世界への第一歩:方向音痴と大食いの序曲(前半)
翌朝、グリーンヒルの村を包む朝霧は、どこか旅立ちを祝福する薄衣のように見えた。 エリカは使い古された麻の背嚢を背負い、村の境界にある古ぼけた道標の前に立っていた。中身は着替えと数枚の堅パン、そしてわずかばかりの銅貨。昨夜、リノと交わした誓いが夢ではなかった証拠に、彼女の隣には、実体化した銀髪の精霊が寄り添っている。
「本当に、本当に行くのですね、エリカさん……。今ならまだ間に合います。畑仕事に戻れば、少なくとも巨大な牙を持った魔物に噛み砕かれる心配はありませんよ?」
リノはエリカの袖を掴み、眉を八の字に下げて必死に訴えていた。精霊界の図書館で読んだ『恐ろしい人間界の魔物図鑑』の知識が、彼女の脳内で警報を鳴らし続けているらしい。
「大丈夫だよ、リノ。私、これでも力だけは自信があるから。それに……」
エリカは一度言葉を切り、村の方を振り返った。 朝の農作業へ向かう村人たちが、遠巻きにエリカを見ている。その視線には相変わらず、「役立たずが出ていくのか」という蔑みと、どこか厄介払いが済んだという安堵が混ざっていた。エリカは喉の奥に苦い塊を感じながらも、ぐっと拳を握りしめた。
「ここにいても、私は『大根を壊すエリカ』のままだ。でも、リノと一緒なら、私は『冒険者のエリカ』になれる気がするんだ」
その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、リノは言葉を詰まらせた。そして、諦めたように小さなため息をつくと、エリカの隣に並んで歩き出す。
「分かりました……。もしエリカさんが食べられそうになったら、私が精一杯、美味しくない呪いでもかけて守りますから」 「あはは、それは心強いな」
二人は、帝国の首都インペリアを目指して街道を歩き始めた。 最初の難関は、出発してわずか三十分後に訪れた。街道は一本道のはずだったが、何故かエリカが「近道だ」と言って入った獣道で、二人は完全に方向を見失った。
「エリカさん……太陽はあちらですが、私たちは今、どこへ向かっているのでしょう?」 「……おかしいな。地図だとこの辺りに大きな岩があるはずなんだけど」 「それ、一時間前に通り過ぎた岩ですよ」
早くも方向音痴の片鱗を見せる二人の前に、草むらがガサリと揺れて現れたのは、冒険者の登竜門とも言える、プルプルと震える青い粘体——スライムだった。
「ひゃうっ! 出ました! 凶悪な先行偵察種、スライムです!」 「よし、初戦闘だ! いけっ、私の右拳!」
エリカは鼻息荒く踏み込み、渾身のストレートを放つ。 ——スカッ。 拳は空を切った。スライムが僅かに跳ねて避けたのだ。
「もう一回!……あれ?」 二回目、空振り。三回目、自分の勢いで転倒。四回目、スライムの横の地面を強打し、土が爆発したように舞い上がる。 エリカの攻撃は、恐ろしいほどの威力がある一方で、命中精度が絶望的に低かった。




