第29話「蜜」
授業にした身が入らなかった午後。帰宅部の俺は颯爽と自転車にまたがって帰路へとついた。頭の中は春萌初苺のことで溢れかえっていて、歳相応の少女らしい彼女の行く末を勝手に想像しては落ち込んだりもしていた。
今日も色んなことがあった……と一日を振り返りながら帰宅すると、洗面所で手を洗ってからリビングへと戻った。
母さんは……どこだろう? 冷蔵庫から麦茶を取り出しつつ家族共有のホワイトボードを見ると母さんの文字で『取材』と予定が書き込まれていた。
そっか、と納得する自分に以前のような焦燥感が消えていることに気付く。過去に転生した直後は家族が見当たらないだけで不安になっていたもんな……あの日の惨劇がこうして回避できて俺は三十三年ぶりに親子水入らずの生活を満喫している。
それって、とても嬉しいことなんだと思う。
飲み干した麦茶のグラスをシンクに置いてリビングのソファに座る。けど、すぐに立ち上がって部屋へと戻っていく。誰もいないリビングはまだトラウマみたいだ。
自室に戻ってエアコンをつける。涼しい風が吹き込んで生き返るような感覚が気持ちいい。あの日の俺は……寂れたボロアパートで熱中症になっていたんだろうな。故障したエアコンと止められた電気やガスの督促状が散らばっていて、指も動かせない状態では水分を取ることもできず……みすぼらしく死んでいったんだろうな。
天涯孤独で友人もいない俺の遺体を誰が片付けたんだろうか? 滞納した家賃や携帯料金、光熱費も誰が肩代わりするんだろうか? 孤独死した俺を見つけた人はトラウマになっていないだろうか? こうして諸々の心配ができるってことは俺の心が随分と落ち着いたということだろうな……と思う。
涼しい部屋でベッドに横たわりうとうとと目を閉じる。目を醒ましてもこの部屋であるようにとエアコンを付けっぱなしのままタオルケットを手繰り寄せた――
目が醒めると窓の外は薄暗くなっていた。十九時を過ぎたぐらいだろうか? 玄関の方向からバタンと物音がして誰かが帰ってきたんだと微睡みつつ。
この時間なら姉さんかな? 姉さんだったら今朝のことを聞かなくちゃ。まさか担任として配属されたなんて聞いていなかったからな……。ゆっくりと目を醒まして寝ぼけ眼を擦ってから大きく伸びをすると、背中を掻きながら部屋を出た。
「おかえり」
リビングには麦茶で涼む姉さんの姿。夏の汗で溶けかけたメイクをクレンジング化粧水で丹念に拭っていた。
ジャケットを脱いだラフな姿。シルクのキャミソールが素肌に張り付いて妙にエッチというか目のやり場に困るというか……。帰宅直後の火照った身体から香水のようないい匂いが立ちこめていて、やっぱり妙にエッチというか意識するんだよな。
「奏汰ぁ~ただいま~」
「お疲れ様。ってか、姉さんが担任だったなんてビックリしたよ」
「ほえ? 言わなかったっけ? 新学期から担任になるって……あれ? おかしいな……真っ先に伝えたと思うんだけど」
不思議そうな顔をする姉さん。どうやら、伝えたという記憶が曖昧らしい。そうだよな、俺だって聞いてない……はずだと思うんだけど。
「ま、まぁ~そういうことなのよ。転校生共々明日からもよろしくね~」
ああ、そうか。転校生……天使マナは今日転校してきたんだよな? あれ、昨日だったっけ……? 俺の記憶も混濁しているようだ。どうしてだろう?
なんとなく、本当になんとなくだけど外部から記憶が書き換えられるような不思議な感覚。俺も姉さんも正体の分からない第三者に記憶を植え付けられているのかも。
「……なんて、ないない」
神様でもあるまいし。あれ、そうなると俺はどうしてここにいる……? これ以上考えると混乱してきそうだからと姉さんの隣に座ってテーブルの上の郵便物を手に取った。
「姉さん。免許証の更新が来てるよ」
「え~もうそんな時期~?」
二つ折りのハガキを渡すとノリでくっ付いた印刷面をペリペリと剥がす姉さん。免許証の更新か……姉さんってば正面写真の写りが悪いからって見せてくれないんだよな。などと、懐かしい記憶を思い返す。
でも、もしかすると……姉さんの免許証は他に見られたくないことがあったんだろうか? 裏面とか? 裏面ってなんだっけ……メモ欄と……臓器提供の意志だ。
「……ね、姉さんってさ……免許証、裏側って何か書いてあるのか?」
「裏側? 臓器提供のとこ? そりゃ万が一があったとき、私の何かで助かる人がいるのなら……ってね」
「そう……なんだ。立派だね」
「そんなことないってば~! ほら、私ってば健康超優良児だからねっ!」
そうだね。だからこそ不慮の事故で亡くなってしまったことが悔しかった。搬送先で脳死状態が確認された姉さんの意志を実行していいかと連絡が飛んできた。
茫然自失とした俺はどんな返事をしたんだろうか? 姉さんの意志なら使ってほしいと伝えられたんだろうか? それなのに、病み上がりの卒業式で答辞を読む春萌を睨んでいたんだろうか? 誰でもいいからと恨みたかったのかもしれない。
そうしないと俺の悲しみは癒やせそうになかった。春萌を恨んでも姉さんは帰ってこないのに……そして。あの日の事故を未然に防ぐことができた俺は、春萌の希望を奪ってしまったんだ。
その日の夜。取材が長引いた母さんは仕事先の人と晩ごはんを食べて帰るからと連絡をよこしてきた。姉さんと俺はピザのデリバリーを頼んで夕飯を終えた。
涼しい自室で目覚める朝。目を醒ましても部屋が涼しいだけでボロアパートじゃないんだって思えるから、安心感がすごい。
目を擦って背筋を伸ばして、エアコンを止めてから部屋を出ると階下から包丁の音が聞こえる。トントントントン、と。
昨日の帰宅が遅かったのにもかかわらず母さんは早朝から朝食の準備をしてくれる。コトコトと煮込まれるみそ汁の具や、グリルコンロでパチパチと焼かれる焼き魚の香りがかぐわしい。
俺の姿を見つけた母さんはニコッと笑って「おはよう」と声を掛けてくる。俺はというと、エプロンの下、無防備な母さんの部屋着を見てしまうんだけどな。
あの頃はこんな感情持つとは思ってなかったんだけど……母さんは魅力的な女性で、正直な話……ストライクゾーンである。
高校生が何を言ってるんだかと笑われるだろうけど、母さんほど理想の女性はいないんじゃないかって言葉も過言ではないぐらいだ。
母さんって素敵だね。そう伝えたい気持ちもありつつ、高校生の俺からみた母さんは母親なんだから……変な感情をできるだけ抱かないようにしたいと苦笑いする。
「朝風呂の残り湯があるから寝汗流してらっしゃい」
ニコッと笑う母さん。母さんや姉さんの後の風呂って……とてつもなくいい匂いなんだよな。なんていうか、その、変な気分になるぐらいの。
つい母さんを意識してしまったから湯船の中で暴発しないようにしないとな、なんて……とか思いつつ風呂場に向かった。
「ふぅ~……!」
夏ってついついシャワーだけになるんだけど、こうして朝から湯船でゆっくりできるのって贅沢だよな~と蕩ける。
母さんの残り香がふわりと漂っていて、なんとも気持ちいい気分。ちょうど良いぬるま湯の湯船でゆったりしているとドアの向こうから騒がしく階段を降りてくる音。
あ、そうか。俺が先に起きたということは姉さんはもっと早く起きてないと仕事に間に合わないワケで……あ~あ、社会人は大変だな~とまったりぬる湯を楽しむ。
「え!?」
脱衣所に現れる姉さんのシルエット。衣服を抜いているのか肌色が露わになっていく。こらこら、高校生の弟が入っているんだから脱衣所で着替えるんじゃない……と思っていると。
ガチャッ!!
突然現れた全裸の姉さんに絶句した。いや、何が起こったのかよく分からない。俺が湯船を楽しんでいるのは母さんからも聞いているだろうし、知らなかったらそれこそキャー! と驚くんだと思うんだけど……え、ええ!?
「うわぁーー! 遅刻するぅぅーー!!」
「ねねね、姉さん!? ちょ、ま、俺、出るから……ァ」
「気にしないでっ! それより遅刻しちゃうから……もう~っ! 今日に限って寝癖が酷いぃ~髪が絡まってるぅ~!!」
全身にシャワーを浴びせながらチマチマと絡みついた毛束を解いている。気にしないでと言われても、目の前に二十代女性の裸体があるのに無理だよな!?
肩は薄いのに胸はドンッと張りだしていて、腰なんか内臓が入ってるのか分からないぐらい細くくびれていて、その割にハリのあるお尻は艶めかしい曲線を描いている。
だだだ、駄目だって。こんなの見せられたら生理現象で事故る!!
「うわぁぁーー! またハゲ教頭に何か云われちゃう~! ひぃんっひぃんっ!」
慌てながらシャワーを浴びて、髪を洗う姉さん。ワシワシと頭皮を擦るたびにおっぱいやおしりがプリンプリンと揺れているんだ。
俺はというと湯船に浸かっているから、見上げるように姉さんの乳房やお尻を観察することになる。いや、そうしていないと湯船の中で痛いほど膨張した愚息に気付いてしまいそうで……。
「よっしゃあ! あとはドライヤーして、メイクの手順を省略すれば勝てる! 奏汰くんありがとね! ごゆっくり!!」
バタバタと浴室を出て、洗面所のドライヤーを回収してリビングに走っていく姉さん。ってか、タオル一枚で戻るなよ……風呂からあがっても目のやり場に困るだろ。
それにごゆっくり、って。キリキリ痛むの愚息の機嫌を取らないとどうにもならないだろう……それに、それに、家族の裸で抜くというのがなんとも背徳すぎて暫くの間俺はウンウンと唸っていた……。




