灰色の背中 3
皆の元に戻った途端に、桃は藍の方に逃げるように駆けて行った。たぶんさっきの報告だ。これで完全に藍の眼中から俺は放り出される。深いため息をつくと、俺はテンションを上げ始めた先輩たちに呼ばれるままに、その輪の中に入って行った。
クランクアップかのような盛り上がりに、一人また一人と潰れていく。やはり、俺は酒には強いらしく、潰しにかかってくる先輩もいたが、未だ理性は保っていた。本当は潰れてしまいたい気分だったのだがどこかでブレーキをかける自分がいた。もしかしたらまだ……そんな一縷の希望を信じたかったのもあるかもしれない。
俺が酔って、人が変わったり寝そべる部員たちを、面白そうに眺めながら、部屋の隅で一人でビールを飲んでいる時だった。隣に誰かが座る。塚口先輩だ。
俺は軽く会釈して、先輩が座るスペースを作った。
「強いな、園田は」
「先輩こそ」
「俺は自分で飲めないのわかってるから、セーブしてるだけ。それに、一人は素面がいないと何かあった時、まずいだろ」
塚口先輩はこういう人だ。みんなとは少し離れた場所にいて、さりげなくサポートする。時期部長は塚口先輩なんだろうというのは、サークル内では暗黙の了解だ。
「そうですね」頷く俺に、塚口先輩はほほ笑んだ。
「それにしても、お前のカメラワーク。独特だなぁ」
「そうですか?」
「うん…ま、写真の方やってたのもあるのかもしれないが、性格が出てる」
何だか含みのある言い方に、少しムッとする。
「どう言う事ですか。それ」
「ん〜。ま、これは勘なんだけど。お前さ、クールに見えるけど、結構寂しがりだろ?」
認めたくないが当たっている。
そうなんだ、俺は何にも無い時間がすごく苦手だ。カメラもその孤独を紛らわせるためだし、今までの彼女達だって……。
「そのくせ、人との距離に迷いがある。違うか?俺の見立て、結構あたるんだけど」「外れてはないと思います」
頷くのは悔しい俺は、苦し紛れの返事をした。塚口先輩は、そんな俺を笑うと
「ごめんごめん。いじめるつもりはないんだ。ただ…西宮と何かあったんなら、ハッキリさせてた方が良いって伝えようと思ってな」
そして苦笑しながら周りを見回す。
「サークル内で恋愛でもめると、結構きついんだよ」肩をすくめて見せた。
経験はないが、それは理解できるような気がする。
「アドバイスありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
お互い、直接的なことは何も言わなかったが、あれで十分なはずだ。俺がそう言った時だった。
「せいぃぃぃ〜〜。気持ち悪い〜〜」
千鳥足の蒼汰が近寄って来たかと思うと、膝から崩れ抱き付いてきた。
「おい!この馬鹿!」
「はは…本当。お前らいいコンビだよな」
先輩はのんきに笑っている。蒼汰は青い顔をあげ
「そう。俺と青は一目会ったその日から、恋の花さ…うっぷ!」
「馬鹿!こんなところで吐くなよ!」
しょうもない事を言いかけて口を押さえる蒼汰を慌てて抱えて立ち上がる。
「先輩すみません。こいつ、吐かせて来ます」
「いってらっしゃ〜い」
ひらひら手を振る塚口先輩に見送られ、おれは洗面所へと蒼汰を連れて向かった。
俺たちが借りていたのは、大きなお屋敷、といっても農家の古い平屋だけど、の離れ。洗面所は外付けで、母屋との間の庭に出ないと行けなかった。
俺は蒼汰に肩を貸しながら外に出る。今は何時なんだろうか…廊下にも何人か部員が転がっていたが、藍と桃の姿は見なかった。二人ともあまり飲まない方だから、早々に部屋に戻ったのかもしれなかった。
ふと、庭の方に視線を巡らせる。
「……部長?」
暗闇に人影を認めて、眼を凝らす。
「え?紅先輩ぃ?」
蒼汰がふにゃりとした様子で首を俺の視線の先に向けた。
その時、大きな影が小さな影を蹴り上げた。小さな影は、声を堪えているのか、ほんの僅かにうめき声を出しただけで倒れて蹲る。
「っ!」
気づくとあんなにふにゃふにゃしていた蒼汰が庭に飛び出していた。
「先輩!!」
「おい!」
思わず追いかける。
一歩ごとに鮮明になる影の輪郭。やっぱり、部長と紅先輩だった。
蒼汰は紅先輩を庇うように間に立つと、部長を睨みあげた。
「これも演技指導って、いうんですか?」
いつも直球の蒼汰のそういう尋ね方は珍しかった。怒りにか、アルコールでか、暗くてもわかるくらい顔を赤くしている。部長はうんざりしたように溜息をつくと
「あのな…これは、俺と紅の問題だ。第三者にはわからないさ」
そういって腕を組んだ。
居直りよりその姿は迫力がある。俺は紅先輩に声をかけると、手を貸して立ち上がらせた。
「第三者だろうが、何だろうが、女に手ぇあげてんのは黙って見過ごせへんやろ。それが惚れた女なら尚更な!」
「梅田君」
紅先輩は苦しそうに目を伏せるとうつむいた。部長は首をならし
「やっぱりな。でも、紅は俺から離れない。今夜の事は忘れろ。俺も今の言葉、忘れてやる」
冷酷な口調は、到底昼間のあの面倒見のいい部長と同一人物のものには聞こえなかった。
「んだとぉ!」
蒼汰が掴みかかる。だけど、ずっと背の高い部長はそれを動じもせず、余裕の表情で見下ろした。やばい、このままじゃ本当に!
「蒼汰!」
俺が興奮するやつに手を伸ばした時だった。一瞬早く紅先輩の細い手が蒼汰の腕を掴む。
「梅田君。私なら、大丈夫。大丈夫だから」
「紅先輩」
蒼汰は口惜しそうに彼女を見つめると、部長を掴んでいた手の力を抜いた。紅先輩はそのまま間に割って入り、部長の両腕を抑えるように抱きつく。
「この人には……この人の映画を作るには必要なことなの。そして、それを望んでるのは」
唖然とする蒼汰を見つめる。その目は哀しげながらも、強い意志と何かに囚われた者特有の光を宿していた。
「私自身なの」
部長はその言葉に満足げな笑みを浮かべると紅先輩の肩を抱いた。
「わかったか?こいつは、俺と俺の作品に惚れてるんだ。俺が束縛してるんじゃない…こいつが好んでここにいる。だから……」
紅先輩から離れると、蒼汰を覗き込んだ。
「諦めろ。悪いが…お前はまだ俺を超える人間でもないし、作品も作れない」
蒼汰は唇と強く噛み項垂れた。
それは俺からも反論できなかった。人間性はともかく、部長の技術とセンスそしてスタッフをまとめるカリスマ性……そのすごさは一緒に映画を作っていて、この短期間の間にもひしひしと伝わっていた。俺がそうなんだから、もっと傍にいて助監督をしている蒼汰ならもっと分かっているだろう。嫌になるくらい。
「映画会社からも声をかけてもらってるの。今回の作品も注目されていて、手を抜くわけにはいかないのよ。だから……ね?」
紅先輩は子供を諭す母親の顔のような表情で蒼汰の前に立つと、
「『これ』は映画作りの一環なの。わかってちょうだいね」静かにそう言った。
「紅…行こう」
部長が彼女の肩を引き寄せる。紅先輩はされるがままに頷き、俺たちに「おやすみなさい」と囁くように言葉を残して去って行った。
俺たちは、その二人の背中を見つめる。
灰色のその影が消えたころ、蒼汰がようやく口を開いた。
「青。俺、絶対、神崎川を超えたる。そして、紅先輩を奪ってやるんや」
「蒼汰」
何も言えなかった。
「ごめん、ちょっと一人で頭冷やしてくる」
「あぁ」
俺は静かに蒼汰と別れた。
見上げれば降って来そうな満天の星。その美しさは、地上の醜さを嘲笑っているようだった。




