白い予感 3
学祭の打ち上げは、すなわち三年の引退、引き継ぎを意味していた。三年の先輩の中にはすでに就職活動を始めている先輩もいる。寂しいが、仕方のない現実との折り合いの時だ。打ち上げの席はってか、飲み会はいつもそうだけど、大盛り上がりだった。
挨拶の席で、塚口先輩が次期部長という事で紹介され、俺は何となくほっとしていた。
皆がはしゃぐ中、蒼汰だけは意外にも神崎川部長に張り付いて、何やら真剣に語り合いながら飲んでいた。どんな心境なのか分からない。でも、その顔はまだ背中すら見えない相手を懸命に追いかけるマラソン選手のようだった。憎しみや嫉妬と尊敬や憧れ、それらが混在するっていうのはどういう気分なのか想像もつかなかった。
ふと気がつくと、藍が一人で飲んでいた。蒼汰に比べて、偉そうなことばかり言う俺は、まだスタートラインにすら立てない臆病者だ。このままでいいのか? 手に持つグラスに視線を落とした。いいわけない。今の段階じゃ、やっぱり諦めきれない。失恋すらできない。だって、まだ何も始まっていないのだから。
「藍」
「ん?」
藍はアルコールに少し赤らんだ顔で振り向いた。
それだけで、心臓はもう言う事を聞かなくなる。俺は小さく呼吸を整えるように息を吐き出すと、ゆっくりグラスを置いた。
「ちょっと、二人で出ないか?」
「え?」
一瞬で戸惑う表情に変わる。
わかってる。藍には他に好きなやつがいて、しかも自分の友人の桃が俺の事を想ってるのをたぶん知っている。だから、こんな誘い、困惑をさせるもの以外の何物でもないことくらい、十分承知していた。でも……。
「行こう」
俺は藍の手をやや強引に引いた。
「青くん?」
藍の驚く声。
彼女が困惑しているのがひしひしと伝わってきた。でも、きっと、ここでこの手を離せば、一生俺は公開するに違いない。だから手を離すことだけはできなかった、いや、したくなかったのだ。
店の玄関に差し掛かった時だった。向こう側から来る桃の姿が見えた。
ほんの一瞬目が合う。
それでも、俺は、この場からさらうように藍の手を引き、二人だけの時間を作るために外へと踏み出した。
「ちょっと、青くん」
店を出たところで藍は立ち止まる。
後ろを、桃を気にしながらまだ手を放さない俺の方を非難の目で見た。
「どうしたの? 話なら中で聞くよ? 桃ちゃんだって、こんなんじゃ心配しちゃう」
「そいうの、もう止めてくれないか?」
「え?」
苛立ちを隠せず放った言葉に、藍は目を見開いた。
「藍は桃から何か聞いてるかもしれないけど……」
今は言葉を選ぶ余裕がなかった。俺は離れないように手を握りなおすと
「俺にも好きなやつがいる。そういう気のわわされ方は、迷惑なんだ」
「あ」
藍ははっとして俯いた。
「ごめんなさい」
小さな声で謝る。
俺は泣かせてしまうんじゃないか怖くなって、再び手を引いて歩きはじめた。行き先なんて考えていなかったが、結局塚口先輩に何度か連れて行かれたバーに行った。
居酒屋の喧騒とは全く違う、落ち着いた空間に腰を下ろすと、俺はようやく手を離した。お互い違うカクテルを注文すると、沈黙が下りた。かすかにかかる洋楽のナンバーは、どこかで聞いたことあるような気もしたけど、間接照明に照らされた藍の横顔の隣では思い出せそうになかった。
二人のグラスが揃い、藍が口を開く。
「本当に、ごめんね。私、青くんが……そんな……知らなかった」
戸惑いに揺れる瞳はグラスの朱色にたゆたう。俺はアルコールの強いグラスに口をつける。縁についた塩が舌の上で染みた。
「藍の恋愛は、順調なのか?」
独り言のような俺の声。本当は彼女の恋愛の話なんか聞きたくない。でも、知りたい。どこかに自分が入り込む余地がないか、あがいてでも探りたい。こんなに格好の悪い自分に嫌気するが、もう、この場で取り繕っても仕方ない気がした。藍は少し息を飲んだが、首を横に振った。
「あの、花火の時の? ダメかも。その人には、好きな人がいるみたい」
「地元のやつ?」
藍は再び首を振った。
じゃあ、大学の奴ってことか? 俺の知らない藍の時間。俺の知らない藍の片思い。やるせない気持ちだった。
「青くんは? いつもクールだから、わからなかった。うちの学部でも、青くん結構人気あるんだよ? 紹介してって言われるもん」
「そんなのは意味無いよ」
本当に無意味だと思った。
そりゃ、高校ぐらいなら便利くらいには思ったかもしれない。孤独を、寂しさを埋めるには傍に好んでいてくれるやつが楽だ。だけど……。
藍を見る。苦しいくらい締め付けられる胸が、情けないくらい臆病になる心が、熱る体が、理屈や理由なしに、こいつじゃないとって叫んでいる。そう、何人、何十人に好かれようと、藍じゃないと何の意味もないんだ。
「おぉ〜。もてる眼鏡男子の言う言葉は違うね」
「そんなんじゃないって」
俺は少しふてくされてグラスを揺らした。
「ね、蒼汰くんは映画部、続けるかな?」
唐突な話題変換だ。でも、女子の会話ってこんなもの。珍しくはない。俺は肩をすくめて
「たぶんね。結構、負けず嫌いみたいだからな。神崎川先輩を超えるって目標がある限り、やるんじゃないの?」
「そっかぁ。今回の映画、すごかったもんね」
「女優が良かったからな」
からかうと、藍は照れ笑いで俺を小突いた。
「もぅ」
久しぶりに二人で笑った気がした。どうやっても、俺はきっとこの笑顔から逃げる事はできそうにない。知りたいことばかりで、でも、もう直接聞くには怖くて……。
「私ね、青くんといると落ち着く。なんか、何でも話せそう」
「そう?」
俺は反対だ。
「桃ちゃんの事は、わかった。少し控えるね。でも、桃ちゃん、合宿の事からようやく立ち直ったばかりなの。ちょっとでいいの。桃ちゃんの事も、見てあげて」
藍から言われたくなかった。だけど、ようやくスタートに引きずり出された俺には、何もいう資格が今はない。
「努力するよ」
そう返すのが精いっぱいだった。




