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国境の盾は砕けない ~婚約破棄された辺境伯令嬢、生存第一に剣から銃に持ち替える~  作者: 薄氷薄明
第3章

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第28話 散らばる黒影と死線の咆哮




「……これより、最終の配置命令を下す」


 旧モルトケ領、海岸線の後方高台に設置された司令部天幕。


 総大将ハインリヒの低く、しかし野太い声が、幹部たちの耳を打った。卓上の広大な地図には、海岸線を起点に何重にも引かれた防衛線が記されている。


「第一陣地。最も過酷な最前線の塹壕(ざんごう)には、ガンツ、アラン。お前たちが率いる正規兵・九千八百が張り付け。任務は『遅滞戦闘(ちたいせんとう)』だ。敵を限界まで引き付け、弾の雨を降らせて最大限の出血を強いた後……俺が司令部から上げる『赤の信号弾(撤退の合図)』と共に、速やかに第二陣地へ後退しろ」


「承知しました。退き際が肝心ですな。機関銃の銃身(バレル)は、後退時にすべて外して持っていきます」


 ガンツが泥に塗れた顔で笑い、アランも静かに頷いた。


「マクシミリアン。お前は島から到着した義勇兵・五千を率い、後方の第二、第三陣地を固めろ。第一陣地からガンツたちが退いてきた際、追撃してくる敵に対し、塹壕の中から一斉射撃で援護の弾幕(だんまく)を張れ。……同時に、ハンスの輸送隊が運んでくる弾薬箱を、前線の各銃座へ絶え間なく配給し続けろ」


「はっ! 義勇兵たちには、絶対に塹壕から頭を出さず、銃の引き金だけを引くよう徹底させます。……それと、父上」


 マクシミリアンはニヤリと笑い、傍らに控えていた数名の若手騎士たちーー本来はアンジェリカの専属護衛を務めるロベルトたちーーを一瞥(いちべつ)した。


「第一陣地が退く際の『目くらまし』には、俺とロベルトたちで、島でガレンの親父に改造してもらった『アレ』を使わせてもらいますよ。……アンジェリカは今、野戦病院に詰めていて護衛は不要ですからね」


「ふっ。好きにしろ。ただし、無駄撃ちは許さんぞ」


「わかっています。派手な花火を打ち上げてやりますよ」


 これこそが、モルトケ軍が編み出した『縦深防御(じゅうしんぼうぎょ)』の完全な形だった。


 死を恐れぬ波状攻撃に対し、決して一箇所で固守しない。血を流し、陣地を捨てながら、敵の補給線を間延びさせ、モルトケの広大な大地そのものを巨大な「圧殺機(プレスき)」として用いるのだ。


「俺はこの高台の司令部から戦局全体を俯瞰し、各陣地への弾薬の割り当てと、撤退のタイミングを指揮する。アンジェリカ、お前は野戦病院で待機だ。……地獄になるぞ」


「……ええ。お父様たちも、どうかご無事で」


 アンジェリカの青白い顔を見つめ返し、ハインリヒは幕僚たちへ向けて軍刀を掲げた。


「各員、配置につけ! 敵の第一波、一万が来るぞ!」



***



「いいかお前ら! 絶対に土嚢から頭を出すな! 肩に銃床(ストック)をしっかり押し当てて、前だけを見て引き金を引け!」


 後方の第二陣地。


 マクシミリアンの怒号が飛ぶ中、真新しいライフルを握りしめた村の猟師や若者たちの義勇兵が、ガタガタと震えながら塹壕の泥壁に背中を預けていた。


 彼らは数ヶ月前、故郷を捨てる過酷な撤退戦を生き抜いた猛者たちだ。人を殺した経験も、味方が死ぬ光景も痛いほど知っている。


 だからこそ、遠くから聞こえてくる数万の軍靴の地鳴りと、「再びあの絶望的な数の暴力と向き合わねばならない」という重圧が、彼らの本能的な恐怖を極限まで煽り立てていた。


「だ、旦那様……俺たち、またあいつらを相手にするんですね……っ。あの黒い鎧の群れが、夢に出てきて……っ」


「ビビるな! お前たちはあの撤退戦を生き抜いた、モルトケの男だろうが!」


 マクシミリアンは、トラウマに怯える若者の肩を力強く叩き、ニッと野性的に笑ってみせた。


「俺の妹が作ったこの新しい銃は、帝国の鎧も、身分の差も、鍛錬の差もぶち抜く! お前たちはただ、背後にいる家族を守るためだけに、安全なこの穴から鉛玉をばら撒けばいい!」


 力強い主君の言葉に、義勇兵たちの目に再び闘志の火が灯る。


 マクシミリアンは彼らの顔を見渡し、塹壕の一角に据え置かれた『分厚い布を被せられた巨大な筒』へと視線を向けた。


 ロベルトたち護衛騎士が、その巨大な兵器の周りで火薬の計量と魔力の調整を行っている。


(敵将の戦略は完璧に近い。だが、俺たちの『規格外の兵器』までは計算に入っていまい……!)



***



 一方、第一陣地の彼方。


 地平線を黒く染め上げながら、帝国軍・殲滅部隊の第一波一万が、不気味なほどの静けさで進軍していた。


「……前進。歩調を乱すな。兵と兵の間隔は十歩を保て」


 小高い丘の上から馬を進めた総指揮官グスタフ将軍が、冷酷な声で命じる。


 彼らが組んでいるのは、バルガス将軍のような密集陣形ではない。巨大な網を広げるようにして、横一列に広く散らばった『散兵陣形(さんぺいじんけい)』であった。


「怯むな! 前に進め! 立ち止まった者は背後から斬るぞ!」


 前線の帝国兵たちは、背後に控える督戦隊(とくせんたい)(逃亡者を処刑する部隊)の圧力に押され、重い足取りで進んでいた。


 彼らの腹には、近隣の村から略奪した血塗られた干し肉と麦が収まっている。だが、その顔に士気はない。


 自分たちが「敵の弾薬を消耗させるための肉の盾」として使い潰されることを、肌で理解していたからだ。それでも、進むしかなかった。


「敵の陣地が見えました! 距離、二千ヤード!」


「よし。……さあ、見せてもらおうか。未知の兵器とやらが、いかほどのものかを」


 グスタフが冷たい笑みを浮かべた直後。


 ドゴォォォォォォンッ!!!


 モルトケ軍の後方から、十門の榴弾砲(りゅうだんほう)が火を噴いた。


 空を引き裂くような飛翔音と共に、帝国軍の陣列の中で凄まじい土砂と爆炎が吹き上がる。


 だが。


「……駄目です! 敵が散開しているため、一発の砲弾で吹き飛ぶ数が少なすぎます!」


「クソッ、密集していれば一発で数十人は吹き飛ばせるはずが……せいぜい三人か四人しか倒れねェ!」


 高台の司令部から双眼鏡で弾着観測をしていた砲兵たちが、絶望的な声を上げる。


「やはりな。敵の爆発魔法も、密集していなければただの土煙に等しい」


 グスタフは爆炎を見つめながら、満足げに頷いた。


 散らばった一万の兵士たちは、隣の仲間が砲弾で吹き飛ばされても、恐怖を押し殺してただ前へと歩みを進め続ける。


 距離は、確実に縮まっていた。



***



 冷たい海風が吹き抜ける、最前線の第一塹壕。


「……来るぞ。引き付けろ。まだ撃つな」


 ガンツは泥まみれの軍刀を握りしめ、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。


 距離、五百ヤード。


 散開した帝国兵たちが、鉄条網の手前で歩みを止め、姿勢を低くする。彼らは分厚い鋼の大盾を構えながら、じりじりと距離を詰めてくる。不気味なほどの静けさだった。軍鼓も突撃ラッパもない。ただ、無数の軍靴が泥を踏みしめる音だけが、死の足音のように響いてくる。


「……散開した敵を撃つのは、ただの的当てじゃねェ。一人一人、確実に照星(サイト)に収めて殺さなきゃならねェんだ」


 ベテランの兵士が、頬に冷や汗を伝わせながら呟く。


 密集陣形ならば、適当に撃ち込んでも誰かに当たった。だが、五歩も十歩も離れて向かってくる敵に対しては、一発必中の精密射撃が要求される。それは、アンジェリカが懸念した通り、兵士たちの精神と弾薬を異常な速度で削り取っていくはずだった。


 カチャリ、カチャリと、遊底(ボルト)を引いて薬室(やくしつ)に弾を送り込む無機質な金属音だけが、塹壕の中に連鎖していく。


 機関銃座では、冷却用の水筒から水が注がれ、真鍮(しんちゅう)給弾帯(ベルト)が泥に触れぬよう、兵士たちが慎重に支えていた。


 距離、三百ヤード。


 敵の顔の輪郭が見え始めた。血走った目。飢えと恐怖、そして狂気が混じり合った、帝国兵たちの表情。


「……各員、射界(しゃかい)確保」


 アランの静かな声が、塹壕の端から端へと伝播する。


 九千八百の銃口が、一斉に散らばった黒い影へと向けられた。機関銃手の指が、冷たい引き金に添えられる。


 風が止んだ。


 距離、二百ヤード。


 帝国兵の一人が、極度の緊張と恐怖に耐えきれなくなったのか、奇声を上げて突撃の歩調を速めた。それを合図にしたかのように、一万の黒い波が、一斉に抜刀して地を蹴る。


「うおおおおおォォォッ!!!」


「モルトケの残党どもを皆殺しにしろォォッ!!」


 散らばっていた黒い影が、雪崩のように鉄条網へと殺到してくる。


 その光景を前に、ガンツは天に向かって軍刀を振り下ろした。


「――()ェェェェェェェェッ!!!」


 ガガガガガガガガガガッ!!! ダァァァァァァンッ!!!


 第一塹壕が、文字通り「炎の壁」と化した。


 十数挺の機関銃が重低音を轟かせながら、散兵線を横に薙ぎ払うように弾幕を展開する。九千八百のライフルが、一斉に死の鉄礫(てつつぶて)を吐き出した。


「ぎゃあああッ!?」


「ひぃッ、盾が、盾が紙みたいに――ごぼァッ!」


 散兵陣形であろうと、絶対的な火力の前に肉体は無力だった。


 先頭を走っていた数百名の帝国兵が、見えない壁に激突したかのように一瞬で弾け飛び、血の霧となって泥の中に沈んでいく。


 だが、敵は止まらない。


 味方の死体を乗り越え、鉄条網に死体を被せて足場にし、散らばった一万の兵が狂気のような突撃を継続する。


「撃て! 撃ち続けろ! ボルトの操作を止めんなァッ!」


「右翼、敵が鉄条網に取り付きました! 弾を寄こせェッ!」


 薬莢(やっきょう)が雨のように降り注ぎ、硝煙が視界を白く染め上げていく。


 機関銃の銃身から、早くも冷却水が沸騰する白い蒸気が噴き上がり始めた。


 モルトケ軍・精鋭九千八百による死守と、帝国軍第一波・一万による狂気の消耗戦。


 大量の血と鉛が泥に混ざり合う、地獄の防衛戦が、今、完全にその火蓋を切った。




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