第6話 敗将の帰還と兵站を焼く狼煙
焦土と化した辺境(モルトケ領)の遥か南。
かつて栄華を極めた『王国の王都』は、現在、帝国軍の圧倒的な軍勢によって完全に占領下に置かれていた。
城壁の内外には、十万を数える帝国遠征軍の本隊が天幕を張り巡らせ、異様な熱気と喧騒に包み込まれている。
かつての王城の大広間。今や帝国本隊の作戦司令室として接収されたその場所で、軍議は突如として中断された。
「――申し上げます! 旧モルトケ領の海岸線で後方守備と兵站を担っていた第四機甲師団、バルガス将軍がご帰還なされました!」
伝令のひどく上擦った声に、巨大な円卓を囲んでいた将軍たちが眉をひそめる。
予定にない帰還だ。いくら『猛牛』と恐れられるバルガスとはいえ、後方の残党狩りと補給線の維持を放り出して王都へ戻ってくるなど、軍律違反にも等しい。
「……通せ」
円卓の上座、十万の軍を統べる総司令官・ジークス大将が低く命じる。
重い扉が開かれ、足を引きずりながら入ってきた男の姿に、室内の空気が一瞬にして凍りついた。
「バ、バルガス将軍……? その姿は一体……!」
それは、誇り高き帝国将軍の姿ではなかった。
黄金の装飾が施された特注の重装甲は無残にひしゃげ、全身をどす黒い血と泥に染め、顔の半分には生々しい裂傷が走っている。
何より異様だったのは、彼に影のように付き従うはずの副将レオンの姿がなく、数名のボロボロになった近衛騎兵しか伴っていないことだった。
「……ジークス閣下。申し訳ありませぬ。海岸線の防衛を任されていた我が部隊、一万……完全に、壊滅いたしました」
バルガスはその場に崩れ落ちるように片膝をついた。
その声に、涙はない。
ただ、奥歯を噛み砕かんばかりの強い力で顎を引き結び、戦友を死地に置いてきた万感の悔恨と、己だけが生き恥を晒して逃げ帰ってきた屈辱を、無理やり腹の底へと呑み込んでいる。将軍としての矜持を、血の混じった唾と共に飲み下した、凄絶な声だった。
大広間に、水を打ったような静寂が落ちる。
「馬鹿なッ! 敵はどこから来た!? 連合王国が海から十万の援軍でも寄越したとでも言うのか!」
「違います! 旗印は双頭の獅子……冬の間、海へ逃げ込んでいたモルトケの残党です!」
その言葉に、将軍たちの顔に「信じられない」という色が浮かぶ。
「たかが残党の生き残りに、貴様の精鋭一万が敗れただと? 海岸の監視網はどうなっていた!」
「……海から、煙を吐く黒い船団が現れたとの報告はありました。しかし、冬の海を越えられず、ヤケクソで攻めてきた数百の難民だと……完全に侮っておりました。奴らが、一万もの統制された軍隊に膨れ上がっているなどと、誰が予測できましょうか!」
バルガスは血走った目で、海岸で見た地獄の蓋を開けた。
魔導砲の射程外、見えない遥か彼方から自陣の装甲馬車を粉砕した、未知の大爆発。
馬の脚を止め、歩兵を絡め取る、鉄条網という悪魔の蔦。
そして、数千人が間断なく撃ち放ってくる、十字砲火の絶望的な密度。
「奴らの火力の前に、帝国の誇る鎧や防盾など紙切れ同然……! 閣下、決して奴らをただの残党と侮ってはなりませぬ。あれは、戦争の『形』そのものを根底から覆す、悪魔の兵器です!」
レオンたち決死隊の命と引き換えに持ち帰ったその情報は、あまりにも重かった。
歴戦の猛将が、死の恐怖よりも「情報の伝達」を優先して逃げ帰ってきたという事実が、室内の空気を疑念から「底知れぬ恐怖」へと変えていく。
だが、総司令官ジークスだけは、組んだ手の上に顎を乗せ、冷徹な目で卓上の地図を見下ろしていた。
「……バルガスよ。よくぞその屈辱に耐え、生きて戻った。貴官や戻らぬ兵犠牲は無駄にはせん」
「閣下……!」
「魔法ではない、物理的な投射兵器ということだな。そして、それだけの鉄と火薬を揃え、一万の軍を養っていた……」
ジークスはゆっくりと立ち上がり、地図上の南の海域を指で叩いた。
「ただの難民になったのではない。奴らはこの数ヶ月で、南の海の……おそらく島だな。そこを『巨大な兵器工場』へと作り変えたのだ。でなければ、これほどの異常な物量は説明がつかん」
僅かな報告から、モルトケが島で何をしていたのかを看破したジークスの頭脳に、将軍たちが息を呑む。
「だが、恐れるに足らず。魔法使いの魔力枯渇がない代わりに、物理的な矢弾を撃ち出す以上、必ず『弾薬切れ』が起きる」
ジークスは、王都の周辺に配置されていた自軍の駒を、北の海岸線(モルトケ領)へと一気に押し出した。
「一万の兵が嵐のように鉄礫を撃ち出せば、どれほどの質量の鉄と火薬を消費する? 島からの船による輸送には限界がある。敵の兵器は極めて強力だが、補給の限界がそのまま奴らの生命線になるはずだ」
ジークスの目が、蛇のように細められる。
新兵器の威力を前にしても、決して感情で動かない。それが大軍を預かる男の恐ろしさだった。
「軍を四つの部隊に分けよ。モルトケ領が完全に制圧される前に、こちらから昼夜を問わぬ『波状攻撃』を仕掛け、奴らに眠る時間も、弾を補充する暇も与えるな。……旧時代の『数』と『兵站』の暴力で、その新兵器ごと残らずすり潰してやる」
帝国本隊は、バルガスの決死の報告を受け、モルトケの「銃と大砲」に対する最適解――『飽和攻撃と消耗戦』へと、冷酷に戦術をシフトさせたのである。
***
一方、帝国軍の軍議が白熱する旧王都城。
その地下深くには、帝国兵の誰も知らない広大な『旧地下水路』が迷路のように張り巡らされていた。
湿った冷気と苔の匂いが漂う暗がりの一角。かつての王族が有事の際に備えて作っていた隠し部屋に、二つの影があった。
「……ふむ。ついに来たようだな、エルフリーデ」
薄暗い蝋燭の灯りの中、胡座をかいて分厚い大剣を砥石で研いでいた白髪の老兵が、低く笑った。
モルトケ家前当主にして、かつて他国から『最強の剣鬼』と恐れられた男、ヴィルヘルム・フォン・モルトケである。
老いてなお筋骨隆々たるその肉体からは、地下の冷気を退けるほどの、研ぎ澄まされた刃のような覇気が立ち上っている。
「ええ、お爺さん。可愛い孫からの手紙ですわ」
ヴィルヘルムの妻であり、かつて社交界で『智謀の魔女』と呼ばれ恐れられた老婦人、エルフリーデが、飛来した青白い伝令鳥の足から小さな手紙を受け取った。
そこには、たった一言。
『春雷と共に、我ら還りたり』と記されていた。
「……ハインリヒも、ソフィアも、マクシミリアンも、そしてアンジェリカも。辺境伯一家が揃ってあの冬の過酷な海を生き延びて、見事に牙を研ぎ澄まして戻ってきたようですわね」
エルフリーデは嬉しそうに目を細め、手紙を蝋燭の火で静かに焼き捨てた。
証拠は残さない。それが裏の世界で生き抜く基本だ。
「上の連中が随分と慌ただしいと思えば、なるほど。我が息子と孫たちが、帝国軍の先鋒の鼻っ柱をへし折ったか。……痛快なことだ」
ヴィルヘルムは研ぎ終わった大剣を鞘に収め、立ち上がった。
その巨体が動くだけで、周囲の空気がビリッと震える。
彼ら老夫婦が、領地を捨てる際に敢えて同道せず、帝国の占領下にある王都の地下へ潜伏したのには理由がある。
「さて、若い者たちが正面から血を流して暴れてくれているのだ。隠居した老いぼれ共も、少しは彼らの援護をしてやらねばならんだろう?」
「ええ。十万もの大軍、正面から相手をするのはどれほど優れた兵器があっても骨が折れますからね。……帝国の総司令官は『数と消耗戦』で押し切るつもりのようですが、それはこちらも同じこと」
エルフリーデが妖艶に微笑むと、部屋の奥から、ボロ布を纏った数十人の影が音もなく現れた。
彼らはモルトケ家に絶対の忠誠を誓う、暗部の工作員たちである。
「十万の兵を動かすには、十万の口を満たす食料が必要。絶え間なく攻撃を続けるには、絶え間ない武器の補給が必要。……手始めに、王都の南区画にある帝国軍の食料庫と、武器の集積所を頂きます。火薬樽を仕掛けなさい」
「はっ!」
老婦人の冷酷な指示に、工作員たちが影の中に溶けるように消えていく。
正面からは、アンジェリカの新兵器とハインリヒ率いる精鋭一万が押し寄せる。
そして背後である王都内部からは、智謀の魔女と剣鬼が率いる破壊工作が、帝国軍の命綱である『兵站』を内側から食い破る。
地上では、帝国軍十万の進軍ラッパが地鳴りのように鳴り響いていた。
しかし彼らはまだ知らない。自分たちの足元で、自滅への導火線に火が点けられたことを。
モルトケ領奪還戦。
それは未知の兵器を巡る戦いから、知略と兵站、そして国家の総力を挙げた『泥沼の総力戦』へと、その激しさをさらに増していった。




