第5話「姉」
頭だけとはいえ母さんの腕の中にいるのは照れくさい。享年五十一歳だとしても女性に抱かれるのは不慣れで、耳に当たる柔らかな膨らみの温度すら緊張してしまう。
このままの時間が続けばいいなんて思うけど、こうして母さんと言葉を交わせたことによって俺の欲は大きくなる。
いまだ顔すら思い出せない姉さんの存在。この日、俺は二人に会うことはなかったんだ。喧嘩別れの翌日は一日中部屋に引き籠もっていたからな……姉さんもここにいるのなら一目会いたい。
「あの、母さん……」
「な~に~?」
「へっ!?」
間の抜けた声が頭上から落ちてくる。もちろん母さんの声ではない。少し甲高い、凜と張りのある軽やかな女性の声。間違いなく、姉さんの声だと思い出した。
「やだぁ~ママばっかり奏汰くんと触れあっちゃってずる~い」
頭を抱きしめた腕の上から姉さんの腕が絡まって、母と姉二人に抱きしめられる構図となる。
柔らかくてあたたかい。同じボディーソープなのに、それぞれ違う印象の香りをまとった二人が俺を取り合うようにはしゃいでいた。
「こ、こらっ姉さんっはしゃがないでよっ」
「だってぇ~朝から母息子揃って感動ドラマしてるんだもん」
俺が激昂した誕生日の翌日に、親子揃って抱きしめあっている構図は確かに感動ドラマ……って感じなのかもしれない。
女性二人の腕が頭を抱きしめるものだから視界は不鮮明なままで俺はまだ姉さんの姿を見られてはいないが、明るい声だけで救われるような気持ちだった。
「奏汰くんもひとつ歳をとって大人になったんだな~」
実年齢だけでいえば、姉さんどころか母さんよりも年上なんだけどね……なんて言葉は胸のうちにしまっておいて、二人の腕から抜け出した俺は改めて母さんと姉さんの顔を見つめた。
「ママお腹減った~」
姉さんは相変わらずマイペースだな。と、三十三年前の姉の姿に顔が綻ぶ。まだ起きてきたばかりなのか桃色のパジャマ姿に栗色のロングヘアーが寝癖で跳ねていた。
「ご飯できたから凜ちゃんは顔洗ってきなさい」
しっかり者の母は目尻に涙を浮かんだ涙を拭ってキッチンへと消え、おとぼけ姉さんは顔を洗いにリビングを出た。
俺はというと三十三年間抱き続けた思いが成就されたことで胸が詰まってしまって、もう一度会えたのならなんて声を掛けたい? という問いにすら答えが出せずにいた。
ここはきっと夢の世界なんだろう。死の間際に神がみせてくれた一瞬の幻。
あの日の二人に会えた喜びに気障な台詞も格好の悪い言い訳も何もかも吹き飛んでしまった。夢でもいいんだ、これが俺の走馬灯だ。
もう言い残すことはない。今まで信じてこなかった神とやらが見せてくれた最期の夢があの日の続きだなんて、気障なことをしてくれるものだ。
ありきたりで当たり前な日常を過ごさせてくれた存在に感謝しながら、手持ち無沙汰の俺はテーブルの上に置かれたガラケーを手に取った。
高校入学のタイミングで買ってもらった初めての携帯電話だ。ドットの粗い液晶を見ると、思った通りにあの日のカレンダーが表示されていた。
「…………」
この夢はまだ続くのだろうか? 本当に神が見せてくれた日常の風景がもう少し続いてくれるのなら……俺は、今日この日の運命を変えられるだろうか?
リビングの窓から見える快晴の空。だけど、この夏晴れの空も夕方には暗雲立ちこめる悪天候に変わる……・
「…………?」
もしも、もし今日のドライブを無くしてしまえば……どうなる? あの日、癇癪を起こした俺が棒に振ったドライブの予定をご破算にしてしまえばどうなる?
あの日……部屋に閉じこもった俺。ドアの外で謝り続ける母さんを外に連れ出したのは姉さんだった。きっと、俺たちの距離を物理的に遠ざけて時間で解決しようと思っていたのだろう。
母と姉さんは二人で出かけた。それを見捨てられたと勘違いした俺はさらに激昂した。我ながら幼稚で浅はかな行動だったと反省している。
でも、もし……ふたりを救えたなら……?




