ほろ酔い吸血鬼の小噺
ラミア……ワインを愛す女吸血鬼
叶望……男子高校生
「吸血鬼って、そんなもので酔うのか」
叶望は、目の前でワインを嗜む異形の存在に相対してそう尋ねた。さも日常に溶け込むかのようにふてぶてしくもこの女がグラスを傾けるものだから、それまで忘れていた疑問をふと思いついたのだ。
純白のブラウスと真っ赤なフレアスカートに身を包んだラミアという名の吸血鬼は、陶器のような頬を紅潮させながら赤い液体を一度煽り、グラスを弄びながら彼の問いに答える。
「そうだな、これは要するに雰囲気作りというやつだ」
場所は高校生である彼の一人暮らしのアパートの一室。時は九月下旬の夕暮れ。とある縁で行き逢ったこの二人の奇妙な関係を語るのは、この噺ではない。それはまた別の話である。
ともかく二人は週末にはこうして集まり、彼の料理と彼女の酒で晩餐をするというのが習慣なのだった。しかし酒の方は彼女が強引に勧めてくるだけであり、決して彼は未成年でありながら常習的に法を破るような人格の持ち主ではない。しかし彼女の気分次第で、彼の明日は二日酔いにしばしばなった。
「雰囲気、作り?」
「そうだ。私達は知性の原理たる魂を手玉とする存在よ。その気になれば自らの意識を自らで酔わせることなど造作もない。ただそれだけではあまりにも情緒に欠けるのでな。こうしてムードを準備した上で、楽しむのさ」
「吸血鬼って、色々便利かと思いきや面倒なんだな」
「高尚といってくれ。我らは酒の一つに対しても一切の驕りをせぬということだ」
本日の献立はタラとムール貝のアクアパッツアである。イタリア発祥の煮込みスープだ。最寄りのスーパーでムール貝の安売りを発見したのがその理由である。オリーブオイルとニンニクの香りが食欲を芳しく刺激し、貝の旨みと魚の香ばしさが見事な調和をとっている。
ちなみに彼女に言わせると、吸血鬼がニンニクを嫌うと言うのは全くの出鱈目らしい。
銀のフォークで彼女は再三に魚や貝をその口に運び入れ、咀嚼し、ワインを煽る。その様は妙に様になっているのだ。恰好や仕草は気品にあふれ、西洋の貴族のようだ。洋館の大広間で晩餐をとる誇り高き淑女の姿が、望には容易に想像できた。
「この料理は、どこか懐かしさを感じるな。まるで、忘却して久しい故郷を思い出すようだ」
「……本当か? あんたが思い出せないっていう、故郷の味なのか?」
吸血鬼は血を吸い、同時に他人から魂の残存を奪い取って永久の時を生きる存在だ。しかし限りのある命というこの世の摂理を破った彼らは、同時に十字架もまた背負っている。自分の魂を消費し、そうして空きのできた自らの器に他者の魂を流し入れるとき、徐々に自らの記憶が薄まっていくのだ。彼女は本来は人間であったが、その故郷や本当の名さえ忘れてしまっている。
「これそのものがそうだとは言わないが、非常に近いものを感じるな。それにしても不思議な物よ。自らの記憶を刻み付けた魂の一部を既に失ったというのに、その舌には未だに懐かしさが残るか。いやはや、吸血鬼といえど、食べ続けることでしか生きられない動物の名残が抜けきっていないのかもしれんな」
彼女は今度はスープと共にタラを食し、ワイングラスを軽く回してその香りを鼻孔に纏わせつつ残りを飲み干した。そして瞳を閉じた。赤ワインはまるで血のようだ。もしかしたら、それでこの吸血鬼はワインばかり飲むのかもしれない。
その瞼の裏には、忘れたはずの故郷の景色が映し出されているのだろうか。
望も、瞳を閉じて、行ったこともないはずのその景色に想いを馳せた。瞼の裏に投影されたのは、西洋の街並みが広がる、ある湖畔の風景だった。陽光は湖の穏やかな海面を反射し、どこからかジャズの音色が風に乗って聞こえてくるようだ。
「俺……いつか、ラミアの故郷に行ってみたい」
心の底からの言葉だった。今までならそれは、唇から外に出ることはなかったかもしれない。しかし夏休みのとある一件で、二人の関係はより密接な物へとなっていた。恐る恐る彼女の方を見やると。
「そうだな。なら望がこれからも探してくれ。私の心が失ってしまったものを。頼りはこの舌だけだ。よろしく頼むよ、料理人」
舌を恥じらいもなく晒しながら、彼女は妖艶な笑みでここぞと言わんばかりに約束を取り付けた。望はこの笑顔に勝てない。他に勝てることがあるわけでもないが、この笑顔にだけは勝てなかった。自分は恐らく、暫くの間、この吸血鬼の舌を満足させ続けなければならないのだろう。
それを面倒とは思わなくなっている自分に気付きながら。それでも表には出さず、憂鬱な顔をして見せる。こんな誤魔化しも、吸血鬼である彼女がその気になれば、いとも簡単に破られてしまうのだろうけれど。
しかしこれは男の意地である。
「ところで、では、我々の新たな門出を祝って、盃を交わすとしようか」
あ、と。
しまった。調子付かせ過ぎた。そう悟る頃には、もう手遅れで。
「いやそれ俺に飲ませたいだけだろ。明日は生徒会の手伝いが……」
テーブルを離れようとする望の腕をつかみ、紫の液体が注がれたワイングラスを無理やりに握らせる彼女の頬はその瞳と同じほどに紅潮していた。この吸血鬼は、本当にワインに酔っているわけではないのだろうか。何だか騙されているような気がしてきた。
恐るべき剛力は、その体のどこから生まれているのか見当もつかない。こうなった彼女に逆らうことができないのは、十分知っていた。明日は、二日酔いのまま生徒会室へ向かうことが確定した瞬間である。
「それでは私の故郷と、二人の未来に」
繰り返そう。この人の笑顔には勝てない。
しかし、別に勝たなくても良いのかもしれない。この人に対しては負けて良い。
そう思うと、不思議と心は軽くなっていった。
この世には勝てなくても良い勝負がある。
翌日、彼が朦朧とした意識で学校に向かうことになるのは、また別の話。語られるかもわからない、そんな些細な日常の話である。
終
本編『She is a vampire』も是非どうぞ。二人の活躍が見られます。
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