて…。ただ、相手がその片思いにもがくのを見ているしかできない。そんな痛みに…。苦しいくらい気持ちがわかる…それはたぶん、俺が蒼汰を見る目と同じだからだ。こんな顔を見ているだけでいいはずないこんな目を見て無視できるはずもない
「藍、行こう」
俺は藍の手を握った。
「青くん?」
藍が驚いてこちらを見たのがわかった。
でも、俺はそれを直視できないで、先を急ぐふりをして一歩前を行く。
「俺はちゃんと藍の手握ってるから」
「……うん」
喧騒の中、藍の耳にどこまで俺の言葉が届いたのだろうか。一歩踏み出した春…気持ちを固めかけた時、俺の頭上には簡単に風に飛ばされる桜が舞っていた。
講堂前のサークル勧誘の競争は熾烈を極めた。俺は藍が人混みに足を踏まれたりしないように、体を割り込ませながらなんとかチラシを配る。受け取ってくれるのは女子ばかりだが、振り返ると藍の方はその逆だったので、まぁいいか…と苦笑した。式典が始まる前には何とかすべてを配り終えて、交代の二年の先輩ペアに引き継ぎをする。
部室に戻りながら藍は、やや乱れた髪を直しながら「すごかったね」とほほ笑んだ。もともと人ごみに入るだけでもぐったりする俺は、気を妙に張ったいたせいか返事もままならなかった。
「ね、ちょっと寄り道しない?」
藍の言葉に首を傾げながらも頷く。
このまま部室に帰っても、蒼汰に絡まれそうで面倒だ。少し休んでからがいいだろう。
俺たちは大学の運動場の方に足を向けた。そっちは講堂前の騒ぎとはまるで別世界で、ざわめきが遠ざかるほどに俺は気持ちの糸がほぐれていくのを感じた。
「座ろう」
俺たちはグラウンドの傍の桜の木の下のベンチに腰をおろした。
風はまだ冷たいが、運ばれてくる風の香りは春のそれで…柔らかい陽射しは藍の艶やかな髪に零れ落ちていた。
「疲れた?」
「少しな」
グラウンドでは数人がサッカーをしているのが見えた。藍はそれをしばらく黙って眺めていた。なにか話があるんだろうな…そう察した俺も黙って藍の言葉を待つ。できるなら、蒼汰の話は聞きたくない。
「春休み、どうしてたの?」
質問から話が始まり、少し妙だと思った。同時に、話しにくい話題なんだろうとも…。
「こっちにいたよ。写真の整理やら、免許の合宿やらで…。藍は?」
形ばかり尋ねたが、実家に帰っていたのは知っている。藍は長期の休みになれば必ず実家に帰っていた。
「実家でね…お葬式があったの」
「え…」
あまりにも春の空に似つかわしくない単語に、眉をひそめた。
「お姉ちゃんが…死んだの。難病で…もう長くないのは去年からわかってたんだけど…」
藍は顔を覆うと、膝に肘をついて背を丸めた。それから、ポツリポツリと散りゆく桜の花びらのように話し始めた。
藍の一つ上の姉は幼い頃から難病を患い、高校に上がる頃には寝たきりになった。そう長くはないと知りながら、その姉の傍にいたくなくてこの大学を選んだ。それは…姉の死に直面するのを恐れたからじゃない。
「私…お姉ちゃんが羨ましかったの。いつもいつも両親はお姉ちゃんの事ばかりで…健康な私はほったらかし。お姉ちゃんなんていなくなればいいのにって…そう思う『自分』が怖かったの。でも、姉が死んで…どうして傍にいなかったのか後悔したわ…。だから…本当は地元に戻るつもりだった」
でも、しなかった。
藍はその理由は話さなかった。ただ…整理のつかないままここに帰って来て、このお祭り騒ぎと胸のつかえのギャップに、耐えきれなくなった…そんな事を話した。
「ごめんね。青くんには関係ないのにね」
そういう藍の顔は泣くのを堪えるために歪んでいた。
「いや。いいよ。苦しい時は話した方がいい。俺なら…」
一瞬躊躇う。だけど、ここにいるのは…実際に藍の隣にいるのは俺だ。俺は藍の肩に手を回すと引き寄せた。春風が舞い、俺たちの前髪を桜吹雪が揺らす。
「俺なら藍の話、いつだって聞いてやる。だから…泣けよ」
「青くん…ごめんなさい。ごめん…」
藍は俺に抱きつくと、思いっきり泣いた。何度も「ごめん」を繰り返すその震える肩は、力を入れると崩れてしまいそうで、俺は黙って彼女が泣きやむまでそれをさすっていた。
どうして、俺が彼女に惹かれたのか…ようやくわかった。あの日、あの河原で泣いていた彼女は俺の姿だったんだ。俺たちは良く似ていて…それで…。
すぐには俺の気持ちに気がつかなくてもいい。他の誰かを見たままでもいい。藍の孤独がわかるから…だから、それを少しでも癒せる存在、まずはそうなりたいと願った。
泣きやんだ藍と食堂で冷たいお茶を飲んでから部室に戻る。藍は照れ臭そうに
「青くんだと、本当に何でも話せちゃう。不思議だね」と笑った。
今はそれで十分だと思った。僅かでも、どんな形でも、藍の中に俺の居場所がある。それは喜ぶべきことだろう。




