第26話 魔女の伝令と冷徹なる飢餓陣形
王都の南区画を吹き飛ばした未曾有の粉塵爆発から、数時間が経過していた。
夜明け前の暗い空を、数千トンの小麦と矢弾が燃え盛る巨大な炎が、不気味な朱色に照らし出している。
王城の作戦司令室。
爆風で吹き飛んだガラス窓の破片が散乱する室内で、帝国軍総司令官ジークス大将は、額に一筋の切り傷を負いながらも、微動だにせず卓上の地図を睨みつけていた。
周囲の将軍たちが「全軍を北へ向けろ」「まずは王都のネズミを狩れ」と恐慌状態に陥り、顔を真っ赤にして怒号を交わす中、彼だけは異常なほどの静けさを保っていた。
「……黙れ。貴様ら、十万の兵を抱えてパニックを起こす気か」
ジークスの低く、底冷えのする声が室内に響き渡ると、将軍たちは弾かれたように口をつぐんだ。
「被害状況は確定した。南区画に備蓄していた食糧、および予備の矢弾の七割が完全に焼失した。……だが、三割は北区画と西区画に分散させていたため、無事だ」
「し、しかし閣下! たった三割では、十万の大軍を維持するには到底――」
「分かっている。このまま無策で駐屯を続ければ、半月で我が軍は自滅する」
ジークスは地図上に置かれた自軍の駒を、冷酷な指先で弾き飛ばした。
「全軍に布告せよ。本日ただいまをもって、全将兵の食事を『第一種制限』へと移行する。配給は一日に干し肉一枚と固パン半欠片のみ。食糧庫に無断で近づく者は、階級を問わずその場で斬首しろ」
それは、十万の軍隊に対する事実上の飢餓宣告であった。だが、ジークスの非情な命令はそれだけでは終わらない。
「第一騎兵隊、一万を直ちに出撃させよ。向かう先は北の海岸ではない。王都の周辺、および隣接する旧モルトケ領のすべての村落だ。……徴発を行え」
「徴発、でありますか」
「そうだ。農民どもの隠し持っている麦、冬越しのための干し肉、家畜、すべてだ。一粒の麦も残すな。逆らう者は村ごと焼き払って構わん。……我々が生き残るための物資を、この土地から根こそぎ吸い上げるのだ」
将軍たちが息を呑む。
それは「徴発」という言葉で飾られた、軍隊による大規模な略奪と虐殺の許可だった。だが、十万の兵を飢えさせないためには、現地の領民から奪い取るしかない。それが軍事における最も残酷な現実であり、指揮官としての正着だった。
「同時に、本国へ早馬を五騎放て。特急の輜重部隊を要請しろ。……王都の地下に潜むネズミどもは、兵站を焼き払えば我が軍が暴徒と化し、無策で北の海岸へ全軍突撃してくると踏んだのだろう。だが、そうは問屋が卸さん」
ジークスの目に、冷徹な理性の光が宿る。
「残った三割の物資と、周辺からの徴発。これを一箇所に集中させ、完全に統制された『四万』の殲滅部隊を編成する。腹を空かせた十万の烏合の衆ではなく、完璧に補給を満たした四万の精鋭で、北の海岸に陣取るモルトケの残党を物理的に圧殺する。……昼夜を問わぬ波状攻撃で、奴らに息継ぐ暇も与えるな。準備を急げ」
爆発の混乱からわずか数時間。
ジークスは完全に冷静さを取り戻し、最も恐ろしい『次の一手』を盤上に打ち下ろしていた。
***
「……見事な手腕ですね。あの地獄を目の当たりにして、数時間で軍の統制を取り戻すとは」
王都を見下ろす時計塔の暗がり。
黒装束に身を包んだエルフリーデは、眼下で松明を掲げて整然と動き出した帝国軍の騎兵部隊を見つめ、感嘆の息を漏らした。
混乱に乗じて暴動が起きるか、あるいは激昂して北の海岸へ全軍が雪崩れ込むか。そう予測していた彼女にとって、ジークスの冷徹な対応は予想を遥かに上回るものだった。
「兵糧の三割を残した上で、近隣の村落への略奪部隊の派遣、そして本国への補給要請。……全く、嫌になるほど有能な司令官ですこと」
「ふん。七割の飯を焼かれてなお、あれほど理路整然と動ける将が帝国にいたとはな。昔戦った時は、もっと血の気の多い猪ばかりだったが」
ヴィルヘルムが、血の匂いを拭い去った大剣を背負いながら鼻を鳴らす。
「どうする、エルフリーデ。略奪に向かう一万の騎兵を、我々で遊撃するか?」
「無理ですわ。いくらあなたでも、平原で一万の騎兵を相手にするのは分が悪い。それに、私たちの役目はここまでです」
エルフリーデは懐から羊皮紙を取り出し、素早い手つきで暗号文を書き記していく。
「敵将は物資を集中させ、三万から四万の『完全武装の精鋭』を北の海岸へ向かわせるはずです。飢えた十万よりも、統制された四万の方がよほど恐ろしい。……この事実を、一刻も早くハインリヒたちに伝えねばなりません」
彼女が虚空に向かって魔力を練り上げると、青白い光が収束し、一羽の美しい『伝令鳥』が姿を現した。
エルフリーデは羊皮紙を鳥の足に結びつけ、北の夜空へと放った。
***
翌朝。
旧モルトケ領の海岸線に構築された第一塹壕には、硝煙と潮風の入り混じった重い空気が立ち込めていた。
夜通し行われた陣地の補修と、赤熱した機関銃の銃身の冷却作業。泥にまみれた兵士たちは、塹壕の壁に寄りかかりながら泥のように眠っている。
「――父上! 王都のお祖父様たちから、伝令鳥が戻りました!」
司令部天幕に、マクシミリアンが青白い光の鳥を手に飛び込んできた。
徹夜で図面とにらめっこをしていたハインリヒ、ソフィア、アンジェリカ、そしてガンツやアランといった幹部たちが一斉に顔を上げる。
「来たか。読め、マクシミリアン」
ハインリヒの鋭い声に、マクシミリアンは鳥の足から羊皮紙を外し、暗号を読み解いていく。
読み進めるにつれ、彼の顔色が変わっていった。
「……南区画の兵站拠点の爆破に成功。敵の食糧と矢弾の七割を焼失させた、とのことです」
「おおッ! さすがは大旦那様と奥様だ!」
「七割の物資を失えば、十万の軍は動けまい!」
ガンツたちが歓声を上げるが、マクシミリアンの言葉はそこで終わらなかった。
「……しかし、敵総司令官ジークスは健在。残存する三割の物資を厳格に統制し、不足分を補うため近隣の村落へ一万規模の略奪部隊を派遣。……そして数日以内に、残存物資をすべて注ぎ込んだ『四万の殲滅部隊』を、この海岸線へ差し向けてくるだろう、と」
歓声が、水を打ったように静まり返った。
天幕の中に、冷や汗のような冷たい緊張が走る。
「……最悪の手を打ってきましたね」
アンジェリカが、図面から顔を上げて呟いた。
「敵が兵站を失い、十万の暴徒となって無秩序に突撃してくれば、機関銃と鉄条網で容易にすり潰せました。……ですが、相手の司令官は冷静でした。我々の兵器の最大の弱点……『弾薬の消費量』と『銃身の過熱』を完璧に計算に入れています」
アンジェリカの言う通りだった。
先日のバルガスの一万を退けるだけでも、兵士たちは肩が外れるほどライフルを撃ち続け、大量の鉛玉と火薬を消費した。機関銃の銃身に至っては熱で赤く歪みかけていたほどだ。
もし、四万もの統制された精鋭が、波状攻撃で昼夜を問わず押し寄せてきたら。
こちらの弾薬が尽きるか、銃が壊れるのが先か。
「現在、我々の前線戦力は約一万。相手は約四万。……四万の敵に昼夜を問わず波状攻撃をされれば、弾薬の補給が追いつかず、この第一陣地は数日で突破されます」
客将アランが、苦渋に満ちた声で現実を突きつけた。
だが、総大将ハインリヒの目に絶望の色はなかった。彼は卓上の地図を力強く叩き、ニヤリと猛禽類のような凄絶な笑みを浮かべた。
「敵は四万。弾切れを狙う消耗戦か。上等だ。……ハンス!」
「はっ!」
「直ちに監獄島と沖合の輸送船団へ『最高警報』の合図を送れ。……島に残してきた鍛冶師のガレンに、こう伝えよ。『今日この刻より、島の全工場と溶鉱炉を、二十四時間体制で限界まで稼働させろ』とな」
ハインリヒの言葉に、幹部たちの目がハッと見開かれた。
「ジークスは、我々の弾が尽きると踏んでいる。ならば、尽きなければいいだけの話だ。……ガレンの親父をはじめとする職人たち。そして島に残した働ける女子供や老人たち。前線で剣を振るえぬ彼らには、島で『我々の命』を作ってもらう」
「……なるほど。銃を撃つのは我々一万。だが、その後ろには、絶え間なく弾薬を送り続ける二万の『銃後の戦士』がついているというわけですな。あのガレンの親父殿なら、きっと『任せておけ』と笑って不眠不休で鉄を打ち始めるでしょう」
ガンツが獰猛な笑みを浮かべた。
アンジェリカも力強く頷く。
「ガレンたちの指揮の下、島の溶鉱炉を限界まで燃やし、女たちが火薬を詰め、子供たちが空薬莢を磨く。……そして出来上がった弾薬と交換用の銃身を、ハンス隊長の輸送船団が夜通しでこの海岸へピストン輸送する。敵の命が尽きるのが先か、ガレンたち職人の生産力が上回るか……純粋な『工業力』の勝負です」
それが、彼女がもたらした技術革命が引き起こす、全く新しい戦争の形だった。
戦争はもはや、一部の騎士や兵士だけが前線で血を流すものではない。前線の兵士と後方の工場が一本の太い血管(補給線)で繋がり、国に生きる全ての人間が血と汗を流して参加する『総力戦』の時代へと突入したのだ。
「敵の殲滅部隊が到着するまで、あと数日。それまでに、この海岸線を一歩も退かぬ難攻不落の要塞へと作り変えろ! 弾薬の備蓄所を拡大し、第一陣地の後方に、第二、第三の予備塹壕を掘れ! ……帝国に教えてやろう。国を挙げて本気になったモルトケがどれほど泥臭く、そして恐ろしいかをな」
モルトケ軍、前線の兵力約一万。そして島で武器を打ち続けるガレンと二万の領民たち。
対する帝国軍殲滅部隊、四万。
知略と兵站を巡る前哨戦を終え、大陸の歴史を塗り替える真の『総力戦』の幕が、今、切って落とされようとしていた。




