第15話 終わらない兵站と恩讐の彼方
ガルマニア帝国が実質的な解体を迎え、国家間の条約が締結された数日後。
ファルサ王国と帝国の国境地帯に急造された、巨大な『難民キャンプ』。
モルトケ辺境伯軍の将兵たちには、戦勝の美酒に酔いしれ、暖かいベッドでゆっくりと身体を休める時間など一秒たりとも与えられなかった。なぜなら彼らの戦場は、血みどろの塹壕から、何百万という飢えた難民が押し寄せる「配給所」へと、その形を変えただけだったからだ。
「おい! ファルサからの麦と豆を積んだ第三列車が到着したぞ! 荷降ろしを急げ! 第二野戦炊事車の火を絶やすな、スープの底が尽きるぞッ!」
灰色の空から冷たい風が吹き付ける中、モルトケ軍の補給隊長ハンスが、泥と煤にまみれながら割れんばかりの怒号を飛ばしていた。
彼の目の前には、見渡す限りの荒野を埋め尽くすガルマニア帝国の難民たちの列があった。かつて魔法という力を絶対の誇りとしていた大帝国の威容はどこにもない。そこにあるのは、頬はこけ、目は虚で、ただひたすらに温かいスープの匂いだけを頼りに並ぶ、無力な亡者たちの群れであった。
「……まったく、冗談じゃないぜ。帝国軍と殺し合って撃ち合っていた時の方が、まだいくらか頭を使わなくて済んだんじゃないか?」
ハンスは額の汗を拭いながら、忌々しげに悪態をつく。
軍隊の胃袋を満たすだけでも地獄の苦労だというのに、国境に押し寄せる何万、何十万の難民に配給を回すなど、兵站の崩壊を意味する。計算は追いつかず、物資は常にギリギリだ。それでもハンスの両手は休むことなく、次々と配給用の硬い黒パンを切り分けていた。
少し離れた場所では、かつてモルトケの陣地に決死の突撃をかけてきた帝国の敗残兵たちが、武装を完全に解かれた状態で難民の列の整理を行っていた。
その陣頭に立っているのは、帝国最高の知将、グスタフ将軍である。
「……将軍」
グスタフの傍らに立つ若い帝国将校が、配給所で忙しなく動くモルトケの兵士たちを睨みつけ、ギリッと奥歯を噛み締めた。その瞳には、血の滲むような屈辱の色が浮かんでいる。
「たえられません。……あいつらは、数週間前まで我々の同胞を、あの恐ろしい鉄の兵器で挽肉にしていた悪魔どもですよ。我々からすべてを奪ったその手から注がれたスープを、並んで恵んでもらわねば生きられないなど……!」
「黙れ」
グスタフの低く、冷たい一言が、将校の激情を鋭く遮った。
「前を見ろ。……あの子供たちの顔を」
グスタフが視線で示した先には、受け取ったばかりの温かい木の実のスープをすすり、ボロボロと大粒の涙をこぼしながらパンを咀嚼する帝国の民たちの姿があった。
何ヶ月も飢えと恐怖に怯えていた彼らの顔に、初めて人間らしい「生気」が戻りつつあった。
「我々が誇っていた魔法は、あの子供たちの腹を満たせたか? 我々の尊大な傲慢さは、死にゆく大地に一粒の麦でも実らせたか?」
「それは……」
「腹を満たし、民を生かしているのは、紛れもなくあの『悪魔ども』が運んできた麦と、彼らが敷いた鉄の道だ。……我々が略奪しようとした相手の慈悲によって生かされている。その無惨で重い事実を、骨の髄まで噛み締めろ」
グスタフの悲痛な、しかし確固たる意志を持った言葉に、若い将校は弾かれたように俯き、耐えきれずに嗚咽を漏らしながら唇を噛んだ。
「――その通りだ。美味いか不味いかは別として、食わなきゃ人は死ぬ」
ふいに、グスタフたちの背後から野太い声が掛けられた。
振り返ると、そこに立っていたのは、分厚い胸板をした筋骨隆々の男――モルトケ近衛隊長であり、副指揮官のガンツであった。彼は両手に、濛々《もうもう》と湯気を立てる木の実のスープと黒パンが乗った木盆を抱えている。
彼から発せられる空気には、戦場で培われた隠しきれない殺気が混じっていた。帝国将校がビクッと肩を揺らし、無意識に腰の無い剣を探す。
「モルトケ軍、副指揮官殿……。これは」
「アンタたちの分だ。配給の列を整理するにも、腹が減ってちゃ声も出ねえだろう。……食え」
ガンツは無造作に、グスタフたちへ配給の盆を突き出した。
若い将校が「毒が入っているのでは」と警戒するように一歩下がる中、グスタフは無言でそれを受け取り、添えられた木のスプーンでゆっくりと口へ運んだ。温かいスープが、冷え切った胃の腑にじんと染み渡っていく。ただの塩と豆と木の実の味付けだが、極限の飢餓状態にあった身体には、これ以上ないほどの滋味であった。
「……我々帝国軍は、貴殿の部下を数多く殺した。貴殿もまた、多くの死線を潜り抜けてきたのだろう。……憎くないのか?」
グスタフの真っ直ぐな問いに、ガンツは鼻を鳴らし、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。
「憎いに決まってるだろうが。俺の大事な部下たちも、アンタらの理不尽な火球で何人も黒焦げになって死んだんだ。……正直に言えば、今すぐその首を刎ね飛ばして、泥の中に蹴り入れてやりたい気分だ」
「……ならば、なぜ」
「だがな」
ガンツは、配給所でせわしなく働くハンスや、疲労困憊になりながらもスープを配り続けるモルトケの兵士たちを顎でしゃくった。
「ウチの『お嬢様』が言うんだよ。死体の山を築くより、生かして働かせた方が、この国は豊かになるってな。……俺たちは聖人君子じゃない。アンタたちにこうして食糧を運んでるのは、アンタたちをモルトケのための『黒魔炭』を掘る労働力として使うためだ。死なれちゃ、工場の歯車が止まって困るんだよ」
それは、ハインリヒが王都で突きつけた、冷徹極まりない支配のロジックそのものであった。
だが、その冷たすぎるほど合理的な理由こそが、戦場で殺し合った者同士の間に横たわる修復不可能な『恩讐』を、強引に一時凍結させていた。
「哀れみ」や「情け」で救われているのではない。「労働力という価値」があるから、生かされている。その事実が、敗者としての誇りすらズタズタにされていた帝国軍人たちにとって、奇妙なほどに前を向くための救いとなっていたのだ。
「……なるほど。ならば我々は、その投資に見合うだけの莫大な労働を、貴国に返すしかあるまいな」
グスタフは自嘲するように笑うと、一気にスープを飲み干した。
ガンツもまた、それ以上は何も言わず、ただ無骨な背中を向けて配給所の喧騒へと戻っていった。
昨日までの敵同士が、今日からすぐに手を取り合い、笑い合えるわけではない。流した血の恨みは、そう簡単に消えるものではない。
だが、同じ冷たい空の下で、同じように疲れ果てながら、彼らは「生きるため」という巨大な歯車の一部となって、共に動き出していた。
黒煙を上げて到着するモルトケの装甲列車が、今日も大量の麦を運び込んでくる。
終わりの見えない兵站の戦いは、かつての憎しみを少しずつ、確かな『鉄と麦の繋がり』へと上書きしていくのであった。




