第22話 焦燥の泥濘と死の包囲陣
海岸線に構築された第一塹壕での白兵戦が、血みどろの極限状態を迎えようとしていた頃。
モルトケ軍・客将アランは、二千の別働隊を率いて、地獄のような行軍を続けていた。
彼らの任務は、敵に気づかれることなく森を大迂回し、帝国軍一万の「背後」……旧街道へと通じる丘陵地帯を占拠することである。
だが、その道のりは困難を極めた。早春の雪解け水を含んだ森の土は、底なし沼のような泥濘と化していたのだ。
「……止まるな。足を止めれば泥に沈むぞ。弾薬箱を落とすな!」
アランは、自らも泥まみれになりながら、荒い息を吐く兵士たちを叱咤した。
兵士たちの肩には、自身のライフルだけでなく、分解された『試作型機関銃』の重厚な銃身や、三脚、そして何千発という鉛玉が詰まった重い木箱が食い込んでいる。
馬や荷車は使えない。音と轍で敵の斥候に気づかれるからだ。すべては、兵士の双肩という原始的な動力で運ばねばならなかった。
ズドォォォンッ……!
突如、遠く離れた海岸の方角から、大地を揺らす重低音が響いてきた。モルトケ本陣の榴弾砲が火を噴いた音だ。
戦いが、始まった。
アランの心臓が、警鐘のように嫌な音を立てて早鐘を打つ。
(……始まったか。ガンツ団長、耐えてくれよ)
アランの額に、冷たい汗が滲む。
作戦の要は、正面の第一塹壕が、バルガスの猛攻を「耐え凌ぐ」ことにある。
だが、相手は帝国軍の精鋭一万。対する正面の守備隊は八千。新兵器があるとはいえ、相手が死に物狂いで突撃してくれば、塹壕は確実に肉薄され、凄惨な白兵戦となる。
自分が率いるこの二千の別働隊が、敵の背後に回り込み、『包囲殲滅陣』の蓋を閉めるのが一秒遅れれば、それだけ正面の味方の血が流れるのだ。最悪の場合、陣を突破され、全てが水泡に帰す。
「急げッ! 前線の味方が血を流しているぞ! 這ってでも丘へ辿り着け!」
アランの焦燥に急き立てられるように、兵士たちは歯を食い縛り、肺を焼き切らんばかりの息継ぎで泥の斜面を駆け上がった。
遠くから聞こえていた砲撃音は、いつしか連続する乾いた破裂音……数千丁のライフルによる十字砲火の音へと変わっていた。
***
「……着きました、隊長」
先導していた兵士の掠れた声に、アランは木々の隙間から身を乗り出した。
眼下に広がっていたのは、前方(モルトケの陣地)に向かって狂気のような突撃を繰り返す帝国軍一万の「無防備な背中」と、後方で輜重(補給)の馬車を守りながら待機する予備兵力の姿だった。
間に合った。敵は完全に前方の『凹字陣』という罠に気を取られ、背後への警戒を怠っている。
「……各員、配置につけ。音を立てるな。薬室を閉じる金属音も殺せ」
アランの低く鋭い声が、風に溶ける。
泥だらけの工兵と機関銃手たちが、息を殺して丘の稜線に陣を敷く。
重い三脚が泥に突き立てられ、銃身が固定され、弾薬の給弾帯がカチャリと噛み合わされる。数千のライフル兵が、茂みの陰から冷たい銃口を、眼下の帝国兵の背中へと向けた。
(……アンジェリカ様の策は、悪魔の所業だ。だが、これで勝てる)
アランは、冷や汗を拭い、丘の上で指揮剣を|抜刀した。
敵を凹字に引き込み、足を止めさせ、背後から重い蓋をして完全な「円」にする。逃げ場のない処刑場の完成だ。
「――撃ッ!!」
アランの剣が振り下ろされた瞬間。
ダァァァァァァァンッ!! ガガガガガガガガガッ!!!
帝国軍の背後から、二千の銃火と、五挺の機関銃が吐き出す重低音が一斉に瞬いた。
それは、帝国兵にとって完全に死角からの、無慈悲な鉄槌だった。
後方で待機していた予備兵力の軽歩兵たちが、何が起きたかも理解できぬまま、背中から鉛玉の暴風雨を浴びて次々と斃れていく。
特に、手回し式の試作機関銃がもたらす破壊力は異常だった。
魔法の詠唱もなしに、途切れることなく吐き出される弾幕が、見えない巨大な鎌となって帝国兵の隊列を薙ぎ払う。鎧の薄い背中を撃たれた兵士たちの血肉が弾け飛び、物資を積んだ馬車が蜂の巣になって木端微塵に崩れ落ちた。
「な、なんだ!? 後ろからも敵だと!?」
「囲まれてるぞ! 退路がないッ!! 後ろからもあの魔法の筒が――ぐばァッ!」
前方の塹壕戦に全神経を集中させていた帝国軍は、背後からの突如たる挟撃によって、完全に陣形を崩された。
指揮官たちの怒号は、耳を劈く銃声と悲鳴に掻き消され、兵士たちはどちらを向いて戦えばいいのか分からず、ただその場で射殺されていく。
「退け! 一旦退いて陣形を立て直せ!」
「馬鹿野郎、前も後ろも火の海だ! どこへ逃げろって言うんだッ!」
恐慌は、瞬く間に一万の軍勢全体へと伝染する。
前方の鉄条網と後方の丘。二つの冷徹な顎に完全に噛み砕かれた帝国軍は、もはや軍隊としての統制を喪失し、逃げ場のない血の泥濘の中を、右往左往するだけの巨大な的へと成り果てた。
アランは、硝煙の向こうで地獄絵図と化していく敵陣を見下ろしながら、冷たく吐き捨てた。
「一人も逃がすな。……これが、モルトケを追いやった報いだ」




