第7話
「ただいま戻りました」
ギルベルトの執務室に戻ってきたアレクシアは出て行った時の勢いは鳴りを潜め、少し落ち着いたように見えた。その態度の変化で執務室に居た者達はアレクシアの希望は叶えらなかったのだと判断した。
「ブライトクロイツ侯爵」
アレクシアは侯爵にそっと呼びかける。侯爵は真面目な顔をして、アレクシアの前に立った。
「先程の私の申し出は些か、性急でしたわ。私達、まだ知り合ったばかりですものね」
アレクシアの言葉を聞いて侯爵はなるほど、そういう風に宥めたかと思った。
「私が侯爵を好きなだけでは駄目ですわよね。侯爵にも私を好きになってもらわなければならないわよね。だから、私達もっといっぱい話しをして、もっとお互いのことを知りましょう?」
アレクシアの提案に侯爵は雲行きが怪しくなってきたのを感じていた。それは黙って聞いていたギルベルトも同じらしく、アレクシアにこう問いかけた。
「アレクシア、陛下はお前に何て言ったんだ?」
「私と侯爵が相思相愛の仲になったら婚姻を認めて下さるって言ったわ」
「・・・兄貴が本当にそう言ったのか?」
ギルベルトが信じられないといった様子で問いかけるとアレクシアは少し怒ったような顔をした。
「私が侯爵と相思相愛の仲になったら婚姻を認めて下さる?って聞いたら、やれるものならやってみろって言ったの。だから、私は頑張る事にしたの。絶対に陛下のことを見返してやるんだから!」
少々、主旨がずれているアレクシアの宣言を受けてギルベルトは頭を抱え、ハンスは口をあんぐりと開け、侯爵はピキリと固まった。
丸投げしたはずの宥めて説得する役目をそのまま投げ返された気分だった。侯爵は目の前のこの少女が自分が思っているよりもずっと手強い相手だと漸く認識した。
「もっと侯爵とお話したいのは山々なのですけど、これからお稽古の時間なんですの。それでは皆さん、御機嫌よう。また、明日ね」
そう言って颯爽と部屋を後にしようとするアレクシアにギルベルトがギョッとして呼び止める。
「ちょっと待て!明日も来るつもりなのか?」
ギルベルトの言葉にアレクシアはきょとんとして立ち止まる。
「だって、侯爵は明日もこちらに来るのでしょう?でしたら、私がここへくるのも当然だと思うのですが?」
何を言っているのかと言いたげなアレクシアの態度にギルベルトは何も言えなくなった。
「では、そういうことで」
アレクシアは再び颯爽と歩き出し、ギルベルトの執務室を後にした。残された三人はそれを呆然と見送ったのだ。
「ギルベルト殿下?どうかなさいましたか?」
アレクシアが去った後、どこか浮かない顔をしているギルベルトに気づいて、ハンスが声を掛ける。
「ん?・・・お前も知ってるだろう?アレクシアに縁談が来てる。まぁ、断るつもりだからアレクシアの耳には入れてないんだけどな」
ハンスは断るつもりだと言うギルベルトの言葉に納得しながらこう言った。
「相手はベルンシュタイン家の跡取りでしたよね?ダニエラ嬢を後宮に送り込んだだけでは飽き足らず、アレクシア様まで手中に収めようとは、あの家は力を保とうと必死のようですね」
「そりゃ、あの馬鹿息子があれだけ問題を起こせば必死にもなるだろうさ!その馬鹿の妻にアレクシアを望むなんて!身の程知らずにも程があるってんだよ!」
ギルベルトが苛立って声を荒げる。ギルベルトの気持ちはハンスにもよく分かる。
「彼が起こしてる問題ってほとんど女性問題ですからね。身分に拘らず、色んな女性に手を出してるんですよ。こっちが何も知らないとでも思ってるんですかね?」
「ダニエラがうまく後宮に入れたもんだから、自分達の証拠隠滅は完璧だとでも過信したんじゃねぇの?全く、子が馬鹿なら親も馬鹿だぜ」
ギルベルトがうんざりしたようにそう言うとハンスはクスリと笑った。
「ダニエラ嬢が後宮に入れたのは監視が目的ですもんね。あの方、自称ゲオルク殿下の恋人ですから。まぁ、ゲオルク殿下は手駒の一つくらいにしか思っていないでしょうけど」
そこまで言ってハンスは一度、言葉を切ると可笑しくて堪らないといった表情を見せた。
「証拠隠滅が完璧とかちゃんちゃら可笑しいですよ。われわれを甘く見て貰っちゃ困ります。ちゃんと情報も証拠も掴んでますよ。一番最近の話題はベルンシュタイン家の門前で庶民の若い女性が赤ん坊を抱えて騒いだことですかね。この子は彼の子供だって。ベルンシュタイン家側は彼女に養育費と称して大金渡して黙らせたみたいですけどね。結構、目撃者も居たし、彼女自身が妊娠中からお腹の子は貴族の血を引いてるって言触らしてたみたいで、口止め料にも相当お金が掛かったみたいですねぇ」
ギルベルトとハンスのやり取りを聞くともなしに聞いていた侯爵は何だか、遣り切れない想いを抱えていた。ベルンシュタイン家の跡取りの噂は侯爵も耳にしていたが、聞いていたよりも遥かに女癖が悪いようだ。そんな輩に嫁いでもアレクシアが幸せになれるとは到底思えなかった。共に過ごした僅かな時間で侯爵はアレクシアが少々、暴走癖はあるが、純真無垢で天真爛漫な少女であると思った。そんな彼女が恋愛や結婚に夢を抱いてるであろうことは想像するに堅くない。今の時点で女癖の悪い男が結婚したからといって落ち着くわけはないだろう。きっとアレクシアは夫の不貞に苦しめられ、嘆き悲しむ日々を送ることなるだろうと侯爵は思った。あの花の顔が涙に濡れるかと思うと侯爵の胸は痛んだ。
「あんなろくでなしに大事な妹を誰がくれてやるかってんだ!兄貴だって同じ想いだよ!だが、問題なのは断ったからって簡単に引き下がる連中じゃないってことだ。他に縁談でもあれば話は早いが、今んところ、ベルンシュタイン家以外からの申し出が無い」
その言葉でギルベルトが自分に何を求めているのか、侯爵は察した。恐らく、ベルンシュタイン家の跡取りよりも自分の方がマシだと思っているのだろう。
「俺はアレクシアには幸せになって貰いたいんだ」
幼い頃、情緒不安定となった母との仲に悩み、泣いていたアレクシアを知るギルベルトだからこそ出た心からの願いだった。だが、その気持ちに答えてやることが今の侯爵には出来なかった。まだ、アレクシアを愛していない上にこれから愛せる保障も無い。アレクシアが愛し愛されることを望んでいる以上、現時点で彼女の手を取ることは出来なかった。それにアレクシアは自分の息子よりも年下だ。流石にこの年齢の女性を相手にしたことはない。アレクシアは若い、だからこそ、恋の駆け引きなどせず、そのやり方が拙くても本気で気持ちをぶつけてきている。
侯爵はきちんとアレクシアと向き合う必要性を感じていた。