第3話 泥濘の塹壕戦と帝国の学習
キール要塞での劇的な初戦から、数日が経過した。
ファルサ西部の平原は、これまでの剣と魔法の戦争ではあり得なかった『異様な光景』へと変貌を遂げていた。
「……前線のファルサの民たち、生き残りの非戦闘員およそ二万人の後方退避、完了しました」
モルトケ軍が構築した堅牢なコンクリートの特火点の中。
参謀長アランが、戦場を見渡すハインリヒに向けて静かに報告した。
「兵員の三分の二をエルデラント王都へ後退させた、あの『帰りの装甲列車』の空き車両と、ファルサ側の馬車を総動員し、彼らをファルサ王都の安全圏まで送り届けています。……現在、この平原に民間人は一人も残っていません」
「ご苦労だった、アラン。……巻き添えを気にしていては、大砲は撃てんからな。これで憂いなく、敵を粉砕できる」
ハインリヒは双眼鏡を下ろし、冷徹な眼差しで数百ヤード先の敵陣を睨みつけた。
彼らが避難を急がせた理由は、帝国の残虐性だけではない。この平原が今、地獄のような泥沼の戦場と化しているからだ。
「チッ! モグラみてェに潜りやがって。これじゃあ弾が当たらねェ!」
防衛線の一角で、遊撃隊長マクシミリアンが重機関銃から手を放し、忌々しげに舌打ちをした。
見渡す限りの平原には、帝国軍によって無数の深い『溝』が掘り巡らされていた。
それは、帝国軍総司令官グスタフの命を受けた土魔法使いたちが、夜を徹して大地を掘り返して構築した巨大な『塹壕』の網目であった。
ズガガガガガッ!! とマクシミリアンが威嚇の連射を放つが、銃弾は塹壕の前に高く盛られた土の胸壁にボコボコと穴を空けるだけで、その奥で身を屈めている帝国兵には一発も当たらない。
「敵の将軍、グスタフと言ったか。……二度の敗北で、我々の兵器の『弱点』を完璧に見抜いたようだな」
ハインリヒが、感心したような、それでいて底冷えするような声で呟いた。
「我々の銃や機関銃は、圧倒的な速度と威力を持つが……弾道はあくまで『直線』だ。ゆえに、地面より下に潜り込まれれば、水平に撃ち出す銃弾は物理的に届かない」
「ええ。それに加えて、あの『盾』です」
アランが、塹壕の一部を指差す。
そこでは、帝国軍の兵士が塹壕から上半身を出し、こちらに向けて巨大な投石器の準備をしていた。
すかさずモルトケの狙撃手たちがその頭を吹き飛ばそうとライフルの引き金を引くが、帝国兵の周囲の空間が陽炎のように歪み、放たれた弾丸は『見えない壁』に弾かれてあらぬ方向へと逸れてしまった。
「土魔法で作った分厚い岩の盾の表面に、風魔法による強烈な『上昇気流』を纏わせた『複合防盾』……。鉛玉の物理的な威力を風で削ぎ、岩で受け止める。単純ですが、極めて理にかなった対弾道魔法です」
アランの分析に、幹部たちの顔が引き締まる。
帝国軍は十万の犠牲を払い、銃という『見えない矢』の存在を理解した。だからこそ彼らは、開けた平原での突撃という旧時代の戦術を完全に捨て去り、大地に潜って盾を構え、じわじわと距離を詰めてくる『泥沼の消耗戦』へと切り替えてきたのだ。
「……撃てば勝てるという、簡単な戦いではなくなったということだ。前線の各歩兵部隊に伝達! 無駄弾を撃つな! 敵が塹壕から完全に頭を出した時のみ、一斉射撃で仕留めろ!」
ガンツの野太い号令が、前線に響き渡る。
モルトケ軍の四千、そして王国近衛兵たちもまた、ファルサの泥土の中に構築した自軍の塹壕に身を潜め、じりじりと睨み合う。
時折、帝国軍の塹壕から放たれる投石や炎の魔法が飛んでくるが、これもモルトケ軍が構築したコンクリートの特火点と土嚢によって防がれる。
両軍ともに致命打を与えられないまま、戦線は完全に膠着状態へと陥っていた。
***
「直線的な攻撃が通じないのなら、上から落とせばいい。……後方の装甲列車から、榴弾砲による曲射砲撃を開始しろ」
ハインリヒの命により、後方から巨大な砲弾が空高く打ち上げられ、放物線を描いて帝国軍の塹壕へと降り注ぐ。
ズドォォォンッ! という爆発と共に、塹壕の一部が崩れ去り、帝国兵の悲鳴が上がる。
だが、大帝国もただやられているだけではなかった。
砲撃が始まると同時に、敵の土魔法使いたちが即座に塹壕の上に『分厚い土の屋根』を作り出し、さらなる被害を最小限に食い止め始めたのである。
「……厄介だな。魔法という柔軟な技術がある分、敵の陣地構築の速度は、我々の土木作業よりも遥かに早い。砲撃で削っても、すぐに修復されてしまう」
「おまけに、大砲の弾には限りがあります。このまま遠距離から撃ち合いを続ければ、いずれ我々の兵站が圧迫されますね」
ハインリヒとアランが、渋い顔で作戦盤を見つめる。
そこに、安全な後方から前線の視察に訪れていたアンジェリカが、泥にまみれた兵士たちを見つめながら、静かに口を開いた。
「お父様。敵が大地に潜り、強固な盾で身を守るのなら……我々はそれを『乗り越えて』、上から踏み潰すしかありません」
「踏み潰す、だと?」
「はい。機関銃の弾を弾き返すほどの分厚い装甲を纏い、どんな悪路や塹壕であろうと乗り越えて進むことができる、自走式の『動く鉄の城』。……我がモルトケの工場で開発を進めていたあれを、実戦投入する時が来たようです」
アンジェリカの瞳の奥に、近代技術者としての冷徹な光が宿る。
「装甲列車の設計を応用し、線路がなくても大地を無限軌道で蹂躙する新型陸上兵器。……コードネーム『戦車』の第一陣を、領地からこちらへ輸送させます」
帝国軍の有能な学習によって生み出された、泥沼の塹壕戦。
それを力業で粉砕するため、モルトケ辺境伯軍はさらなる『絶望の兵器』の封印を解き放とうとしていた。




