【閑話】 帝国の誤算と『無人の処刑場』
アンジェリカたちが、連合王国に着く頃――。
遥か北方のモルトケ辺境伯領だった場所は、生きた人間が踏み入ってはならない死の世界と化していた。
帝国軍本隊十万を率いるバルガス将軍は、馬上で苛立ちを隠せずにいた。
「……遅い。先遣隊は何をしているのだ」
開戦から一ヶ月。
先行させた一万の別動隊(先遣隊)からは、「モルトケ城へ入城する」という最後の通信以来、ぷっつりと連絡が途絶えていた。
「見えました! モルトケ城です!」
部下の声に、バルガスは顔を上げる。
だが、そこで彼らを迎えたのは、整列した味方の出迎えではなく――風に乗って漂う、鼻を突く死臭だった。
「……おい、なんだこれは」
城門の前まで来たバルガスは、言葉を失った。
そこには、ガリガリに痩せ細り、眼窩が落ち窪んだ亡霊のような集団が、力なく座り込んでいたのだ。
かつて精鋭と呼ばれた、先遣隊の兵士たちだった。
「み、水を……閣下、水を……」
彼らは本隊の姿を見るなり、武器を杖代わりにして這いずり寄ってきた。
その数は、一万いたはずが、半分以下に減っている。
「……報告せよ! 一体何があった! 水も食料もないなら、なぜ戻って報告しなかった!」
バルガスが怒鳴りつけると、生き残った小隊長が、恐怖に引きつった顔で叫んだ。
「も、戻れません! ……罠だったのです! 我々が入城した直後、後方の橋が全て爆破されました!」
「ならば、なぜ橋を架け直さなかった! 工兵もいただろう!」
「それが……森に敵が潜んでいるのです! 作業に出た者や伝令は、次々と矢で射殺され……首だけが投げ返されました」
小隊長は震える指で、背後の森を指差した。
「我々は一ヶ月間、姿の見えないゲリラ部隊と戦い続け……この檻の中に閉じ込められていたのです」
バルガスは歯噛みした。
死兵となるゲリラを残していったのか…。なんという執念か…。
だがその時、森の偵察に出ていた本隊の斥候が、青ざめた顔で戻ってきた。
「か、閣下! 森の中を調査しましたが……人はいません!」
「なんだと!? では、誰が先遣隊を攻撃していたんだ!」
「……これです」
斥候が差し出したのは、木の枝と弦で作られた、奇妙な自動発射装置だった。
「森の至る所に、ワイヤー仕掛けの自動弓と、魔法石を使った地雷が設置されています。……先遣隊を襲っていたのは、人間ではありません。無人の兵器と、血の匂いに誘われた野生の魔獣だけです!」
「な……ッ!?」
バルガスは絶句した。
先遣隊の一万人は、ゲリラと戦っていたのではなかった。
アンジェリカたちが仕掛けた罠と、ただの獣相手に、一ヶ月間も踊らされ、恐怖し、仲間を殺されていたのだ。
この土地には、本当に、ただの一人も残っていなかったのだ。
奴隷にできる民も、人質にできる貴族も、殺して憂さを晴らす兵士さえも。
「……こ、ここは……」
バルガスは震えた。
ここは戦場ではない。
自動的に侵入者を処理する、巨大な無人の処刑場だ。
「……閣下、あれを」
部下が指差した先。城門の前に、一本の看板が立っていた。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『ようこそ、何もない土地へ。 ――モルトケ辺境伯』
「……お、おのれぇぇぇッ!! ハインリヒィィィッ!! 人間か、貴様らはァァァッ!!」
バルガスは看板を叩き斬った。
このままここに留まれば、本隊十万までもが、無人の罠と飢えの餌食になるだけだ。
「……撤退だ! 全軍、回れ右!」
バルガスは悲痛な声で叫んだ。
「この地を離れるぞ!」
補給線を絶たれた帝国軍の侵攻は、ここで完全に頓挫した。
彼らが再び軍を立て直し、罠を撤去し、補給線を再構築して海までたどり着く頃には、季節は冬になっているだろう。




