第9話 帝国の崩壊と玉座の修羅場
ガルマニア帝国、帝都。
かつて大陸全土を震え上がらせた壮麗な白亜の都は今、重苦しい死の臭いと、飢えに狂った民衆の暴動によって地獄の様相を呈していた。
「麦を出せ! 俺たちを餓死させる気か!」
「暴れるな! 下がれ、これ以上近づけば斬り捨てるぞ!」
王城の城門前では、やせ細った暴徒たちと、それを槍で突き返す近衛兵たちの小競り合いが昼夜を問わず続いていた。
無理もない。エルデラントへの初戦で十万の兵と共に膨大な兵站を失い、それを補うためのファルサ王国への侵攻も失敗。あろうことか、撤退時に『焦土作戦』を決行したため、略奪できた麦は一粒たりとも存在しなかったのだ。
帝国は今、冬を越すことすら不可能な、建国以来最大の『国家存亡の危機』に直面していた。
***
「――申し開きもございません。我がファルサ方面軍はモルトケ辺境伯軍の前に完全敗北を喫し、第二防衛線を放棄して帰還いたしました」
冷え切った王城の玉座の間。
泥と硝煙に塗れた軍服のまま平伏するグスタフ総司令官に対し、玉座の皇帝と取り巻きの老将たちは、怒りと恐怖で顔を歪ませていた。
「ふ、ふざけるなァッ!!」
内務卿が、血走った目でグスタフを怒鳴りつける。
「ファルサの麦を奪うどころか、すべて焼き払って逃げ帰ってきただと!? おまけに……我が国のなけなしの肉を喰らわせて空へ放った『飛竜騎士団』はどうした! なぜ一騎も帰還しておらんのだ!」
「……全滅しました」
グスタフの絞り出すような報告に、玉座の間が水を打ったように静まり返る。
「モルトケの軍隊は、地上の分厚い戦車を撒き餌にし、飛竜が急降下爆撃を仕掛けた瞬間……地上から、空を埋め尽くすほどの『鉄の暴風』を逆流させてきました。我が軍が誇る最強の竜たちは、魔法を放つ暇すら与えられず、ただの的として空中で粉砕されたのです」
「嘘だ! 嘘をつけぇッ!」
老将の一人が狂乱したように叫ぶ。
「無敵の飛竜騎士団が、地上からの攻撃で全滅するなどあり得ん! 貴様、自分の無能を隠すために、またしても『未知の兵器』などという幻を……!」
「幻ではありませんッ!!」
グスタフは顔を上げ、懐から血に染まった麻袋を取り出し、玉座の前の大理石の床に力任せにぶち撒けた。
カラン、カラン、と重く乾いた音を立てて転がったのは、人間の指ほどの大きさがある、ひしゃげた鉛と鋼の塊――マクシミリアンたちが放った『対空機関砲弾』の破片であった。
「これが幻に見えますか! この純粋な『鉄の塊』が、毎分数千発というあり得ない速度で、飛竜の鱗を引き裂いたのです! もはや魔法の障壁など、薄紙と同義です!」
転がった鈍色の銃弾の破片を見て、老将たちは言葉を失った。魔法の残滓を一切感じないその純粋な質量兵器は、彼らの理解を完全に超えていた。
「皇帝陛下……!」
グスタフは血を吐くような声で、玉座の皇帝を真っ直ぐに見据えた。
「私は退いたのではありません。軍という『組織』を存続させるために、撤退したのです! あのまま平原で意地を張っていれば、三万の残存兵すらも機関銃と戦車の前ですり潰され、帝国の軍事力は文字通り『ゼロ』になっていました!」
「……黙れ。もうよい」
それまで沈黙を保っていた皇帝が、地の底から響くような声で遮った。
皇帝の目は、床に転がる鉄の破片を冷ややかに見下ろし、そしてゆっくりとグスタフの悲痛な顔へと向けられた。
「余には、その『鉄の箱』や『鉄の暴風』がいかなるものか、到底理解できん。……だが、結果は絶対だ。食糧は奪えず、十万の兵と最強の飛竜騎士団が消滅した」
皇帝はギリッと奥歯を噛み締め、忌々しげに吐き捨てた。
「そして何より、かつて大軍を率いて数々の武功を挙げたこの知将グスタフが、たかだか『鉛の破片』を前にして、顔面を蒼白にさせて震えている。……その異常な事実こそが、我が国が軍事的に完全に『詰んだ』という何よりの証拠よ」
帝国は今、完全に「後がなかった」。
軍隊を動かそうにも飯がなく、防衛しようにも敵の兵器を止める手段が存在しない。
「……グスタフよ。魔法も飛竜も通じぬというのなら、余に残された手段は一つしかないな」
皇帝は立ち上がり、虚ろでありながら狂気を孕んだ暗い瞳で宣言した。
「帝都の地下深く、初代皇帝によって封印された『猛毒の術式』を解放する。……大地のすべてを、数百年草木も生えない死の灰に変える大量破壊魔法だ」
「なっ……皇帝陛下!? なりませぬ!!」
その言葉を聞いた瞬間、グスタフは弾かれたように顔を上げ、血を吐くような悲痛な声を張り上げた。
「あれを使えば、我々の国土の半分が死に絶えます! 発動のための膨大な魔力を賄うために、どれだけの民の命を贄にしなければならないか……! それは、帝国そのものを滅ぼす自殺行為です!」
「構わんッ!!」
皇帝の怒声が、玉座の間にビリビリと響き渡った。
「モルトケの狂犬どもに膝を屈し、国を蹂躙されるくらいならば! 下民どもの血肉をすべて魔力に変換し、エルデラントもろともこの大陸を死の灰に沈めてやる! ……近衛兵! 直ちに地下の異端魔導士どもの封印を解け! これは皇帝の絶対命令である!」
「お待ちください、陛下!!」
玉座へ向かおうとする近衛兵の前に、グスタフが両手を広げて立ちはだかった。
泥だらけの将軍は、主君へ向けてその場に深く叩き伏した。
「国を守るために民を殺しては、本末転倒です! 初代皇帝陛下が築き上げたこの美しい帝国を、貴方様ご自身の御手で汚してはなりません! ……忠義ゆえに申し上げます! どうか、どうかご決断の撤回を……! 撤回いただけないのなら、まずはこの場で私の首を刎ねてからにしてください!!」
「……ええい、鬱陶しい! 誰か、その敗軍の将を黙らせて地下牢へ放り込め!」
狂乱する皇帝の命令により、数人がかりで取り押さえられるグスタフ。
だが彼は、玉座の間から引きずり出されながらも、声が枯れるまで「陛下! 目を覚ましてください、陛下ァッ!!」と、ただひたすらに主君と国を想う悲痛な叫びを上げ続けていた。
***
だが、玉座の間で繰り広げられたその狂気のやり取りは、すでに手遅れであった。
扉の向こうで警護に当たっていた兵士たちを通じて、「皇帝が自国の民を毒魔法の生け贄にしようとしている」という絶望的な噂は、またたく間に帝都中へと漏れ伝わっていたのである。
「……聞いたか。皇帝は俺たちを見捨てて、毒の灰を降らせる気だ」
「モルトケの鉄の化物から命からがら逃げ帰ってきたのに、今度は自国の王に殺されるのかよ……!」
帝都の裏路地。
飢えと疲労で限界に達していた敗残兵たち、前線で仲間が挽肉にされるのを見た退役軍人たちの目に、暗く、そして決定的な『殺意』が宿り始めていた。
「ふざけるな。誰が殺されてやるものか。……俺たちが国を守るんだ」
一人の兵士が、隠し持っていた剣を抜き放つ。
それに呼応するように、飢えた暴徒と化していた民衆たち、さらには皇帝の狂気に愛想を尽かした一部の貴族たちまでもが、次々と武器を手に立ち上がり始めた。
「狂王を引きずり下ろせ!! 毒魔法の儀式を止めるんだ!!」
それは、有能な将軍の采配でもなければ、外国の工作でもない。
純粋な『生存本能』と『怒り』によって膨れ上がった、名もなき数万の臣民たちによる、帝国建国以来の巨大な武装蜂起の始まりであった。
忠義の将グスタフが地下牢で国の行く末を案じて涙を流しているその頭上で、帝国の白亜の王城は今、自らの民が放つ無数の松明の炎と怒号によって、完全に包囲されようとしていた。




