第27話 血塗られた麦と総力戦と十字架
旧王都の周辺には、絶望と怨嗟の煙が立ち上っていた。
南区画の兵站拠点を爆破された帝国軍は、生き残るために最も冷酷で合理的な手段――周辺領地からの大規模な徴発を実行したのである。
王都の広場には、近隣の村々から略奪された物資が次々と運び込まれていた。
荷車に積まれた小麦の麻袋には、それにすがりついて抵抗した農民たちの生々しい血がこびりついている。屠殺された家畜の肉、冬を越すための干し肉。さらに本国から緊急輸送された、大量の矢の束と予備の魔石。
血塗られた物資の山を見下ろしながら、帝国軍の新たな司令官が冷酷に目を細めた。
「……これだけあれば、四万の兵を十日は戦わせることができる。十分だ」
男の名は、グスタフ。帝国陸軍第二歩兵師団を率いる将軍であり、今回の『四万の殲滅部隊』の総指揮を任された男である。
猪突猛進であったバルガスとは対極に位置する、氷のように冷徹な用兵家だ。
「グスタフ将軍。敵の『黒い筒』と未知の爆発魔法に対し、いかにして陣を敷きますか? バルガス将軍の重装甲馬車は、遠距離から紙屑のように粉砕されたとのことですが」
副将の問いに、グスタフは卓上に広げた地図へ駒を散らすように置いた。
「バルガスの敗因は『密集』したことだ。敵の兵器が直進する鉄礫と爆発であるなら、密集陣形や巨大な装甲は、ただの的に等しい」
グスタフは無表情のまま、冷酷な戦術を口にする。
「全軍に『散兵陣形』を徹底させよ。兵と兵の間隔を広く開け、決して固まるな。一人を殺すのに一発の矢弾を使わせろ。……そして四万の兵を四つの部隊に分け、昼夜を問わず、絶え間なく突撃を繰り返す『波状攻撃』を仕掛ける」
それは、兵士の命を「敵の弾薬を消耗させるための的」として割り切った、極めて恐ろしい戦術であった。
「敵の物理兵器は、鉄だ。撃てば撃つほど弾は減り、筒が熱を持てば壊れるはずだ。我々は四万の兵が全滅する前に、奴らの弾を空にすれば勝てる。……出陣だ。モルトケの残党を、歴史からすり潰せ」
血塗られた糧食を食らい、殺気立った四万の帝国軍が、地鳴りを立てて北の海岸線へと進軍を開始した。
***
同じ頃。帝国の進軍から遠く離れた、南の海の果て。
モルトケ家が冬を越した『監獄島』は、もはやかつての流刑地の面影はなく、島全体が巨大な『兵器廠(軍需工場)』へと変貌を遂げていた。
「手を止めるなァッ! 溶鉱炉の火を絶やすな! 前線の兵士どもが撃つタマが足りねェぞ!!」
熱気と煤にまみれた巨大な工場跡で、上半身裸の鍛冶師ガレンが、血を吐くような怒号を飛ばしていた。
カンッ、カンッというけたたましい金属音が、昼夜を問わず鳴り響いている。
彼の下で働くのは、島に残された約一万五千の非戦闘員たちだ。女、子供、老人たち。その全員が煤で顔を真っ黒にしながら、必死の形相で作業に没頭していた。
「ガレンの親方! 機関銃の交換用銃身、五十本仕上がりました!」
「おう! すぐに水で冷やして箱に詰めろ! 熱で歪んだら使い物にならねェからな! 寸法はミリ単位で確認しろ!」
女たちが真鍮の薬莢に黒色火薬を詰め、子供たちがそれを磨き上げ、ガレンたち職人が大砲の弾とライフルの銃身を鋳造する。
『総力戦』の真の姿であった。剣を握れない者たちも、前線で命を懸ける家族のために、血の滲むような思いで「命」を作り続けているのだ。
「……よし、第一便の積み込み完了だ! ハンス隊長、頼んだぞ!」
木箱に詰められた数万発の弾薬と予備の銃身が、海岸で待つ平底の輸送船へと次々に積み込まれていく。
補給隊長のハンスは、ずっしりと重い木箱を撫でながら、力強く頷いた。
「ああ、受け取った。ガレンの親父、皆も、休めるときに休んでくれ。……この血と汗の結晶は、俺が必ず前線へ届ける!」
ハンス率いる輸送船団が、波を切り裂き、決戦の地である北の海岸線へと向けて全速力で舵を切った。
***
「――ハンス隊長の輸送船団、到着しました! 弾薬五万発、予備の銃身、追加の榴弾砲……それに、島で待機していた猟師や若者たち『五千の義勇兵』の上陸も完了です!」
旧モルトケ領の海岸線に構築された第一塹壕。
次々と陸揚げされる真新しい木箱の山と、猟銃や真新しいライフルを握りしめた領民たちの姿を見て、前線の兵士たちの間に安堵と闘志が広がる。
だが、司令部天幕に集まったハインリヒたちの表情は、依然として険しいままだった。
「物資と、義勇兵の到着はありがたい。先の激戦で死者・戦闘不能者も出ている。……現在、戦える正規の精鋭兵は約九千八百。これに義勇兵五千を加え、総兵力はおよそ一万五千弱といったところだな」
ハインリヒが地図を睨む。
斥候の報告によれば、帝国の殲滅部隊・四万はすでに目と鼻の先にまで迫っている。
「敵将グスタフ……厄介な男が出てきましたね。奴の部隊は密集していません。完全に散開し、こちらの砲撃の被害を最小限に抑える『散兵陣形』をとっています」
客将アランが、苦々しい顔で報告する。
散開して向かってくる四万の兵。それはつまり、一発の砲弾で吹き飛ばせる敵の数が激減することを意味する。
「加えて、奴らは四万を四つの部隊に分け、昼夜の区別なく絶え間なく突撃を繰り返すつもりだ。……こちらの体力が限界を迎えるのを待つ気だろう」
ガンツが腕を組み、奥歯を噛み鳴らした。
そこへ、図面を見ていたアンジェリカが、青ざめた顔で口を開いた。
「体力だけではありません。……技術的な問題です。島から予備の銃身が届いたとはいえ、敵が散開して波状攻撃を仕掛けてくれば、一人を仕留めるために消費する弾薬の数は跳ね上がります。機関銃も、絶え間なく撃ち続ければ数時間で焼き切れる。……真正面から撃ち合い続ければ、この第一陣地は三日で物理的な限界を迎えます」
アンジェリカが突きつけた物理法則に、天幕の中が重い沈黙に包まれる。
「真正面から受け止めるのが無理なら、どうする。騎士の意地で、死ぬまで剣を振るうか?」
ガンツが自嘲気味に笑った、その時。
ずっと黙って地図を見つめていたマクシミリアンが、ふと顔を上げた。
「……真正面から受け止めるから、壊れるんです。魔法の防壁と同じです。固い壁は、強い力で叩かれ続ければいつか割れる。……いっそ、少しずつ『退きながら』戦うのはどうでしょう?」
「退く? モルトケの陣地を、敵に明け渡すということか?」
アランが眉をひそめる。騎士の常識において、陣地を捨てることは敗北と同義だ。
しかし、ハインリヒはその言葉にハッと目を輝かせ、地図上の第一陣地の後ろを指差した。
「……なるほど。第一陣地を死守せず、限界まで敵を引き付けて弾を撃ち込み、塹壕に取り付かれそうになったら……未練なく陣地を捨てて、後方に掘っておいた『第二陣地』へ後退する。
第一陣地を抜いたと錯覚し、陣形を崩して雪崩れ込んできた敵を、第二陣地から無傷の機関銃でハチの巣にするわけだ」
「柔よく剛を制す、か。泥臭いが、実に理にかなっている」
ガンツが獰猛に笑い、アランも納得したように頷いた。
「人員の配置はどうしますか、閣下。島から到着した五千の義勇兵をどう組み込むか……」
「決まっている」
ハインリヒは地図に駒を置いた。
「最も重圧のかかる最前線の『第一塹壕』での遅滞戦闘と撤退は、高度な訓練を受けた九千八百の『精鋭』のみで行う。
そして、五千の『義勇兵』は、後方の第二、第三塹壕に配置しろ。予備の銃身や弾薬の運搬作業をさせつつ、我々が後退してきた際には、安全な塹壕の中から一斉射撃で援護させるのだ」
「なるほど! 白兵戦の経験がない村の若者でも、安全な穴の中からライフルの引き金を引くことならできますからな!」
騎士の意地を捨て、ひたすらに泥臭く敵の血をすり減らす。
それは、軍の専門家であるハインリヒたちが、アンジェリカのもたらした「銃の限界」というデータから導き出した、近代戦における『縦深防御』という恐るべき防衛戦術の誕生だった。
「よし! 全軍に布告せよ! 陣地はくれてやれ。だが、一歩退くごとに、帝国兵の死体の山を築き上げろ! ……総員、第一種戦闘配置ッ!」
「「「了解!!」」」
将兵たちの凄まじい怒号が海岸線に響き渡る。
軍議は終わり、幹部たちが足早にそれぞれの持ち場へと散っていく。
***
ただ一人、作戦卓の前に残されたアンジェリカは、自分の震える両手をじっと見つめていた。
ハインリヒたちの考案した戦術は、完璧だった。あの戦術を用いれば、味方の被害を最小限に抑え、敵を最も効率的に「処理」できるだろう。
だが――。
(……私は、何というものをこの世界に持ち込んでしまったの。)
アンジェリカの胸の奥で、冷たい恐怖が渦巻いていた。
前世の知識。生き延びるために、モルトケの家族を守るために、銃という兵器をこの世界に作り出した。
だが、その結果はどうだ。
彼女の知識は、より残酷に、より効率的に「大量の人間を殺戮するための戦術」へと昇華される。
島では女子供が煤にまみれて火薬を詰め、前線では命の選別が行われ、敵は数万の単位で肉片へと変わっていく。
かつての、騎士が名乗りを上げて一騎打ちをする戦争は終わった。
人間が機械の部品のように消費される『総力戦』。その地獄の釜の蓋を開けたのは、他でもない、アンジェリカ自身なのだ。
(後戻りはできない。私たちが生き残るために、私はこの業を背負って泥の中を進むしかない。)
アンジェリカは血の気の引いた唇を強く噛み締めると、顔を上げ、第一野戦病院の天幕へと向かって走り出した。
大量殺戮兵器をこの世界に生み出した、重すぎる十字架。
その罪を贖うかのように、彼女は今日も、一人でも多くの命を救うためにアルコールと包帯を握りしめる。
地平線の彼方が、帝国の軍旗と黒い鎧の群れで埋め尽くされた。
軍靴の地鳴りが、海岸の砂を震わせる。
四万の波状攻撃と、一万の縦深防御。血と鉄と、少女の葛藤が混ざり合う、モルトケ領奪還の最大の激戦がついに火蓋を切った。




