第30話 焦土の亡霊と払暁への奇襲
十字砲火による地獄の殺戮劇が終わり、第一波の生き残りが悲鳴を上げて退却していく。
硝煙晴れやらぬ第二陣地で、ガンツが赤熱した銃身を交換しながら、泥だらけの顔の汗を拭い、不思議そうに首を傾げた。
「……見事な戦果だが、腑に落ちねェな。第一陣地に取り付いた敵の数が、思ったより少なかった。一万の突撃と聞いていたが、せいぜい七千か八千といったところだったぞ」
その呟きを聞いて、隣でライフルを下ろした猟師上がりの義勇兵が、気まずそうに顔を見合わせた。
「あー……ガンツの旦那。実はですね」
「ん? なんだ」
「俺たち、冬に領地を捨てて島へ逃げる時……森や街道から外れた獣道に、熊除けのトラバサミや鳴子付きの落とし穴を、回収せずに『全部仕掛けっぱなし』にしてきたまんまだったんですよ」
「……は?」
「そこに加えて、アンジェリカお嬢様が『余ったから土に埋めておいて』って渡してくれた、踏むと爆発する筒も撒いてありまして……。帝国兵ども、大砲を避けるためにわざわざ道を外れて横に散らばって進軍してきたもんだから、多分、俺たちの罠を端から全部踏み抜いてきたんじゃないかと……」
申し訳なさそうに白状する猟師たちに、ガンツとアランは呆気にとられ、やがて腹を抱えて大笑いした。
「カッカッカ! 違いない! 散兵陣形が見事に裏目に出やがった! お前ら、モルトケの森をどんだけ凶悪な猟場にしてんだ!」
それは、自分たちの土地を知り尽くした領民たちによる、痛快な意趣返しであった。
だが、この一時の安堵の笑いは、すぐに訪れる『夜の底の恐怖』によって掻き消されることになる。
***
同時刻。海岸線から数マイル内陸に構築された、帝国軍の前線司令部。
日没を迎え、薄暗い天幕の中で、総指揮官グスタフ将軍は氷のように冷たい視線で戦死者報告書を睨みつけていた。
「第一波の一万、完全に敗走。……死者および再起不能の重傷者、合わせて四千以上。森に潜む未知の罠による足止めと、敵の『陣地を放棄して引き込む戦術』、および広範囲魔法兵器による被害です」
「現在、我が軍の残存兵力は、後方に控える三万弱であります。閣下、直ちに全軍で第二陣地へ夜間突撃を仕掛けますか!?」
激昂する将軍たちを、グスタフは冷たく制止した。
「愚か者が。敵の戦術は『縦深防御』だ。第一陣地はただの餌であり、本命は後ろに控える無傷の陣地と、あの広範囲魔法兵器だ。……今、むやみに残りの三万を突撃させれば、第一波と同じようにハチの巣にされて全滅する」
グスタフは卓上の地図を指で叩いた。
彼らが周辺の村から略奪してきた食糧は、移動や設営を含め、せいぜい「十日分」。ここまでの行軍ですでに数日を消費しており、前線で十万の胃袋を満たし(現在は四万だが)、戦い続けられるのは長く見積もってもあと『六〜七日』が限界だった。
「時間は我々に味方していないが、力押しの短期決戦は敵の思う壺だ。戦術を切り替える。……我々の強みは、敵よりも兵数が多いことだ。ならば、その数を『休ませないこと』に使う」
グスタフの目に、冷酷な光が宿った。
「残る三万の兵を、千人規模の小隊に細かく分けろ。そして、夜明けまで絶え間なく、第二陣地へ『夜間奇襲』を仕掛けるのだ」
「夜襲……ですか?」
「そうだ。本格的な突撃はしない。暗闇に紛れて近づき、散発的に矢を射掛け、あるいは声を上げて敵を威嚇し、すぐに退く。これを一晩中、波状的に繰り返す。……モルトケの兵どもに、一睡もさせるな」
それは、銃という兵器の最大の弱点――『射手の神経』と『弾薬の無駄遣い』を突く、極めていやらしい消耗戦の宣告であった。
***
戦闘開始から八時間経過 ―― 午後十一時
暗闇に包まれた、モルトケ軍第二陣地。
冷たい海風の音に混じって、突如として闇の奥から鋭い怒号と、パラパラという矢の雨が降り注いだ。
「て、敵だァァッ!! 夜襲だぞォッ!!」
暗闇の恐怖と極度の緊張状態にあった義勇兵の一人が、パニックを起こして悲鳴を上げ、見えない闇へ向かってライフルの引き金を引いた。
パンッ!という銃声が伝播し、周囲の義勇兵たちも次々と、敵の姿も確認しないまま闇雲に発砲を始めてしまう。
「撃つな! 無駄弾を撃つな馬鹿野郎!! 敵はすぐに引いていくぞ!!」
ガンツやアランが怒号を飛ばすが、一度火のついた恐怖の連鎖は容易には止まらない。
帝国軍の小隊は、モルトケ兵がパニックになって銃を乱射し始めると、すぐに森の奥へと後退していく。しかし、一時間もしないうちに、今度は別の場所から奇襲が仕掛けられる。
絶え間ない緊張と、いつ襲われるか分からない暗闇の恐怖。モルトケの陣営は、文字通り『神経を削り取られる』地獄の夜を迎えていた。
後方の第一野戦病院もまた、限界を迎えていた。
ランタンの薄暗い灯りの中、軍医たちとアンジェリカは血まみれのエプロン姿で、次々と運ばれてくる負傷者の止血と縫合に追われていた。
「お嬢様、右翼から新たに十名の負傷者が! 暗闇から矢を射掛けられたとのことです!」
「すぐに見ます! アルコールを切らさないで! ……っ」
ふらつく足に鞭を打ち、アンジェリカは血塗られたメスを握り直す。
昼間の激戦による負傷者に加え、夜襲による散発的な被害。休む暇など一秒たりともない。兵士たちの命を繋ぎ止めるため、彼女もまた、不眠不休の死線に立たされていた。
***
戦闘開始から十時間経過 ―― 午前一時
司令部天幕。
柱時計が重々しい音を立てて午前一時を告げる中、卓上を囲む幹部たちの顔には、色濃い疲労と焦燥が浮かんでいた。
「……クソッ。この二時間で、義勇兵たちが消費した弾薬の数は馬鹿にならん。敵の姿も見えないまま、闇に向かってタマをばら撒かされている」
ガンツが血走った目で報告書を叩きつける。
総大将ハインリヒも、眉間に深い皺を刻んでいた。
「敵の将軍、グスタフとやら。恐ろしく底意地が悪い男だ。我が軍の縦深防御に対し、真っ向勝負を避けてきた。このまま夜明けまで夜襲を繰り返されれば、島から運ばれてくる弾薬の生産すら追いつかず、何より兵士たちの神経が完全に焼き切れる」
ハインリヒは地図を俯瞰し、敵の補給状況を計算した。
「奴らの兵站は、持ってもあと六日か七日。……敵は、自分たちの腹が空っぽになる前に、我々の精神と弾薬を削り切り、限界を迎えたところで全軍を投下する腹積りだろう」
「真正面から撃ち合えば勝てるが、暗闇の消耗戦に引きずり込まれれば、先に我々の陣形が瓦解しますぞ……!」
アランが悔しげに拳を握りしめた、その時。
ずっと黙って地図を睨みつけていたマクシミリアンが、ふと顔を上げた。
「……なら、敵の前提条件を狂わせてやればいいだけの話だ」
「マクシミリアン?」
「敵は『まだ数日分の飯がある』と余裕ぶっているから、こんないやらしい小細工をしてくるんだ。……父上。夜襲部隊が戻っていく先、敵の前線野営地の場所は特定できていますか?」
「ああ、内陸に三マイル入った平原だ。そこに、今日奴らが略奪してきた食糧が積んであるはずだが……」
マクシミリアンはニヤリと、肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべた。
「俺が小隊を率いて、闇に紛れて奴らのキャンプに潜入し、『飯を全部燃やして』きます」
「なっ……!?」
突拍子もない提案に、幹部たちが息を呑む。
だが、マクシミリアンの瞳には、狂気ではなく理路整然とした冷たい炎が宿っていた。
「奴らは今、夜襲に気を取られ、森の獣道に兵を分散させている。俺と、この森を知り尽くした猟師の精鋭数名なら、帝国兵の目を掻い潜って本陣の裏まで迂回できる。
……奴らの飯を、最後の一粒まで焼き払う。そうすればどうなる? 奴らには『明日食う飯』すらなくなるんだぞ」
「……!」
ハインリヒの目が、カッと見開かれた。
もしその作戦が成功すれば、帝国軍は『数日かけて削る』という持久戦が完全に不可能になる。飯がなければ、明日には暴動が起きる。
「敵将グスタフは、判断せざる負えないはずです。夜明けと共に、残る三万の全兵力を一斉に投下し、力業でモルトケの陣地を圧殺して飯を奪うか、撤退して立て直すか」
それは、敵のいやらしい戦術を力技で叩き潰し、ふたたび『撤退せざる負えなくさせる』か、『密集した巨大な的』へと引きずり戻すための、極めて攻撃的で凶悪な一手であった。
「……万が一見つかれば、三万の敵陣のど真ん中で孤立するんだぞ」
「構いません。アンジェリカが王都から戻ったあの日から、偶に何か考えてるんですよ。おそらく、モルトケが生き延びるためにアンジェリカの提案した事業計画のことでしょうけどね。……妹一人にだけ背負わせるつもりはないんですがね、どうにも一人で背負い込んでるみたいで。まあ、そんなアンジェリカに比べたら、──この程度、夜の散歩みたいなもんです」
マクシミリアンは腰の剣を叩き、父親を見据えた。
そして数秒の沈黙の後。ハインリヒはフッと口角を上げ、力強く頷いた。
「行け、マクシミリアン。猟犬の牙の鋭さを、奴らの喉元に突き立ててこい。アンジェリカが背負っているものは、私が…いや、私たちみんなで背負うものだ」
「御意」
マクシミリアンは、精鋭の猟師数名と共にアンジェリカが作った特製の『火薬ビン』を抱え、一陣の風のように深夜の森へと消えていった。
三万の敵陣の裏をかく、決死の補給線焼き討ち作戦。
ガンツやアランは、改めてアンジェリカが考案した魔導武器の存在の重さを理解した夜だった。
極限の知恵比べは、払暁の決戦に向けて、最も熱く、最も残酷な最終局面へと突入しようとしていた。




