紫紺のサヨナラ 13
元旦の昼間に帰って来た俺を、家族は驚きで迎えた。
その年の正月は兄に子どもができ、この春には初孫が誕生するとかでみんな幸せそうな顔で浮ついていて、心の機能を停止させていた俺には、その喜ぶべき出来事も遠い国の戦争と同じレベルでしかなかった。
居場所のなさはいつもの比じゃなかったが、それでもあの部屋に戻るよりましな気がしていた。
だが、三日の朝、蒼汰からの電話で起こされた時にその気が変わった。
「せっかくの正月やのに、誰もおらへんし寂しいねん。お前、いつ帰ってくるねん?」
俺はぼんやりする頭で横になったまま携帯を耳に押し当てると、時計を確認しながら答えた。
「別に決めてないけど、お袋さんや藍は?」
「お袋は仕事で年末年始は忙しいねん。藍ちゃんは、あのクリスマス会の次の日から実家やで」
知らなかった。そんな自分が少し意外で、また意外と思う自分が情けなくて思わず小さくため息をつく。つまりは桃の事を知らないのは当たり前でも、藍の事を知らないのは俺にとって珍しいという事で…馬鹿なのにもほどがある。
「青が実家に帰ってる思わんかったな」
「良いよ、戻っても」
思わずそう口走っていた。
でも、悪くない考えだ。いつまでも帰らないわけにはいかない。これはあの部屋に戻るのに、いいきっかけなのかもしれない。
「ほんま?」
「あぁ、ご馳走してやるから、俺んち来いよ。今からだと……」
時計は朝の九時だ。
「昼には迎えに行けると思うからさ」
俺は簡単に約束すると、自分の居場所を作り直す為に蒲団から起き上がったのだった。
俺の家に上がった蒼汰はいつも以上にテンションが高く、饒舌だった。もともと祭りごとが好きなこの男が、正月を一人でひっそり過ごすなんてありえない話だったのだろう。
奴のおかげで桃がいなくなった空間を、さほど気にしないで部屋に戻る事が出来た俺は、それでもあまり部屋の中を見て回りたくなくて、台所と居間だけを往復していた。
ふとした瞬間に、数日前まであったその影を感じるが、そんな事思い出し始めたらどうなるのか想像もしたくなくて、それこそ、目の前の楽しみにのみ没頭する事にした。
「青の料理はすごいなぁ」
もうギプスもとれ、あとは筋力トレーニングだけになった足を放り出して、蒼汰は並んだ料理に声をあげる。
「まぁ、あるもんと実家からくすねて来た物の組み合わせだけどな」
俺は肩をすくめ、日本酒を口に付ける。
こうやって数日蒼汰とアルコール漬けになってれば、やがてこの空間にも慣れる事が出来るだろう。そう……あって欲しかった。
「なぁ、何か、主食なくないか?」
ふとテーブルに並んだ料理にそう呟いた。確かに。
「米でも炊くか?」
立ち上がりかける俺を、蒼汰が止めた。
「ええよ。もう座り。ピザ頼んだらええやん。タウンページは?」
そう言いながら、勝手に電話台の引き出しを開けた。
「あれ?」
その手が止まる。
「どうかしたか?」
俺は奴の顔を覗き込んだ。蒼汰は見たこともないアルバムを手に振り返った。
「これ、お前にちゃう?」
差し出された明るい空色の表紙には桃の字の付箋が貼ってあった。そこには『青くんへ』のたった四文字が、彼女らしい丸い字で並んでいた。
「え……お前達……」
蒼汰の声がしたが、俺はそれに答える余裕はなかった。別れ際、彼女が言っていたのは、この事だったのか。
「……」
眉を寄せて戸惑う蒼汰をよそに、俺はそのアルバムをそっと開いた。
それは、俺の写真ばかりが収められたアルバムだった。一年の夏合宿のものや、四人で遊びに行った時のもの、ちゃんと映っているのから、隠し撮りのようなものまで、桃の視点で見ていた俺がそこにいた。
「桃ちゃん……」
蒼汰が言葉をなくしてそのアルバムを見つめる。
ひらりと一枚の手紙が落ちた。俺はそれを折り曲げてしまわないように、そっと拾う。そこには彼女の文字でこう綴られていた
『青くんへ
今までたくさんの思い出をありがとう。
私は青くんと出会って、青くんを好きになれて、青くんと一緒にいられて、本当に良かったよ。
青くんのいい所も、困った所も、みんなみんな見てきたつもりだし、みんなみんな大好きだったよ。
青くんはいつも写真を撮る側で、あんまり自分の写真持ってないでしょ? だから、私が代わりに青くんのアルバムを作っちゃいました。
私はいつもこんな青くんを見てて、こんなあなたが好きだったんだよ。
何書いてるかわからなくなってきたから、もう止めるね。
最後にお願い。
一番後ろのページ。一つだけポケットを空けてます。そこに、よかったらこの間くれた二人の写真、もう一度現像して入れてください。
一生、青くんの事、忘れません。
本当に、本当に、ありがとう。
どうか、お元気で。
桃』
こんな気持ち、なんて言うのか俺は知らない。
涙で名前の部分が滲んだその手紙を、俺はそっと置くと唇を噛みしめた。




