第4話「母」
小気味よい包丁の音は温かい家庭を彷彿させる。だから俺は、夕方の住宅街から漂うカレーやハンバーグの匂いが大嫌いだった。
音を立てないようにそっと、そろりそろりと階段を降りるたびに奈落に落ちるんじゃ無いかと冷や冷やするんだ。
この音の正体に一目会いたい未練を引きずったまま逝くのだけは避けたかった。
だから、そっと……気付かれなくてもいいし言葉を交わせなくてもいい。人生最期の望みを叶えてほしくて息を殺しリビングからカウンターキッチンを覗き込んだ。
「……っ」
ああ、なんて狂おしい。夢に見ることすら許されなかった後ろ姿に胸の中でグルグル煮詰まっていた吐き気が消えていく気分だった。
「…………っ……!」
嬉しくて、切なくて申し訳なくて……その背中に話し掛けたいのに言葉が出てこなかった。ただただ胸が苦しくて息ができなくて、視界は涙で濡れているのに……滲んで霞んだその姿を焼き付けるようにじっと、じっと見つめた。
……ああ、鼻歌が聞こえる。これは母の声だったろうか?
カウンターキッチンの窓からスラリと背の高い背中が見える。長く美しい髪を三つ編みにまとめて、俺が小学生の頃に贈ったエプロンを付けて朝食の準備をしていた。
「……あら?」
母がこちらに気付いた。思い出せなかった面影がこちらに気付く。黒縁の眼鏡をまとった穏やかな目許、カタチの良い鼻に薄桃色の唇。化粧水をつけただけの素顔の母の顔があまりにも美しくて、俺は言葉のほとんどを失ってしまった。
(……もう……これで、いい……)
最期に一目会えた母の姿に、俺は胸の内側から破裂して死んでしまいそうだ。目からボロボロと涙が溢れ出して、これ以上を望むと戻れなくなってしまいそうだった。
何十年も蓄積した家族への思いが昇華される。幸せと後悔が溢れ出してくる。俺が見たかった光景がまさにここにあったんだ……!
(この夢が続くのなら……俺は、あの日をやり直したい……)
大仰な願いだとは理解している。それだとしても、あの日の俺が家族を失った原因が自分にあると分かっているからこそ……夢でもいい、せめて最後くらいは思い通りのエンドを迎えたい。
じっと、じっと母の姿を見つめている俺の姿に母さんは不思議そうな表情をする。
「おはよう。どうしたの、奏汰くん」
優しい声色。心臓が鷲掴みにされるような狂おしい気持ちにさせられる。嬉しくて声が出ない……母親に名前を呼ばれただけで嗚咽がこぼれそうだ。
「……、……っ……!」
上手に声を出そうとして上擦ってしまう音。そんな俺を母さんは困り顔で見つめていた。
「っ……お、おは……よ……っ」
「うん、おはよう。今朝は早かったのね」
「あ……うんっ……なんか、長い夢を……見てる気分だった……っ」
「ふふっ、そうなの? 朝ご飯もう少しだから座って待っててね」
そう言って母さんはグリルコンロのほうへと背を向ける。俺は夢にまでみた光景に一歩も動けない状態だったけど、ギクシャクと固まった手足を動かしてダイニングチェアへと座った。
無垢な木目があたたかいナチュラルカラーのテーブルには麻素材のランチョンマットが三枚並んでいる。俺と、母さんと……姉さんの分だ。
たったそれだけのことでも涙腺が崩壊する。声を出して泣き出したい気分だ。それでもどうにか堪えられるのは、この家で唯一の男としての見栄のおかげだ。
トントントン、と包丁の音。ザクザクと菜っ葉が刻まれる音が混じって、カチャンと食器がぶつかる音がする。あまりにも当たり前な日常は夢の中にあった。
「あ、そうそう。ケータイ電話はテーブルの上にあるわよ」
ケータイ……? と手許を見ると懐かしいカタチのガラケーが置かれていた。見覚えのあるストラップは姉からのプレゼントだ・
「お手洗いに忘れてあったって凛花が言ってたわ」
凛花。それは姉の名前だ。俺より一回り近く年上で高校教師の姉だった。淑やかな母さんとは真逆で明るくて真面目だけどドジな姉さん。寝室は隣なのだから届ければよかったのにと思うも……昨晩はそんな余裕はなかっただろうな、と思い出す。
「……昨日は、ごめんなさい」
朝食を作り終えたリビングに、申し訳無さそうな母さんの声が響いた。
「…………」
この日の出来事、この日の前日は俺の誕生日だった。そこで俺は初めて己の出生というものを聞かされたのだ。
女手ひとつで育ててもらった恩も忘れて、血縁がないというだけの秘密を十八年間隠されていた事実に驚いてしまって……母さんも姉さんも、そのことを知っているのに気付かないぐらい当たり前のように接して生活していたことが悔しかった。
聡明な母と、天真爛漫な姉を疑ったことが無かったからだ。だから、俺は……たったそれだけのことに激昂して口汚く彼女たちを罵ってしまったんだ。
「……っ……俺も、ごめん……昨日は大人げなかった」
誕生日の翌日もガキみたいに拗ねていた俺は部屋に籠もっていて、家族と約束していたドライブに顔を出さなかった。だってさ、あの頃の俺には何よりもショックだったんだ……血縁じゃないと言われて急に他人行儀になるんじゃないかって怖かったんだ。時が経てば、たったそれだけのことだと理解したから今は素直に謝れると声を振り絞る。
「……あんなの本心じゃ無かった、俺はこの家に生まれてよかった」
一言謝れば、後悔の念が溢れ出してくる。
「幸せだったんだ。本当に、本当に幸せだったんだ……だから、だから……っ……ごめんなさい、ごめんっ、ごめんなさい……母さん、ごめんっごめん……っ」
溢れ出した涙はもう止まらなかった。あの頃は意地でも涙なんて見せるものかと我慢できた感情も堪えようがなかった。
嗚咽を漏らして泣きじゃくる俺の姿に母さんは驚いて、エプロンを外してこちらへとやってきた。
そして、細く柔らかい腕で俺の肩を抱いて……優しい言葉をくれる。
「ありがとう。奏汰くんは私の、最高の息子なんだからね……」
母さんの声も震えていた。涙混じりに許してくれた母は俺が思っている以上に若く美しい姿で、あたたかい腕の中で俺の頭を掻き抱いた。
ああ、なんて幸せなのだろう。手を伸ばせば触れられる距離に母さんがいる。俺はそれだけで嬉しかった……例えこれが、すべて夢なんだとしても。




