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国境の盾は砕けない ~婚約破棄された辺境伯令嬢は、王都の混乱を他所に一族と領民の生存戦略を画策する~  作者: 薄氷薄明
【第3章】

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第7話 剣鬼の凶刃と魔女の智謀




 深夜。帝国軍の占領下(せんりょうか)にある旧王都の南区画。


 そこは元々、王国の巨大な穀物庫や交易(こうえき)のための巨大倉庫が密集する商業地帯であった。現在、その広大な一帯は帝国本隊十万の胃袋を支える巨大な『兵站拠点(へいたんきょてん)』として接収され、高い石造りの塀と、松明たいまつを掲げた厳重な歩哨(ほしょう)によって完全に隔離されていた。


「……急げ! 休むな! ジークス大将閣下からの至急の命令だ! 明日の夜明けまでに、第一陣から第三陣まで、各二万の兵に五日分の輜重(しちょう)(食糧と矢弾)を積み込め!」


「無茶を言うな! 六万規模の物資を一晩で用意しろだと!? 馬車が足りねェよ!」


 巨大な倉庫群の隙間を、怒号と馬のいななき、そして重い荷車が石畳を軋ませる音が絶え間なく飛び交う。


 北の海岸線に現れたモルトケの新兵器をすり潰すため、総司令官ジークスが下した『昼夜を問わぬ波状攻撃(はじょうこうげき)』。それを実行に移すため、後方の兵站部隊は文字通り不眠不休の異常な作業を強いられていた。


 山のように積まれた小麦の麻袋。


 何万本という矢の束と、魔導砲の予備魔石。


 兵士たちが乱暴に麻袋を担ぎ、荷台へ放り投げるたびに、大量の『粉塵(小麦の細かい粉)』が空中に舞い上がる。換気の悪い巨大倉庫の内部は、松明の炎さえ白く(かす)むほど、濃密な粉塵の霧に覆われていた。



 その巨大な胃袋の死角――巡回の兵士が行き交う倉庫の屋根、太い(はり)の上に、闇に溶け込むように潜伏している影があった。


「……ご苦労なことだ。十万の口を満たすための兵站線、見事な構築力と言えよう。さすがは軍事国家の兵站将校といったところね」


 黒装束を纏った老婦人、エルフリーデ・フォン・モルトケが、冷たい目で見下ろして(わら)った。


 兵士たちは、自分たちが今、どれほど危険な空間で火(松明)を扱っているかに全く気付いていない。小麦粉の粒子がこれほどの密度で空気中に浮遊している状態は、致死量の爆薬の海を泳いでいるのと同じだ。


「だが、巨大すぎる胃袋は、それ自体が最大の『急所』となる。……暗部(あんぶ)の者たち、準備はいいですね?」


「はっ。エルフリーデ様の指示通り、第一倉庫から第五倉庫まで、全ての『換気窓』を外から完全に封鎖(ふうさ)しました。内部は現在、完全な密閉状態です」


 音もなく現れた工作員の報告に、エルフリーデは妖艶に微笑む。


「よろしい。換気ができず、粉塵が充満した巨大な密閉空間……。あとはそこに、最適な『火種』を投げ込むだけですわ」


 かつて他国で「智謀の魔女」と恐れられた彼女の狙いは、単純な放火ではない。


 孫娘のアンジェリカがもたらした異世界の知識にも通じる、物理法則を極限まで利用した『粉塵爆発(ふんじんばくはつ)』という大質量破壊工作であった。



「問題は、あの五つの倉庫の入り口を固めている『近衛兵』どもですね。中から扉を開けられないよう外から重い鎖で施錠(せじょう)し、同時に着火の細工をするには、彼らを『一切の音を立てずに、同時処理』する必要がありますが……」


 エルフリーデが視線を向けた先。


 巨大な鉄扉の前には、それぞれ重装備の帝国兵が四人ずつ、計二十人が警戒に当たっていた。


 一斉に殺さねばならない。彼らが一人でも悲鳴を上げるか、剣を抜いて甲冑を鳴らせば、中で作業している数千の兵站部隊が異変に気づいて雪崩れ込んでくる。


「……案ずるな、我が妻よ」


 その時、エルフリーデの背後の暗闇が、ヌルリと動いた。


 いや、暗闇ではない。


 白髪の老兵、ヴィルヘルム・フォン・モルトケだ。


 身の丈を超える分厚い大剣を背負いながら、彼が立ち上がる音も、衣擦れの音も、そして呼吸の音すら、完全に世界から『消失』していた。


「老いぼれとはいえ、モルトケの当主の座を退いたのはたかだか数年前。……(おご)(たかぶ)った帝国の若造どもに、本物の『死地(しち)』というものを教えてやろう」


 ヴィルヘルムが、倉庫の屋根から音もなく飛び降りた。


 巨躯からは想像もつかない、重力を無視したかのような、一枚の枯れ葉が落ちるような滑空(かっくう)


 着地の衝撃すら、強靭な両脚のバネで完全に殺し尽くす。



***



「……おい、なんだか急に冷えないか?」


 第一倉庫の入り口を守っていた帝国兵の一人が、ブルリと身震いをして首をさすった。


 夜風のせいではない。生物としての本能が、致死の『殺気』に触れて警鐘を鳴らしたのだ。


 だが、彼が異変を口にするより早く。


 スッ……。


 背後の暗闇から伸びた巨大な手が、兵士の顔面を鋼鉄の籠手(ガントレット)ごとわし掴みにした。


「が、ごゅッ……!?」


「静かにしろ。お前たちの将軍が寝不足になる」


 耳元で囁かれた、凍りつくような老人の低い声。


 次の瞬間、ヴィルヘルムの丸太のように太い腕が(ひね)られ、兵士の頸椎(けいつい)が、悲鳴を上げる間もなくゴキリとへし折られた。


「なっ……! きさ──」


 隣にいた兵士がようやく異変に気づき、手にした槍を構えようと息を吸い込んだ。


 しかし、ヴィルヘルムの動作は、人間の反応速度を遥かに凌駕していた。


 一人目の首を折ったその右腕を流れるように引き戻し、背の大剣を『片手』で抜き放ち、そのまま真横へと一閃する。


 ヒュンッ!!


 極限まで研ぎ澄まされた刃が風を切る音すらなかった。


 分厚い大剣が、残る三人の帝国兵の首を、分厚い鉄の喉当て(ゴルゲット)のわずかな隙間から、寸分の狂いもなく同時に切断(せつだん)したのだ。

 金属と金属がぶつかる高い音を出させない。骨を断つ衝撃を、自身の腕力と剣の角度だけで完全に吸収する、神業のごとき剣術。


 首から上がずれた三つの肉体が、地面に倒れて甲冑の音を立てるよりも早く。


 ヴィルヘルムの巨体は地を這うような低い姿勢で駆け出し、すでに第二倉庫の歩哨たちの懐へと潜り込んでいた。


「なんだ、今第一倉庫の方で──」


「遅い」


 暗闇から突き上げられた大剣の柄頭(ポンメル)が、振り向こうとした歩哨の顎を砕き、脳を激しく揺らす。


 気絶して崩れ落ちる兵士を左手で抱え留め、甲冑の音を殺しながら、右手の大剣の切っ先で、もう一人の心臓を鎧の隙間から的確に貫く。


 血飛沫(ちしぶき)が激しく舞うが、ヴィルヘルムは一滴の返り血すら浴びていない。


 これは暗殺術などという生易しいものではない。


 戦場の最前線で何万という命を刈り取り続けてきた男だけが辿り着ける、無駄を極限まで削ぎ落とした純粋で絶対的な『暴力の極地』。


 かつて『最強の剣鬼』と呼ばれた男にとって、実戦を数回しか経験していない帝国の歩哨など、止まっている案山子(かかし)を斬るのと同義だった。


「……残り、十」


 ヴィルヘルムの姿が松明の光の中でブレる。


 ただの物理的な高速移動。しかし、全くの無音で、一切の予備動作なく死角から振り下ろされるその剣閃は、帝国兵たちにとって「暗闇に突然首を切り落とされる」という怪奇現象でしかなかった。


 わずか十数秒。


 エルフリーデが屋根から見下ろしている間に、五つの巨大倉庫の前に立っていた二十人の精鋭は、誰一人として悲鳴を上げることなく、また剣を抜くことすらできず、物言わぬ(しかばね)へと変わっていた。



「……相変わらず、()れする手際ですこと」


 エルフリーデがフフッと妖艶に笑い、待機していた暗部たちに合図を送る。


 黒装束の工作員たちが蜘蛛のように壁を伝って降り、ヴィルヘルムが殺した死体を素早く物陰に隠す。そして、倉庫の巨大な扉に外から何重にも頑丈な鉄の鎖を巻きつけ、南京錠で完全に施錠(せじょう)していく。


「さて、巨大な密室は完成しました。中にいる数千の兵站部隊には気の毒ですが……彼らの働きが、我が息子たちを苦しめることになりますからね」


 エルフリーデは懐から、アンジェリカが島で開発した導火線(どうかせん)付きの黒色火薬樽(小型爆弾)を取り出した。


 それを第一倉庫の扉の隙間──。唯一外と繋がっている通気口から内部へと押し込み、火を放つ。


「さあ、退()くぞエルフリーデ。……火薬の量自体は少ないが、あの倉庫に充満した『粉塵』が着火すれば、王都の半分が吹き飛ぶぞ」


「ええ。十万の大軍をもてなす、最高に美しい花火になりそうですわ」


 老夫婦と暗部たちは、任務を終えると、再び王都の広大な地下水路へと、亡霊のように音もなく姿を消した。


 その、わずか数分後。


 密閉された巨大倉庫の内部で、導火線が尽き、小さな火薬樽が『パンッ』と破裂した。


 火薬の威力自体は大したことはない。だが、その小さな爆発の炎が、倉庫内に濃密に充満していた『小麦の粉塵』に引火した瞬間。


 粉塵爆発の真の恐怖が牙を剥いた。


 空中に浮遊する細かい粒子の一つ一つが一瞬にして燃焼し、凄まじい熱とガスを発生させる。それが隣の粒子へ、さらに隣の粒子へと超音速で連鎖(れんさ)していく。


 ―― 轟ォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!



 王都の夜空に、巨大な太陽が生まれた。


 体積の急激な膨張。堅牢なはずの石造りの倉庫群が、内側からの超高圧に耐えきれず、まるで内側から風船が破裂するように、大音響と共に跡形もなく四散(しさん)した。


 吹き飛んだ巨大な石の瓦礫や燃え盛る木材が、流星雨のように帝国軍の駐屯地に降り注ぐ。内部で積み込み作業をしていた数千の兵站部隊は、三千度を超える超高温の爆風によって、文字通り一瞬にして『蒸発』した。


 さらに恐ろしいことに、第一倉庫の爆発の衝撃波(しょうげきは)が第二、第三の倉庫を揺るがし、そこに充満していた粉塵をも舞い上がらせて次々と誘爆を引き起こしたのだ。


 王都南区画のすべてが、一瞬にして煉獄(れんごく)へと変わった。



「な、なんだァァッ!?」


「南区画が! 食糧庫が吹き飛んだぞォォォッ!!」


「熱いッ! 火を消せェェッ!!」


 十万の帝国兵が眠る王都全域が、巨大な地震に見舞われたかのように激しく揺れた。


 燃え上がる炎の柱は、帝国の未来を焼き尽くすかのように天高く立ち上り、夜を真昼のように不気味に照らし出した。


 作戦司令室の窓から、城壁すら越えて押し寄せるその猛火と爆風を目の当たりにしたジークス大将の顔から、ついに、微塵の余裕すらも消え失せた。


「……何が起きた! 敵の砲撃か!? あの距離から王都まで弾が届いたとでもいうのか!」


「違います! 内部からの爆発です! し、食糧と予備の魔石、および矢弾の7割が……一瞬にして焼失しました!」


 伝令の絶望的な報告に、ジークスの手から指揮杖(バトン)が滑り落ち、カランと虚しい音を立てた。



 兵站を失えば、十万の大軍はただの「十万の餓死者」へと変わる。


 モルトケ軍の補給を絶つという、ジークスの冷酷で完璧な論理によるカウンター戦略は、ヴィルヘルムとエルフリーデという「盤面外の最凶のジョーカー」によって、実行に移される前に根底から完全に粉砕されたのだ。


「……おのれ…ッ! 北の海岸の軍勢は(おとり)か! この王都に、化け物が入り込んでおるぞ!!」


 怒髪天を()くジークスの血を吐くような怒号が、燃え盛る王都の夜空に響き渡った。


 北の海岸線での、新兵器による圧倒的な防衛戦。


 そして南の王都での、老夫婦による致命的な兵站破壊工作。


 この夜を境に、モルトケ領奪還戦は、帝国軍十万を南北から完全に挟殺(きょうさつ)する、凄惨かつ知略に満ちた『総力戦』のフェーズへと、完全に突入していったのである。




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