第31話 猟犬の猛炎と払暁の空陣地
戦闘開始から十二時間経過 ―― 午前三時】
月雲が空を覆う、底冷えのする深夜。
モルトケ軍が第二陣地で絶え間ない夜襲に神経をすり減らしていた頃、海岸線から数マイル内陸に設営された帝国軍の前線野営地の背後に、漆黒の外套をまとったマクシミリアンと数名の猟師たちが音もなく到達していた。
「……見張りの歩哨は三人。巡回が通り過ぎるまで、あと二十秒」
マクシミリアンは森の茂みに身を潜め、暗闇の奥にそびえる巨大な天蓋を見据えた。
間違いない。あの中に、帝国軍が近隣の村々から強奪してきた四万の軍隊の命綱――大量の小麦と干し肉が積まれている。
「俺たちの家族から奪った飯で、安眠できると思うなよ」
マクシミリアンはアンジェリカが調合した特製の『火薬ビン』を取り出し、摩擦式の火打石をこすりつけた。
ジジジッ、と導火線に火花が散った瞬間。
「行けェッ!!」
マクシミリアンたちは一斉に森から飛び出し、驚愕する見張りの隙を突いて、火のついたガラス瓶を食糧庫のど真ん中へと正確に投げ込んだ。
ドゴォォォォォォォォォォォンッ!!!
深夜の静寂を切り裂き、凄まじい粉塵爆発が野営地の中央で火柱を上げた。
強奪された小麦に引火した炎は瞬く間に広がり、帝国軍の『残された最後の食糧』を、容赦なく灰燼へと変えていく。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
「火事だァッ! 食糧庫が燃えているぞォォッ!!」
パニックに陥る帝国兵たちを背に、マクシミリアンたちはすでに獣道へと姿を消していた。
「……何事だ!!」
騒ぎを聞きつけ、天幕から飛び出してきた総指揮官グスタフ将軍は、赤々と夜空を焦がす炎の柱を見て、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「グ、グスタフ将軍! 敵の別働隊による裏からの奇襲です! 我々の食糧が……兵站が、すべて燃やされました!」
「…………」
報告を聞いた瞬間、有能な用兵家であるグスタフは、自分たちが完全に「詰んだ」ことを理解した。
明日の朝食すら失われたのだ。持久戦など不可能。腹を空かせた数万の軍隊など、三日もすれば暴徒と化す。
「グスタフ将軍! こうなれば夜明けと共に、残る三万の全兵力を一斉に投下し、力業でモルトケの陣地を圧殺して敵の飯を奪うしか……!」
血走った目で進言する副将に対し、グスタフは氷のように冷たい視線を向けた。
「馬鹿者。未知の兵器が待ち構える要塞に、腹を空かせた三万を密集させて突撃させるなど、ただ死体の山を築きに行くだけだ」
グスタフは燃え盛る兵糧から背を向け、冷徹に状況を整理した。
「王都にいるジークス大将の本陣も、帝国本国からの補給が届いておらず、食糧に余裕はないはずだ。ここで我々が三万の兵を犬死にさせれば、王都の防衛すら危うくなる。……将軍の仕事は、美しく散ることではない。被害を最小限に抑えることだ」
「で、では……!」
「撤退だ。直ちに夜襲部隊を呼び戻す『退却の角笛』を鳴らせ。夜明け前に陣をたたみ、三万の兵を保ったまま王都へ退く」
それは感情を完全に排除した、帝国軍人として最も正しく、恐ろしい決断であった。
***
戦闘開始から十四時間経過 ―― 午前五時(夜明け前)
東の空が、わずかに紫がかった薄明へと変わり始めていた。
モルトケ軍の第二陣地。
一晩中続いた帝国のいやらしい夜襲が、一時間ほど前に不自然にパタリと止んでいた。
限界の疲労と睡魔の中で、塹壕に寄りかかっていたハインリヒやガンツたちは、来るべき『三万の全軍突撃』を待ち構えていた。
すべての機関銃には新しい銃身が取り付けられ、兵士たちは血走った目で平原の彼方を睨みつけている。
「……夜が明けるぞ。夜襲をやめたということは、飯を失った三万の敵が、死に物狂いで突っ込んでくるはずだ」
ガンツが獰猛な笑みを浮かべ、ライフルの遊底を引く。
「全砲門、照準合わせろ! ここが正念場だ!」
だが。
太陽が地平線から顔を出し、視界を覆っていた夜の闇が完全に晴れた時。双眼鏡を覗き込んでいたアランが、信じられないものを見るように目を見開いた。
「……敵が、来ません。それどころか……」
アランの声の異変に気づき、ハインリヒが双眼鏡をひったくる。
レンズの先、数マイル先の平原。そこに『黒い絨毯』は存在しなかった。代わりにハインリヒの目に飛び込んできたのは、武器や天幕を整然とまとめ、一糸乱れぬ隊列を組んで王都の方角へと去っていく、帝国軍の『鮮やかな後ろ姿』であった。
「……撤退、だと? あれだけの兵を残したまま、退いていくというのか!?」
ガンツが怒声にも似た叫びを上げる。
陣地にいた義勇兵たちは「助かった」「敵が逃げていくぞ!」と歓喜の声を上げ始めたが、司令部のハインリヒとアランの顔には、安堵どころか、じわりと冷たい汗が滲んでいた。
「……チッ。なんという冷静な男だ。あの敵将、三万の兵を犬死にさせる愚を犯さなかったか」
そこへ、煤だらけになったマクシミリアンが帰還した。
遠ざかっていく帝国軍の背中を見て、彼も深く息を吐き出した。
「……腹を空かせて玉砕してくるかと思えば、見事な損切りだ。追いますか、父上」
「いや、追えん。敵の殿は隙がない。それに、我々の兵も限界だ」
塹壕の中では、極度の緊張から解放された義勇兵たちが、次々と泥の中に倒れ込んで泥のように眠り始めていた。
そこへ、野戦病院での治療をあらかた終えたアンジェリカが、バインダーの台帳を片手に、ロベルトたち専属護衛騎士を伴って前線へと姿を現した。
「お嬢様、野戦病院での治療が終わったばかりだというのに……! 少しはお休みください!」
「休んではいられません。ロベルト、第一陣地に放棄してきた機関銃の予備銃身と、破損したライフルの『数』を確認してください。この台帳と照合します」
アンジェリカは、疲労で蒼白な顔ながらも、強い理性の光を宿した瞳で指示を飛ばす。
「撤退する帝国軍が、万が一にも私たちの『武器』を一つでも持ち帰っていれば、帝国の技術力で構造を解析される恐れがあります。……銃は個数さえ合っていれば問題ありません。一つ残らず確認してください」
「はっ! 直ちに台帳と照らし合わせます!」
自らが生み出した兵器。それが敵の手に渡るという最悪の事態を防ぐため、彼女は震える足に鞭を打ち、持ち出した兵器の個数確認を冷徹に進めていく。
その徹底した危機管理能力に、ハインリヒや歴戦の騎士たちも深く感嘆の息を漏らすのだった。




