紫紺のサヨナラ 8
いつもの時間、いつもの場所で待ち合わせ。
けれど、俺は確実に変化する季節に気がついていた。彼女との片道小一時間のドライブ。それは俺にとっていつしか、かけがえのない楽しみになっていた。
彼女が笑う、俺が頷く。話は毎日尽きなかったし、飽きる事もなかった。
でも、その笑顔の理由に気がついた時、俺の心は形を変えた。
藍は初めての外でのリハビリに、弁当を用意してきていた。その弁当に長い指を添え
「蒼汰くんね、唐揚げが好きって言うから、朝から頑張ったの」
「へぇ」
「でも、見て!油撥ねちゃって…。蒼汰くん、これで残したら承知しないんだから!」
「そうだな」
彼女の笑顔の理由は、彼女の腕に火傷を作ったアイツなんだ。そう、彼女の話はいつもいつも蒼汰のことばかり…。
彼女が笑顔の理由は俺じゃなくて、アイツ。
彼女が俺の隣に座っている理由は俺じゃなくて、アイツ。
彼女が話しているのは…俺にじゃなくて、きっとアイツにだ。
こんな事態、想定しなかったわけじゃない。そもそも彼女が蒼汰を好きなのは知っていたわけだし、俺には桃がいる。俺は純粋に彼女との会話を楽しむだけで十分の筈だった。彼女への想いはとうの昔に捨て去ったのだから…
「蒼汰くんがね…」
じゃあ何故?
「あれは蒼汰くんの…」
彼女の唇から奴の名が零れる度に
「今度蒼汰くんに言ってやってよ!」
こんなに胸が軋むんだろう?
「あぁ、わかった」
俺はその何かが疼く音に気付かないふりをして、変わらない笑顔で頷く。今日カメラを持ってきたのは、こんな俺の心に現実を突き付けるためだった。カメラは嘘をつかない。きっと映し出された現実は俺の目を覚まさせるだろう。
銀杏の葉が、昼下がりの柔らかい光に黄金色に輝いていた。一面に敷き詰められた秋色の絨毯の上に寄り添うのは、穏やかな微笑み。静かな世界には、銀杏の舞い散る風のような音と、彼らの笑い声だけが響き渡っていた。
今や蒼汰には、松葉杖代わりの藍の手をつなぐ事への躊躇はない。そして二人は手を取り合い、思いやり、力を分かち合い…また一歩踏み出した。
そんなレンズ越しの世界には、やっぱり俺は存在などするはずもなく…。
その現実を刻み込む為、俺は心に焼き鏝を押しつけるように、シャッターを降ろした。
「休憩ね。私、何か飲み物買ってくる!」
蒼汰を俺の隣に座らせた藍は、そういうと子犬のように跳ねる足で走って行った。俺はカメラを下ろし、その背中を見送る。
「はぁ〜」
蒼汰のため息に振り返り「お疲れさん」そう声をかけた。蒼汰は苦笑いして
「結構藍ちゃん厳しいわ。もう、くたくたや」
そういって先に動くようになった手を伸ばして深呼吸した。
「卒論は進んでるのか?」
「あぁ。お前のおかげでなんとか。ほんま、ありがとな」
俺は黙って首を横に振った。俺が用意したのは頼まれた資料と、ノートパソコンだけだ。
奴の本当の役に立ってるのは俺じゃない。
「あ、今度、看護婦さんがお前紹介してやって。相変わらずモテるなぁ」
「馬鹿か。俺には桃がいるだろうが」
そういう自分が少し白々しく感じた。彼女の名を口に出すほど、本当に彼女を想っているかと言われれば…自信はない。蒼汰はそんな俺の気持ちに気がつく様子なく、後ろ手に手をついて笑うと、ポツリと言った。
「あんな…俺、ほんまは衣の厚い唐揚げのが好きやねん」
「…」
奴が何を話そうとしているのか、わかるような気がして俺は黙って頷いた。
蒼汰の目に映っているのはもうあの日の金木犀ではない。
「今日のから揚げ、衣薄かったけど…うまかったぁ」
蒼汰は何かを思い出すように、手を目の前に持ってくると、その掌をじっと見つめた。
沈黙が降りた。
俺は奴から目をそらし、目の前の銀杏の舞い落ちる様を見つめ、次の言葉をじっと待つ。
葉を揺らしていた風が凪いだ。
「…好きになってええかな?」
躊躇いと一緒に吐き出された声。
心がまた軋んだ。
目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、いつも見ていた笑顔…いつも聞いていた声…いつも想っていた…
「良いと思うよ」
俺はそっと答えた。
金木犀の香りはここにはない。奴を支えるのは、もうその香りじゃなく…。
蒼汰の手のひらに一枚、鮮やかな黄色の葉が静かに舞い降りた。奴はそれを大切なもののように包むように握った。
「俺に訊くなよ」
俺は苦笑交じりに言葉をつなぐ。蒼汰も同じように笑い
「だって…昔、お前は…」
「昔の話だよ」
そう『昔』の筈なんだ。蒼汰は俺の言葉に小さく息をつき
「せやな。いや、正直、お前が桃ちゃんと付き合い始めても、もしかしたらって思う事があったから…」
「桃に殺されるぞ」
俺は肩をすくめる。
そう、そんな事…あっていいはずない。俺には桃がいて、蒼汰の目にようやく藍が映って…それでいいんだ。
「何なら、席外そうか?」
「いや、今はまだ言うつもりないねん」
「?」
首を傾げる俺に、蒼汰は照れ笑いし
「文字通り、今は一人で歩く事もできひん。そんなんで、いいたくないねん」
「じゃ、どうすんだよ?」
蒼汰はあの金木犀の恋の時には見せなかった、穏やかな瞳で真っ青で透明な空を見上げた。
「歩けるようになったら…、自分の足で歩いて、ちゃんと感謝と一緒に言うつもりや」
その放たれた誓いを前に、俺はそれがうまく行く事を願うふりをして頷くしかなかった。いや…願うべきなんだ。これで、皆、幸せになるのだから…。




