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国境の盾は砕けない ~婚約破棄された辺境伯令嬢は、王都の混乱を他所に一族と領民の生存戦略を画策する~  作者: 薄氷薄明
【第3章】

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第22話 焦燥の泥濘と死の包囲陣




 海岸線に構築された第一塹壕(だいいちざんごう)での白兵戦(はくへいせん)が、血みどろの極限状態(きょくげんじょうたい)を迎えようとしていた頃。


 モルトケ軍・客将アランは、二千の別働隊を率いて、地獄のような行軍(こうぐん)を続けていた。


 彼らの任務は、敵に気づかれることなく森を大迂回(うかい)し、帝国軍一万の「背後」……旧街道へと通じる丘陵地帯(きゅうりょうちたい)占拠(せんきょ)することである。


 だが、その道のりは困難を極めた。早春の雪解(ゆきど)け水を含んだ森の土は、底なし沼のような泥濘(でいねい)と化していたのだ。


「……止まるな。足を止めれば泥に沈むぞ。弾薬箱を落とすな!」


 アランは、自らも泥まみれになりながら、荒い息を吐く兵士たちを叱咤(しった)した。


 兵士たちの肩には、自身のライフルだけでなく、分解された『試作型機関銃しさくがたきかんじゅう』の重厚な銃身や、三脚(さんきゃく)、そして何千発という鉛玉が詰まった重い木箱が食い込んでいる。


 馬や荷車は使えない。音と轍で敵の斥候(せっこう)に気づかれるからだ。すべては、兵士の双肩(そうけん)という原始的な動力で運ばねばならなかった。


 ズドォォォンッ……!


 突如、遠く離れた海岸の方角から、大地を揺らす重低音(じゅうていおん)が響いてきた。モルトケ本陣の榴弾砲(りゅうだんほう)が火を噴いた音だ。


 戦いが、始まった。


 アランの心臓(しんぞう)が、警鐘のように嫌な音を立てて早鐘を打つ。


(……始まったか。ガンツ団長、耐えてくれよ)


 アランの額に、冷たい汗が(にじ)む。


 作戦のかなめは、正面の第一塹壕が、バルガスの猛攻(もうこう)を「耐え(しの)ぐ」ことにある。


 だが、相手は帝国軍の精鋭(せいえい)一万。対する正面の守備隊は八千。新兵器があるとはいえ、相手が死に物狂いで突撃してくれば、塹壕は確実に肉薄(にくはく)され、凄惨な白兵戦(はくへいせん)となる。


 自分が率いるこの二千の別働隊が、敵の背後に回り込み、『包囲殲滅陣(ほういせんめつじん)』のふたを閉めるのが一秒遅れれば、それだけ正面の味方の血が流れるのだ。最悪の場合、陣を突破され、全てが水泡に帰す。


「急げッ! 前線の味方が血を流しているぞ! ってでも丘へ辿り着け!」


 アランの焦燥(しょうそう)き立てられるように、兵士たちは歯を食い縛り、肺を焼き切らんばかりの息継ぎで泥の斜面を駆け上がった。


 遠くから聞こえていた砲撃音は、いつしか連続する乾いた破裂音……数千丁のライフルによる十字砲火(クロス・ファイア)の音へと変わっていた。



***



「……着きました、隊長」


 先導(せんどう)していた兵士の(かす)れた声に、アランは木々の隙間から身を乗り出した。


 眼下に広がっていたのは、前方(モルトケの陣地)に向かって狂気のような突撃(とつげき)を繰り返す帝国軍一万の「無防備な背中」と、後方で輜重(しちょう)(補給)の馬車を守りながら待機する予備兵力の姿だった。


 間に合った。敵は完全に前方の『凹字陣(おうじじん)』という罠に気を取られ、背後への警戒を怠っている。


「……各員(かくいん)配置(はいち)につけ。音を立てるな。薬室(やくしつ)を閉じる金属音も殺せ」


 アランの低く鋭い声が、風に溶ける。


 泥だらけの工兵(こうへい)機関銃手(きかんじゅうしゅ)たちが、息を殺して丘の稜線りょうせん(じん)を敷く。


 重い三脚が泥に突き立てられ、銃身が固定され、弾薬の給弾帯(ベルト)がカチャリと噛み合わされる。数千のライフル兵が、茂みの陰から冷たい銃口を、眼下の帝国兵の背中へと向けた。


(……アンジェリカ様の策は、悪魔(あくま)の所業だ。だが、これで勝てる)


 アランは、冷や汗を拭い、丘の上で指揮剣(しきけん)を|抜(ばっとう)した。


 敵を凹字に引き込み、足を止めさせ、背後から重い蓋をして完全な「円」にする。逃げ場のない処刑場(キル・ゾーン)の完成だ。


「――()ッ!!」


 アランの剣が振り下ろされた瞬間。


 ダァァァァァァァンッ!! ガガガガガガガガガッ!!!


 帝国軍の背後から、二千の銃火(じゅうか)と、五挺ちょうの機関銃が吐き出す重低音が一斉に(またた)いた。


 それは、帝国兵にとって完全に死角(しかく)からの、無慈悲(むじひ)鉄槌(てっつい)だった。


 後方で待機していた予備兵力の軽歩兵(けいほへい)たちが、何が起きたかも理解できぬまま、背中から鉛玉の暴風雨を浴びて次々と(たお)れていく。


 特に、手回し式の試作機関銃がもたらす破壊力(はかいろく)は異常だった。


 魔法の詠唱(えいしょう)もなしに、途切れることなく吐き出される弾幕が、見えない巨大な(かま)となって帝国兵の隊列を()ぎ払う。鎧の薄い背中を撃たれた兵士たちの血肉が弾け飛び、物資を積んだ馬車が蜂の巣になって木端微塵に崩れ落ちた。


「な、なんだ!? 後ろからも敵だと!?」


「囲まれてるぞ! 退路がないッ!! 後ろからもあの魔法の筒が――ぐばァッ!」


 前方の塹壕戦(ざんごうせん)に全神経を集中させていた帝国軍は、背後からの突如たる挟撃(きょうげき)によって、完全に陣形を崩された。


 指揮官たちの怒号(どごう)は、耳を(つんざ)く銃声と悲鳴に掻き消され、兵士たちはどちらを向いて戦えばいいのか分からず、ただその場で射殺(しゃさつ)されていく。


「退け! 一旦退いて陣形を立て直せ!」


「馬鹿野郎、前も後ろも火の海だ! どこへ逃げろって言うんだッ!」


 恐慌(パニック)は、瞬く間に一万の軍勢全体へと伝染(でんせん)する。


 前方の鉄条網と後方の丘。二つの冷徹な(あぎと)に完全に噛み砕かれた帝国軍は、もはや軍隊としての統制を喪失し、逃げ場のない血の泥濘(でいねい)の中を、右往左往(うおうさおう)するだけの巨大なまとへと成り果てた。


 アランは、硝煙の向こうで地獄絵図と化していく敵陣を見下ろしながら、冷たく吐き捨てた。


「一人も逃がすな。……これが、モルトケを追いやった報いだ」




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