第19話 鋼鉄の橋頭堡と白衣の戦場
早春の冷たい風が吹き荒れる、旧モルトケ領の海岸線。
そこは今、かつてない喧騒と熱気に包まれていた。
沖合に停泊した50隻の船団から、小舟や平底の揚陸艇がピストン輸送を繰り返し、物資と兵員を陸揚げしているのだ。
「止まるな! 第一陣、1万名の上陸を最優先だ!」
「弾薬箱が重すぎるぞ! 腰をやるなよ!」
浜辺で指揮を執るのは、補給隊長のハンスだ。
彼は泥だらけになりながら、絶え間なく運ばれてくる木箱(弾薬・食料)を管理していた。
今回上陸するのは、モルトケの騎士と兵士やアラン率いる元王国軍、そして戦闘訓練を受けた領民のみ。
残る非戦闘員(老人、子供、生産職)は、安全確保ができるまで監獄島、あるいは沖合の船で待機となる。
限られた物資で戦線を維持するための、冷徹だが合理的な判断だ。
「工兵隊、急げ! 日が暮れるまでに『壁』を作るんだ!」
その横では、客将アランの指揮下、工兵たちが槌音を響かせていた。
彼らが組み立てているのは、島で量産した『野戦築城キット』。
規格化された鉄板と支柱を組み合わせ、土嚢を積み上げるだけで、数時間のうちに強固な「陣地」が出来上がっていく。
さらに、陣地の外周には、棘のついた鉄線――『鉄条網』が張り巡らされた。
騎馬隊の突撃を阻む、悪意に満ちた鉄の蔦。
これが、近代戦における「城壁」である。
***
前線から少し離れた後方。
白い天幕が並ぶ一角に、アンジェリカの姿があった。
そこは、負傷兵を受け入れるための「第一野戦病院」だ。
「……いいですか、皆さん。私たちの敵は、帝国の剣だけではありません」
アンジェリカは、集められた数名の軍医と、手伝いの侍女や領民の女性たちに向かって説明していた。
彼女の前には、島で蒸留した『高濃度アルコール』の瓶と、グラグラと煮立った大鍋が置かれている。
「目に見えない『菌』……それが傷口に入ると、小さな傷でも命取りになります。腐って、腕や足を切ることになるのです」
彼女は、煮沸消毒されたメスと包帯をトングで取り出した。
「私は手術はできません。それは軍医の先生方の領分です。
ですが、『消毒』と『洗浄』の徹底。これだけは厳守してください。
患者に触れる前には必ずアルコールで手を洗うこと。器具は必ず煮沸すること。……これだけで、戦死者は半分に減らせます」
「……なるほど。確かに、傷が膿んで死ぬ者は多いが……」
ベテランの軍医長ヘルマンが、顎髭をさすりながら感心したように頷く。
従来の戦場医療といえば、汚れた布で縛るか、焼いた鉄を押し付ける程度のものだった。
アンジェリカの提唱する「衛生管理」は、彼らにとって革命的だった。
「分かりました、アンジェリカ様。……我々はメスを握ります。貴女は『環境』を作ってください」
「はい。麻酔薬代わりの『鎮痛草の濃縮液』も、島から大量に持ってきました。……一人でも多く、生きて帰しましょう」
アンジェリカは覚悟を決めた目で頷いた。
彼女にできるのは、前世の知識で「死ぬ確率」を下げることだけ。
だが、それは銃弾一発にも匹敵する重要な戦いだ。
***
一方、設営されたばかりの司令部テント。
ハインリヒとソフィア、そしてマクシミリアンが地図を囲んでいた。
「……橋頭堡の構築は順調です。明日には、この海岸一帯が『要塞』となるでしょう」
ガンツの報告に、ハインリヒは満足げに頷く。
だが、問題はその先だ。
「帝国の反応はどうだ?」
「偵察部隊と思われる騎兵が数騎、遠巻きにこちらを監視しています。……明日には本隊が動くかと」
「ふん。歓迎してやろう」
ハインリヒは軍刀の柄を叩く。
そして、ソフィアに向き直った。
「ソフィア。……『あの方々』への連絡は?」
「ええ。マクシミリアン、お願いできる?」
「はい、母上」
マクシミリアンが進み出る。
彼の手には、小さな鳥かごがあった。中には、魔力を帯びて青白く光る『伝令鳥』が入っている。
「王都の地下水道には、祖父様と祖母様が潜伏しているはずです。……この鳥なら、帝国の監視網を抜けて、お二人の元へ届くでしょう」
彼は鳥の足に、小さく丸めた手紙を結びつけた。
そこには、一言だけ。
『春雷と共に、我ら還りたり』と。
「……行け!」
マクシミリアンが放つと、青い鳥は矢のように空へ舞い上がり、南の王都へ向かって消えていった。
「……お義父様(前辺境伯)のことだ。この手紙を見れば、すぐにこちらの意図を察して、王都内部から揺さぶりをかけてくれるでしょう」
ソフィアが不敵に笑う。
最強の剣鬼である祖父と、智謀の魔女である祖母。
彼らが王都の裏で動き出せば、帝国の背後を突く強力な「第二戦線」となる。
海岸には、鋼鉄の陣地。
後方には、衛生管理された野戦病院。
そして王都へ走る、反撃の狼煙。
準備は整った。
日没と共に、遠くの平原から、数千の蹄の音が地鳴りのように響き始めていた。
帝国軍の先鋒が、来る。




