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第28話「蝕」

 灰色の過去のことはあまり覚えていない。そのせいか退屈な授業が新鮮で、やたら面白く感じるからと興味深く聞き入り四時間目まで有意義に過ごせた。

 昨日の今日で購買に向かった俺は食堂に並ぶ生徒たちを横目に惣菜パンを選んでいる。どちらも混んでいるとはいえ、購買は買ってしまえば後は好きな場所で食べればいいのだから食堂よりは気楽だ。女子に人気のチョコチップメロンパンやチーズケーキが練り込まれたブリオッシュ、その横に男子なら食いつかないわけにはいかないガッツリ系の惣菜パンがひしめき合っている。

(ちくわパン……?)

 その名前どおりに一本丸ごとちくわが乗っかった分かりやすいパン。店から持ってきたと思われるポップを見るにツナサラダが入っているらしい。昨日がカツサンドだったから今日はこれでいいかもだな。あとは……と目線を滑らせると極少数用意された弁当が目に入る。みそ汁こそ用意されていないが揚げ物たっぷりの学生向け弁当は朝食抜きの空腹感を刺激して思わずそれも手に取ってしまった。

「八百六十円……ちょっと買いすぎたな」

 空腹に狂っていたから仕方ない。弁当と惣菜パンを手に、どこで食べようかと逡巡したが……ふと屋上の少女を思い出した。

 病気のことを詳しく尋ねようとして厄介払いされた昨日。いま思えば不躾だったよな、と謝るきっかけになればいいなと屋上へ向かう。

 まだ九月だというのに屋上には様々な生徒たちが昼休みを満喫している。フェンスに沿って並んだベンチはすでに満員で、後から来た生徒は日陰で涼みながら食事をするしか選択がない。

 まぁ、涼むといっても九月の初旬。山の中とはいえ日射しも強い。昼食を手に日陰を探して歩いていると昨日と同じ給水塔の側に春萌初苺はいた。

「よっ」

 自然に、軽く、挨拶してみる。傍らに日傘を置いた春萌さんは俺の顔を見上げて小首を傾げた。

「……何しに来たの……?」

 昨日に続いて今日も現れた俺に不思議そうな問いかけ。何しにって、君に会いたくて……なんて言おうものなら照れくさすぎて死んでしまうだろうから俺は手にしたパンと弁当を見せる。

「見てのとおり、お昼だよ。ランチ。昼食」

「そう……隣、座る……?」

 意外と邪険にはされなかった。それどころか隣に座れとばかりにレジャーシートに隙間を作ってくれる。昨日より小さく折り畳まれたそこに座るとかなり密着してしまうんだけど……拡げられたお弁当を片付けてまで広げなくていいだろう。

「ありがとう」

 横並びに座ると小柄な身体に身を寄せる。白い袖から伸びる細い腕、ベスト越しの薄い肩……すごく華奢な体格だ。

 身を寄せ合う俺と春萌さんに夏の山風が吹き抜ける。夏の名残のような涼風だ。

「すっかり秋の気配だな」

 ちくわパンを一口かじって話し掛ける。会話のスタートは季節からって良くいうだろ? 春萌さんは小さくかじったコッペパンを嚥下してから「うん」と答えた。

「今年のキンモクセイは……早いかも……楽しみ」

 小さく笑う。薄桃色の唇の口角がほんの少し持ち上がった。たったそれだけで胸の中が詰まるような嬉しさが溢れ出す。

「キンモクセイ好きなのか?」

「うん。小さい花も……可愛い香りも……全部、好き……」

「それなら早く秋になるといいな」

「……うん。陽が高くなって……積乱雲が、散り散りになってるから……もうすぐ」

 真っ青な空を見つめて嬉しそうに微笑む。過去の俺は彼女と話すどころか恨んでさえいたけど、こうして話して見ると等身大の女の子っていうのかな……普通に可愛らしい普通の女の子だ。

 二人して空を見つめてパンをかじる。春萌さんはコッペパンを手にしたまま……ふっとこちらに倒れ込む。

「ちょ、大丈夫か!?」

 長い睫毛を震わせる少女。もとより白い肌が青白く感じる。何度か名前を呼びかけると小さな唇が開いて大丈夫だと伝えてくる。

「ごめん、なさい……めまいが、した……から……少し、こうさせて……」

 頭を預けたままの春萌さんはか細い呼吸を繰り返しながら時折ぎゅっと目を瞑る。こういうことって経験したことないけど、大丈夫なのかな……? 誰かに助けを求めて先生を呼んだほうがいいのかな……?

「だ、大丈夫か……?」

「……うん。少し……緊張、した……みたい……」

「ごめん。邪魔だったかな……?」

「ううん……大丈夫、そんなこと……ない」

 ぐったりと頭を預けたままか細い呼吸を繰り返す彼女。制服の膨らみが上下していて、この中に欠陥品の心臓が入っているのだと思うと胸が締め付けられる気持ちになる。


 本当なら春萌さんは移植手術を終えて健康な人生を歩むはずだったんだ。あの時の俺はそれが許せなくて、卒業式の壇上をまっすぐに見つめる彼女の横顔に悪態をついていた。

 悔しかったんだ。姉さんはいないのに、姉さんの心臓がはいった彼女が生きていることが。


 やがて、春萌さんはゆっくりと起き上がり涙で濡れた視線で俺を見上げた。

「ごめんなさい……もう、大丈夫……」

 せっかく楽しいランチタイムだったのに、と言いたげな瞳が謝る。心配を掛けてしまったことを詫びて長いマツゲを伏せる。

「気にしなくていい」

「……あり、がと」

 意外そうな表情。いつもこんな感じで体調が悪くなるから一人でランチをしているのだろうか? ほんの少ししか接した時間はないけど彼女に惹かれていく自分を感じる。

「……あなたが良ければ……また、一緒してほしい……いい、かな……?」

 ホッと安堵したような、はにかんだ笑み。春萌さん、こんなふうに笑うこともできたんだ。

 こうして接していると彼女は普通の女の子で、心臓のことさえなければ……普通に登校したりクラスメイトとランチをしたりできたのにと、同情してしまう。

 俺は、今も昔も彼女のことを心臓病の少女ということしか知らない。だからもっと知りたい。

 春萌初苺という少女のことを、もっと。


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