↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/1

その1


月代

第一章 月の下で

一 捨てられた夜

 誰かが、戸を閉めた気がした。


 お蝶は目を開けた。


 いつもの天井がない。梁も、障子も、枕元に置いたはずのものもなかった。枝が幾重にも重なり、その間から白い光が落ちていた。


 頬の下が冷たい。


「……旦那、様」


 呼んでから、ここにいるはずがないと思った。


 どうして、いないのだったか。


 考えようとすると、人の声がいくつも重なった。怒っている。自分に向けられている。それだけは分かるのに、何を言われていたのか、順序がつかめない。


 怖い。


 その感覚だけが、言葉より先に胸を塞いだ。


 起きなければならない。こんなところで寝ていてはいけない。


 お蝶は地面に手をつこうとした。


 手が、来なかった。


 自分の身体なのに、思った場所へ動いてくれない。袖の先を見つめ、もう一度力を込める。肩のあたりに痛みが走り、短い息が漏れただけだった。


「……あれ」


 脚も、同じだった。


 そこにあることは分かる。冷たさも、重みもある。それなのに、膝を曲げようとしても、身体を起こそうとしても、地面に横たわったままだった。


 思い出したくないものが、意識の端へ浮かんだ。


 取り囲む顔。逃げ場のない場所。自分の声が、もう自分でも聞き取れなくなったこと。


「ごめんなさい」


 誰もいないのに、口から出た。


「ごめんなさい。わたし……」


 何を謝れば、終わるのだろう。


 悪いことをした。それは何度も聞かされた。弥太郎を苦しめた。迷惑をかけた。だから謝らなければならない。


 けれど、ここまでされるほどのことを、自分は。


 そこまで考えて、息が詰まった。


 言ってはいけない気がした。そんなことを考えたと知られれば、また人が来る気がした。


 お蝶は目を閉じた。


 帰りたい。


 その思いと一緒に、低い声が戻ってきた。


『話す事など無い。行きたい所へ、行ってしまえ』


 弥太郎の声だった。


 どんな顔をしていたのか、思い出そうとすると輪郭がぼやけた。言葉だけが、何度も同じところを通った。


 行きたいところなど、なかった。


 弥太郎のいる家へ帰りたかった。けれど、その弥太郎が、行ってしまえと言った。


「……どこへ、行けば」


 声は落ち葉の上で消えた。


 人の足音はしなかった。葉擦れに混じって、小さな生き物の動く音がした。そのたび、お蝶は息を止めた。近づいてほしくなかった。けれど、遠くで何かが鳴くと、誰か来てくれないかと思った。


 寒さが増した。


 どのくらい、ここにいるのだろう。夜はいくつ過ぎたのだろう。


 喉が渇いていた。腹も空いていた。空腹など感じている自分が、ひどく浅ましく思えた。それでも、身体は食べ物を欲しがった。


 目を開けると、唇の近くに白いものがあった。


 濡れた葉の間に、月の光を集めたような、小さな丸いものがある。


 さっきまで、あっただろうか。


 確かめるだけの記憶もなかった。


二 飢え

 白いものを、しばらく見ていた。


 食べられるものかもしれない。


 そんなはずはない、と考えるより早く、唾を飲もうとした。口の中は乾ききっていて、喉がひりついただけだった。


 米の飯が浮かんだ。


 湯気の立つ椀。箸を取る弥太郎。向かいの顔を見てから、自分も手を合わせる。


 いつの朝だったか。


 お蝶は白いものへ顔を寄せた。首を動かすだけで痛かった。唇が落ち葉に触れ、土の匂いが鼻へ入った。


「……ん……」


 一度は届かなかった。


 頬を地面に擦りつけるようにして、もう一度近づいた。白いものが唇に触れた。冷たかった。固かった。


 石だ。


 口に入ってから、そう思った。


 吐き出せばよかった。けれど、ようやく得たものを手放すのが怖かった。飴でも、木の実でもない。分かっているはずなのに、何かを食べれば、もう少しだけ保つ気がした。


 飲み下した。


 喉を通った感触が、妙にはっきり残った。


 何も起きなかった。


 お蝶は目を閉じた。


 次の瞬間、胸の奥で熱が弾けた。


「……っ、あ……!」


 息が途切れた。


 熱い。腹だけではない。背中へ、肩へ、動かないはずの手足へ、熱が一斉に広がっていく。痺れが追いかけてきた。身体の内側へ、身の置き所のない重さが満ちた。


 吐き出したい。


 もう飲み込んでしまったのに、喉が何度も動いた。


「いや……やだ、何……」


 肩が震えた。歯が合わず、呼吸が浅くなった。


 また、何か間違えた。


 どうして食べたのだろう。石だと分かったのに。どうして自分は、いつも、後になってから。


 思考が続かなかった。


 肌の上を、ひやりとした感覚が覆っていった。寒さとは違う。何かが身体に沿い、隙間なく貼りついていく。


 叫んだつもりだった。


 自分の声が、薄い布を通したように聞こえた。


 光が目の端に浮かぶ。片方の視界に、輪が重なっていた。目を閉じても、消えてくれなかった。


「お願い……もう……」


 何をやめてほしいのかも分からず、お蝶は泣いた。


 どれほど経ったのか。


 熱の波がようやく引いたとき、指先が、落ち葉を引っかいた。


 かさ、と小さな音がした。


 お蝶は呼吸を止めた。


 今の音を、もう一度聞きたかった。


三 動く身体

 指を曲げる。


 黒い指先が、ゆっくり曲がった。


 お蝶はそれを見つめた。


「……わたしの、手?」


 手袋のようだった。けれど、身につけた覚えがない。手首から先へ、袖とも肌とも違う濃い色が続いている。


 もう一度、指を開く。


 開いた。


 胸の奥に、息とも声ともつかないものが込み上げた。


 お蝶は両手を地面につこうとした。途端に身体が持ち上がり、思っていたより高いところまで顔が動いた。


「ひっ」


 驚いて力を抜くと、肘が折れた。落ち葉へ倒れ込み、肩に響く痛みに顔をしかめる。


 痛みは、まだある。


 動けるようになったからといって、何もかもなくなったわけではなかった。


 お蝶は荒い息を整え、今度はゆっくりと肘をついた。身体を横に向け、木の根にもたれかかる。


 それだけで、しばらく動けなくなった。


 見下ろした身体は、知らない衣に包まれていた。


 濃紺と黒。胸には銀色の蝶。腹を支える幅広い帯に、幾筋もの紐が渡っている。脚の先まで覆われ、足には見たこともない形の履物が沿っていた。


 胸元をつまんだ。


 布はわずかに伸びたが、引き離せなかった。


「脱げ、ない……?」


 襟元を探っても、着物のような重なりがない。袖口も見つからない。


 顔に触れると、鼻から顎まで薄いものに覆われていた。額には幅広い覆いがあり、片目まで塞いでいる。


 慌てて手をかけたが、うまく外せなかった。


 息はできた。口も動く。それを何度も確かめて、ようやく手を下ろした。


 指に青い髪が絡んでいた。


 知らない女の髪だと思った。


 引くと、自分の頭に響いた。


「……どうして」


 答える者はいなかった。


 枝が揺れ、木漏れ月が脚へ差した。履物の内側に、淡い温かさを感じた。


 お蝶は足先を見た。


 動かそうとすると、動いた。


 膝も曲がった。


 怖かった。今度また動かなくなれば、どうすればいいのだろう。


 木の幹に両手をつき、少しずつ腰を上げた。


 途中で膝が震えた。


 その震えに、不意に別の景色が重なった。


 板の間。冷たい桶。濡れた袖。


『分かったから、ゆっくり立て』


 今より高いところから、少年の声がした。


「……ヤタ、兄」


 その呼び方が、口からこぼれた。


 胸が痛くなった。


 ずっと昔、そう呼んでいた。手を借りれば立てた。隣に座れば、温かいものが食べられた。


 けれど今、伸ばした先にあるのは木の幹だった。


 お蝶はそこへ額を寄せ、立ち上がった。


 誰も褒めてくれなかった。


 それでも、立っていた。


四 森の暮らし

 歩けることと、山を下りられることは違った。


 最初の数歩で、お蝶はそれを思い知った。


 思うより遠くへ足が出る。止まろうとすれば上体だけが先へ傾く。木の根に躓き、枝につかまり、何度もその場へしゃがみ込んだ。


「ちょっと……待って。そんなに、早くなくていいの」


 自分の脚に言い聞かせた。


 暗い茂みへ入ると、動きが鈍くなった。出てきたばかりの場所まで戻り、木々の切れ目で休むと、少しずつ力が戻った。


 同じことが、二度続いた。


 お蝶は枝の向こうを見上げた。


「……お月様?」


 片目の奥に浮かぶ輪にも、小さな月に似た形があった。ほかにも細い線や印が重なっている。目を擦っても、顔を背けてもついてきた。


 何を示しているのかは分からなかった。


 ただ、明るいところへ出たときと、奥へ入ったときでは、その様子も違う気がした。


 お蝶は急ぐのをやめた。


 木陰へ一歩入る。立ち止まる。膝の重さを確かめる。光の下へ戻り、待つ。


 馬鹿らしく思えるほど小さな動作を、繰り返した。


 水の音を見つけたのは、その後だった。


 細い流れのそばへ座り、両手を差し入れた。水は手袋の上を滑り落ちた。すくう形を作るのに何度も失敗し、ようやく口へ運んだところで、顔の覆いに遮られた。


「これじゃ……」


 唇の下へ指を添えると、その部分だけはずらすことができた。


 お蝶は急いで水を飲んだ。咳き込み、少し待って、また飲んだ。飲めるというだけで涙が出そうだった。


 覆いを戻すと、自然に顔へ沿った。


 水面を覗く気にはなれなかった。


 青い髪が落ちてくる。それを肩の向こうへ払い、空いている方の目だけで、流れを見ていた。


     *


 朝になっても、衣は消えなかった。


 陽が差せば何かが終わるような気がしていた。けれど変わったのは、身体が少しずつ重くなることだった。


 立ち上がるのが難しい。


 夜のうちに見つけた、木の根の張り出した場所へ戻った。雨風をいくらか避けられそうだった。


 落ち葉を寄せ、座るところを作る。


 肩から下がった布を敷こうとして、手を止めた。夜、その布が月光を受けていたときの感覚が気になった。今も、背中の方にわずかな温かさが残っている。


 汚してはいけないものかもしれない。


 結局、膝の上に掛けた。


 喉が潤うと、また腹が減った。


 辺りに落ちていた木の実のうち、食べた覚えのあるものを拾い、手の上へ並べた。固い皮を剥く作業に、思いのほか手間取った。


 昔は、もっと早くできた。


 誰かに、手が遅いと笑われた記憶があった。


 怒った声ではない。


『急いで指を切るより、よほどいいよ』


 女の声だった。


 蜜姐さん。


 名前と一緒に、狭い部屋の匂いが戻ってきた。畳。白粉。廊下を行き交う足音。小間使いだった自分の膝の前に置かれた、繕い物。


 お蝶は木の実を握ったまま、ぼんやりしていた。


 あのときも、こうして教えてもらった。


 いっぺんにやろうとしないこと。慌てて駄目にしないこと。


「……一つずつ」


 声に出して、皮を剥いた。


 昼の間は、休み休みにしか動けなかった。何もしていないのに、置いてきたものばかりが気にかかった。家のこと。店のこと。弥太郎の食事のこと。


 もう自分に任されていないかもしれないことまで、順々に思い浮かんだ。


五 小さな呪石

 次の夜、小川へ向かう途中で、片目の奥の印が動いた。


 お蝶は立ち止まった。


 顔を右へ向ける。印が寄る。


 左へ向ける。離れる。


 何かが、ある。


 怖くなって一度は背を向けた。けれど、目を閉じても印は残った。


「何なの。何が、あるの」


 返事はなかった。


 すぐ逃げられるようにと考えて、逃げ道もよく分からないことに気づいた。泣きたくなりながら、足元を確かめて進んだ。


 倒れた木の根元に、小さな欠片があった。


 土を払い、掌に載せる。


 あの夜、口に入れたものを思い出した。


 同じとは言えない。色も形も違う。それでも、胸の蝶がかすかに温かくなり、掌のものへ意識が引かれた。


 呪石。


 その言葉は知っていた。


 誰から聞いたのか。何か、恐ろしいものではなかったか。


 思い出そうとすると、別の男の声が浮かびかけた。柔らかい声音だった。肝心の言葉をつかむ前に、記憶は途切れた。


 お蝶は欠片を地面へ置いた。


 また、あの熱が来るかもしれない。


 戻ろうとして、足元が揺れた。とっさに幹へ手をつく。脇腹の奥が痛み、息が止まった。


 月は雲の向こうにいた。


 ここで動けなくなったら。


 今度は、誰かが来てくれるだろうか。


 お蝶はしゃがみ、小さな石を拾い直した。


「……少しだけ。動ければ、いいから」


 誰に頼んだのか、自分でも分からなかった。


 手を口元へ運んだ。薄い覆い越しに石を触れさせると、抵抗がゆるんだ。喉の奥へ、あの冷たさが届いた。


 お蝶はすぐに身構えた。


 それでも、間に合わなかった。


 胸から腹へ、不快な熱が広がった。寒気がするのに熱い。身体の内側を押し広げられるようで、背中を丸めずにはいられなかった。


「う……っ、やっぱり……」


 両手をつく。浅い呼吸を繰り返す。涙が覆いの縁へ溜まった。


 食べなければよかった。


 けれど動けなくなるのは嫌だった。


 その二つが頭の中を行き来する間、お蝶は木の根を見つめ続けた。


     *


 呼吸が落ち着いてから、身体を起こした。


 違和感があった。


 お蝶は脇腹へ手を当てた。


 さっきまで、息を深く吸うたびに痛んでいた場所だった。


 おそるおそる、息を吸う。


 痛みは残っていた。けれど、先ほどのように途中で止めなくてもよかった。


「……あれ」


 もう一度、試す。


 肩を動かす。肘を曲げる。覆いの下にある身体は見えない。それでも、身体をひねったときの鋭い痛みが、鈍い重さに変わっている。


 ただ動かしてもらっているだけではないのだろうか。


 翌夜も、その次に目を覚ましたときも、痛みは以前ほど強くならなかった。


 小川へ歩けた。腰を下ろして、水を飲めた。


 すべてが治ったわけではない。光のない場所では脚が重くなるし、強く力を入れれば痛いところもある。


 それでも、お蝶は胸元を押さえた。


「治して……くれたの?」


 銀の蝶は答えなかった。


 石を飲む前の自分と、後の自分を比べる。確かめられることは、それしかなかった。


 もし、少しずつでも治るのなら。


 また、歩いて帰れるかもしれない。


     *


 森の中で、もう一つ、小さな石を見つけた。


 今度はすぐ口へ運ばなかった。


 掌の上で転がし、消えてしまった先の欠片を思った。


 あの気持ちの悪さを、また味わうのだ。


 そう思うと、指がこわばった。


 蜜の顔が浮かんだ。


 身請けの決まった日の、照れたような笑い方。その後、幸せに暮らしていると聞いて、自分までうれしくなったこと。


 頑張った人は、幸せになれる。


 お蝶は、それを疑わなかった。


 けれど、自分の何が足りなかったのだろう。


 もっと早く相談していれば。子ができていれば。あの日、別のことを言っていれば。


 考えるたびに、自分の落ち度ばかり増えていった。どこへ戻って、何をやり直せばよいのかも、もう分からなかった。


 お蝶は泣きながら、小さな石を握った。


 今は飲めなかった。


 それを責める声まで、自分の中から聞こえてくるのがつらかった。


六 帰るために

 森で過ごすうちに、夜の支度ができるようになった。


 暗くなる前に水を飲む。手元の食べ物を確かめる。月が差す場所と、休めそうな場所を見ておく。


 何もかも初めての衣だったが、手足の動かし方には少しずつ慣れた。


 高く跳ぼうとして、木の枝へぶつかりかけたこともあった。慌てて幹へしがみつき、しばらく下りられなくなった。


 力があるからといって、上手に動けるわけではなかった。


「普通に……普通に歩いてくれれば、いいの」


 誰に聞かせるでもなく繰り返すうちに、一歩の幅が揃ってきた。


 月の出ている間に走り回ると、あとがつらい。昼でも、少しなら立っていられる。肩の布に残る温かさを意識すると、重かった脚が動くこともあった。


 仕組みは分からない。


 ただ、力を使い切ってはいけないことは分かった。


 昼間、休んでいるときには、戻ってきた記憶を一つずつ並べた。


 寺で暮らしていたこと。


 ヤタ兄と、離れ離れになったこと。


 遊郭で蝶を眺めていたら、お蝶と呼ばれるようになったこと。


 迎えに来た弥太郎が、記憶の中の少年よりずっと大人になっていたこと。


 再会した日の顔は、少しずつ思い出せるようになった。


 最初、声が出なかった。ヤタ兄、と呼んでよいのか迷った。弥太郎もすぐには何も言わず、こちらを見ていた。


 その目を見たときの安堵まで、戻ってきた。


「……会いたい」


 膝に額をつけて、声にした。


 会って何を話すのかと考えれば、たちまち怖くなった。


 行きたいところへ行けと言われた。また同じように顔を背けられるかもしれない。姿まで変わってしまった自分を、誰だと言うかもしれない。


 それでも、生きていると伝えたかった。


 うまく話せなかったことを、今度こそ話したかった。何から話せばいいのかは、まだ分からなかったけれど。


     *


 祝言の日のことも、断片的に戻った。


 慣れない支度。人の声。隣にいる弥太郎の気配。


 顔を上げられずにいると、小声で尋ねられた。


『疲れたか』


 お蝶は首を振った。


 うれしかった。本当に、うれしかった。


 これからは、この人のために働ける。大切にしてもらった分を、毎日、少しずつ返していける。


 そう思っていた。


 あのときの弥太郎が、何を考えていたのか。


 お蝶には、今も分からなかった。


     *


 森を出ると決めた夜、掌の小さな石をもう一度見た。


 まだ、怖かった。


 お蝶は木の幹にもたれ、足元を確かめてから、石を口へ運んだ。


 覚えていた通りの不快感が来た。


 覚えていたからといって、耐えやすくはならなかった。肩を震わせ、途中で何度も後悔した。誰かに背中をさすってほしいと思い、その誰かの顔を浮かべて、また泣いた。


 波が引くまで、動かなかった。


 やがて手を開いたとき、小さな石はなくなっていた。


 胸元の蝶を押さえる。


 何を引き換えにしているのか、まだ知らない。自分の身に何が起こったのかも、説明できない。


 けれど、昨日より深く息が吸えた。


 立ち上がり、肩の布を月へ向けた。


 夜露を含んだ風が、青い髪を揺らした。片目の奥にある輪が淡く光り、手足の内側へ、ゆっくり温かさが戻ってくる。


 お蝶は水の流れる方角を見た。


 そこから先は、まだ歩いていない。


 町に戻ることは怖かった。人の声を聞くことも、顔を見られることも。自分を囲んでいた者たちに、もう一度会ってしまうかもしれない。


 足が止まった。


 木の幹へ手を戻し、しばらく、その場にいた。


 無理に踏み出そうとすると、膝が震えた。


『ゆっくり立て』


 少年の声を、思い出した。


 お蝶は呼吸を整えた。


「……旦那様」


 夜の森へ、小さく呼びかけた。


「わたし、そちらへ……」


 続きは声にならなかった。


 今度は顔を背けずに話を聞いてもらえるだろうか。帰ってきたことを、怒るだろうか。


 分からなかった。


 木から手を離す。


 一歩だけ進み、足元を見る。


 立っていられた。


 お蝶はもう一歩、月の差す場所へ足を運んだ。


 山の向こうの町で何が起きたのかを、彼女はまだ知らなかった。


⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。