落日の断罪と断絶の強行軍
王立学園の大講堂は、卒業パーティーの熱気と、むせ返るような香水の匂いに満ちていた。
シャンデリアの光が、着飾った貴族の子女たちを照らし出す。平和で、華やかで、そして残酷なほどに現実感のない光景だった。
その中心で、アンジェリカ・フォン・モルトケは、静かに立ち尽くしていた。
彼女の周囲だけ、ぽっかりと空間が空いている。
まるで、腫れ物に触れるかのように、誰もが遠巻きに彼女を見つめ、ひそひそと嘲笑の言葉を交わしていた。
「……聞こえなかったのか? アンジェリカ。俺は、貴様との婚約を破棄すると言ったのだ」
玉座に近い壇上から、この国の王太子アルフレッドが見下ろしている。
その腕には、可愛らしい小動物のような男爵令嬢がしがみつつき、怯えたように――あるいは、勝利の笑みを隠すように――アンジェリカを見ていた。
アンジェリカは、扇子を持つ手にわずかに力を込め、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に涙はない。あるのは、不可解な事態を分析しようとする冷徹な理性の光だけだ。
「……アルフレッド殿下。突然のお言葉、理解に苦しみます。我がモルトケ辺境伯家と王家との婚約は、国境防衛の要としての契約でもあります。それを、このような場で破棄されるということが、何を意味するのか……ご父君である国王陛下のご裁可は得ておられるのでしょうか?」
アンジェリカの声は、静まり返ったホールによく通った。
だが、その正論が、逆にアルフレッドの癇に障ったようだった。
「黙れ! 貴様はいつもそうだ。可愛げもなく、国益だの防衛だのと……。俺が必要としているのは、共に国を支える『心』なのだ。貴様のような、血生臭い辺境の女ではない!」
アルフレッドが叫ぶ。
周囲の取り巻き貴族たちが、「田舎貴族のくせに」「辺境伯家は最近増長している」と野次を飛ばす。
アンジェリカは内心で深く息を吐いた。
現在、北方の国境では、ガルマニア帝国が大規模な軍事演習を行い、いつ開戦してもおかしくない緊張状態にある。
父ハインリヒ、母ソフィア、そして兄マクシミリアンは、この卒業パーティーへの参加すら見送り、泥にまみれて国境警備に当たっているのだ。
彼らが命懸けで守っている平和の中で、この男は「可愛げ」などという言葉で、国の盾を砕こうとしている。
「それに、父上の名は出すな。……父上は病床におられる。今の国政を預かるのは、この俺だ」
アルフレッドが得意げに胸を張る。
アンジェリカの背筋に、冷たいものが走った。
陛下が病床?
聞いていない。祖父母からの情報にも、そのような話はなかった。
もしそれが事実で、かつ情報が統制されているのだとしたら――この国の中枢は、すでに正常な機能を失っている可能性がある。
「……左様でございますか。殿下のご意志、しかと承りました」
アンジェリカは、これ以上の問答は無意味だと悟った。
ここで反論すれば、さらに辺境伯家の立場を悪くするだけだ。まずは一刻も早く、この異常事態を父たちに知らせなければならない。
彼女は優雅にカーテシーを行い、踵を返そうとした。
「待て。誰が帰って良いと言った?」
アルフレッドの冷たい声が、彼女の足を止めた。
「貴様には、ミリアに対する数々の嫌がらせの容疑もある。……辺境へ帰せば、父である辺境伯に泣きつき、あることないこと吹き込むであろう? 辺境伯の武力がこちらに向くのは面倒だ」
王太子の合図と共に、近衛騎士たちが数名、剣の柄に手をかけて歩み出てきた。
アンジェリカを取り囲むように。
「アンジェリカ・フォン・モルトケ。貴様を王都の別邸にて『謹慎』とする。……事実上の軟禁だ。辺境伯が俺に忠誠を誓い、頭を下げてくるまで、人質となってもらう」
会場がざわめく。
婚約破棄だけでなく、人質としての軟禁。
これは明確な、辺境伯家への宣戦布告に等しい。
アンジェリカは唇を噛んだ。
ここで捕まるわけにはいかない。自分が人質になれば、父や兄は帝国と王家の板挟みになり、身動きが取れなくなる。それは即ち、領民の死を意味する。
だが、丸腰の令嬢に何ができる?
近衛騎士の手が、彼女の細い肩に伸びようとした――その時だった。
ドォォォォンッ!!
大講堂の入り口が、爆発音と共に吹き飛ばされた。
悲鳴が上がり、貴族たちがパニックに陥って逃げ惑う。
「な、なんだ!? テロか!?」
狼狽えるアルフレッドと近衛騎士たち。
その混乱を切り裂くように、二つの影が飛び込んできた。
一人は、老齢ながら岩のように逞しい巨躯を持つ老騎士。
もう一人は、仕込み杖を構えた、背筋の伸びた老婦人。
アンジェリカの祖父、前辺境伯ヴィルヘルムと、祖母マリアだった。
「迎えに来たぞ、アンジェリカ!」
ヴィルヘルムが一喝すると、近衛騎士たちが気圧されて後ずさる。
歴戦の猛者だけが放つ、本物の殺気だ。
「お祖父様、お祖母様!」
「遅くなってすまないねぇ。このバカ騒ぎに入場するのは、招待状がないと難しくてね」
マリアが優雅に微笑みながら、煙幕の魔導具を床に叩きつけた。
辺り一面に白い煙が充満する。
「ごほっ、ごほっ! 逃がすな! 捕らえろ!」
煙の中で怒号が飛び交うが、アンジェリカの腕はすでに祖父によって引かれていた。
「走るぞ! 裏口に馬車を用意してある!」
アンジェリカはハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で床を蹴った。
ドレスの裾をまくり上げ、祖父母と共に混乱する会場を駆け抜ける。
裏口には、紋章のない地味な馬車が一台。
御者台には、辺境伯家の私兵である屈強な護衛騎士が二人、手綱を握って待機していた。
「乗れ! 追手が来る前に王都を出ろ!」
ヴィルヘルムがアンジェリカを馬車に押し込む。
だが、彼自身は乗らなかった。祖母マリアもだ。
「お祖父様たちも早く!」
「いや、儂らは残る」
ヴィルヘルムは馬車の扉を閉めようとした。
アンジェリカは慌ててその手を掴む。
「な、何を仰るのですか! 王太子にあのような狼藉を働いて、無事で済むはずが……!」
「だからこそ、だ」
マリアが、アンジェリカの手を優しく包み込んだ。
その瞳は、慈愛と、そして覚悟に満ちていた。
「アンジェリカ。お前は早く領地へ戻り、ハインリヒたちにこの異常事態を伝えなさい。……陛下に謁見もできず、国境の危機に婚約破棄。この国の中枢で、何かが起きている」
「儂らが残って、その正体を探る。……それに、儂らが囮になれば、お前たちの逃走時間を稼げるだろう」
「そんな……! 嫌です、私も残ります!」
「聞き分けなさい!」
祖母の鋭い声が、アンジェリカを制した。
「お前は次代の辺境伯家を支える人間です。そして何より……帝国が動き出した今、お前の知恵が領地には必要なのです。……行きなさい。私たちは、そう簡単にはくたばらないよ」
祖父が合図を送ると、御者が鞭を入れた。
馬車が急発進する。
「お祖父様! お祖母様ぁッ!」
遠ざかる窓の向こう。
追ってきた近衛騎士たちの前に立ちはだかり、不敵に笑う老夫婦の姿が、夜の闇に消えていった。
***
王都を抜け、街道をひた走る馬車の中。
アンジェリカは、揺れる車内で地図を睨みつけていた。
隣には、祖父母から「報告係」として託された、若い従騎士ロベルト。
そして御者台には二人の熟練護衛騎士。
たった四人での逃避行だ。
「……お嬢様。追手は撒いたようです。このまま街道を北上すれば、次の宿場町には朝に到着します」
ロベルトが安堵したように息を吐く。
だが、アンジェリカは地図から目を離さず、低い声で問うた。
「ロベルト。ここから領地まで、通常なら何日かかりますか?」
「は。早馬を乗り継いで、馬車で飛ばしても……最短で五日はかかります」
五日。
アンジェリカはギリリと奥歯を噛んだ。
遅すぎる。
もし王太子が本気で辺境伯家を切り捨てたのなら、その情報はすでに帝国の耳に入っているかもしれない。あるいは、帝国軍はすでに国境に展開している。
五日もあれば、前線の砦の一つや二つ、陥落するには十分な時間だ。
「……間に合わないわ」
「はい?」
「五日もかけていたら、着く頃には領地が火の海になっているかもしれない。……三日で戻ります」
ロベルトが目を見開く。
「み、三日!? 無茶です! 馬車でそんな速度を出せば車軸が折れますし、馬も持ちません!」
「ええ。だから、馬車は次の宿場町で捨てます」
アンジェリカは立ち上がり、ドレスの豪奢な装飾を引きちぎった。
動きを阻害するペチコートをナイフで裂き、足元に捨てる。
「ここからは騎乗です。全員、予備の馬を含めて一人二頭ずつ確保。不眠不休で駆け抜けます」
「き、騎乗!? お嬢様、その格好でですか!? それに三日も鞍の上にいたら、体が持ちません!」
「私の体などどうでもいい! ……領民の命がかかっているのです。私が倒れたら、縛り付けてでも運びなさい」
その瞳には、狂気にも似た凄絶な覚悟が宿っていた。
ロベルトは息を呑み、そして深く頭を下げた。
「……承知いたしました。我ら護衛騎士一同、命に代えても!」
***
そこからの道程は、地獄だった。
夜明けと共に宿場で馬に乗り換えたアンジェリカたちは、言葉通り、死に物狂いで街道を駆けた。
ドレスの裾は泥と汗で汚れ、薄い皮の手袋は手綱との摩擦で破れ、掌からは血が滲む。
慣れない長時間の騎乗。内股の皮が擦り剥け、鞍に座るたびに焼けるような痛みが走る。
だが、アンジェリカは一度も「止まれ」とは言わなかった。
水を飲むのも馬上。食事は干し肉を齧るだけ。
意識が飛びそうになるのを、家族と領民の顔を思い浮かべて必死に繋ぎ止める。
(痛い。苦しい。……でも、あのお父様たちは、もっと過酷な最前線にいる)
一日が過ぎ、二日が過ぎる頃には、従騎士のロベルトの方が音を上げそうになっていた。
だが、先頭を走る令嬢の背中が、決して折れない。
その姿は、もはや深窓の姫君ではない。一軍を率いる将のそれだった。
「……見えた!」
出発から三日と半日。
意識が朦朧とする中で、アンジェリカの目に、懐かしい故郷の山並みと、堅牢な城壁が飛び込んできた。
モルトケ辺境伯領の本城だ。
「開門ッ! 開門願いまーすッ!」
護衛騎士が嗄れた声で叫ぶ。
城壁の守備兵が、泥だらけの一団を見て槍を構えるが、すぐにその先頭にいるボロボロの女性の顔を見て驚愕した。
「あ、アンジェリカ様!? ご帰還されたぞ! 門を開けろぉッ!」
重い城門が開く。
馬が中庭に滑り込み、アンジェリカは手綱を離すと同時に、糸が切れたように落馬した。
「アンジェリカ様!」
駆け寄る兵士たち。
だが、彼女は泥だらけの手で兵士の肩を掴み、立ち上がろうとした。
「……お父様は……お兄様は、どこ……?」
「執務室におられます! すぐに……」
「案内しなさい。……一刻も猶予はないの」
足から血を滴らせ、鬼気迫る表情で歩き出すアンジェリカ。
その姿に、城内の兵士たちは息を呑み、そして道を開けた。
ただの帰郷ではない。
何かが起きたのだ。そして、何かが始まるのだと、誰もが肌で感じ取っていた。




