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第18話「母という女性」

 「よし、終わった」

 プリントの束をテーブルの面で揃え、白紙のページがないか確認する。

 三十三年前の俺は特に苦手な数学を放置していたようで、その他の教科はまんべんなくクリアしていた。

(意外とやるじゃないか俺)

 正直、自分自身でもこの頃の記憶が無かったために宿題の状態まで憶えているはずがなかった。

 そりゃそうだ。一瞬にして天涯孤独になった悲惨な事故を目の当たりにして正気でいられるなんて十八歳のガキには無理だろ。

 連日報道される土砂崩れのニュース。現場は二次被害を避けるためにも今すぐの救助ができない状態で……俺にできることはコールだけを繰り返す二人の携帯電話に発信し続けるだけだった。

(つらかったな……生きた心地がしなかった)

 朝も、夜も、夢の中でさえ、十八歳の俺はこの部屋で目を覚ましてドアの先へ行こうとしたんだ。

 何度も何度も、何年も何十年も。そりゃ、走馬灯にたどり着く頃には疲労困憊だった。

 宿題を終わらせた疲れがどっと押し寄せて一眠りしたい気持ちだったが、あの事故を思い出してしまって無性に心配になる。もし、またこの部屋を出たら誰もいなかったら……と不安がよぎる。

「……リビングで休めばいいかな」

 無性に会いたかった、愛する家族に。恐る恐る自室のドアから出て階段を降りていくと照明がつきっぱなしのリビングはシンと静まりかえっていた。

(母さんは……風呂かな……)

 遠くからシャワーの音が聞こえたものだから安堵感は半端ない。この家に俺以外が在るという事実だけで涙ぐみそうになる。

(やだな、歳をとると涙腺が緩む……)

 この身体は十八歳だけど、俺自身はプラス三十三年の記憶があるんだ。だからかな、母親のシャワーの音を聞くと……こう、欲情に似た気分になるのは。

(……って、さすがに無いだろ。俺なんかが手を出していい女性(ひと)じゃない)

 冷静に考えれば、それとは別の常識があるんだろうけど……離れていた分、恋い焦がれた分だけ母さんという女にも劣情を抱いてしまう。

 気分だけが先走って、どうにか落ち着かないと身体的にも反応が出てしまいそうだと冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いだ。自分だけじゃなくて、母さんの分も。

 冷たい麦茶を飲み込み食道を通って胃に落ちると内臓が冷えて顔の火照りも幾分かマシになっていく。俺、母さんのこと……そういう目で見られるようになってしまったのか。

 ……やがて浴室から母さんが出てくる。パイル地のバスローブに身を包んで、長い髪をタオルドライしながら。

「あら、奏汰くん。麦茶淹れて待ってくれたの? ありがとう」

「喉が渇いたから、母さんも出てくる頃かなってね」

 湯上がりの白い手首がバスローブから伸びて、桜色に火照った爪の先がグラスの露を引っ掻いてから絡みつく。

 か細い女の指先は何気ない動作だというのにハッとするほど艶めかしい動きをする。

 透明なグラスが濡れた唇に触れ、美味しそうに飲み込む首筋や呼吸に上下する鎖骨を目にすると……溢れ出す劣情を生唾と一緒に呑み込むしかない。

 嫋やかな手の行き先を凝視して、言葉も失うほどに見つめてしまう。そんな俺の視線に気付いた母さんが「どうしたの?」と不思議そうに訊ねてきた。

「あ、いや、なんか……色っぽいな、って……」

「……くすっ。ふふっ……もう奏汰くんったら。駄目よ、こんなオバサンに掛けるには勿体無い言葉だわ」

 思わぬ言葉に笑いだしてしまう母さん。正直、母親に色っぽいなんて思うのはどうかしているのかもしれないけど、年齢を重ねた俺から見た母さんはまさに理想の女性で……さきほどの言葉は自然と出てきてしまったものだと説明したい。

 だけど、そんなことをしたら驚かせてしまうよな。あの日の事故を予言した息子が未来から帰ってきたなんて言ったら……。

「ふふっ」

 小さく笑う母さんの声。

「どうしたの?」

「なんだか、急に大人になったみたいなんだもの」

 そうだよ、と答えたい気持ちと。あの日のまま止まってしまったよって気持ちがぶつかって、俺は曖昧な返事をすることにした。

「大人かな……なんだか実感がないな」

 あの日、俺の心も死んでしまった。身体ばかりが衰え、最終的には炎天下での孤独死という最期を迎えた。家族に一目会いたいという未練を残したまま潰えてしまう命は神のきまぐれか、はたまた奇跡なのかこうして母さんの隣に在る。

 濡れ髪を軽くまとめ、綿棒で耳の水分を拭き取っている母さんを横目にする俺は胸の奥底でくすぶっている劣情を上手く処理できなかった。

「ふふっ」

 隣から漂ってくるフレグランスめいたボディークリームの香りに鼻がひくつく。自制できない劣情が膨らみはじめて、気付かれないうちにこの場を立ち去らないと……そう思ったときに母さんは可愛らしい提案をしてきた。

「耳掻きしてあげようか」

 膝枕での耳掻き。子どもじゃ無いんだからそのぐらい一人でできるけど……姉さんもいないし、二人っきりなのだから思いっきり甘えてもいいんじゃないかって気持ちになってくる。

「う、うん……!」

 たぶん十八歳の男が母親に耳掻きをしてもらうなんて恥ずかしいことなんじゃないかって思う。だけど俺は、三十三年という時間を経ていまここにいるし、何よりも柔らかな母さんの肉体に触れたい気持ちでいっぱいだ。

「いらっしゃい、奏汰くん」

 バスローブに包まれた太ももに頭を預ける。母さんのボディークリームは薔薇の香りで、その芳醇な匂いを気付かれないように吸い込む。

「奏汰くん耳掻き好きだったもんね」

「うん……母さんの耳掻き好きだよ」

 そんな言葉を自然と吐きだして目を閉じる。母さんに集中したいからだ。竹の耳掻きが鼓膜に近いとこをカリカリと引っ掻いて背中がゾクゾクッと震える。

 母さんの体温にあたためられたボディークリームと石けんの香りが混じって、そこに形容しがたいが母さんそのものといえる優しい匂いが俺を満たしていく。

 髪を撫で付けながら耳掻きされる心地よさはまさに天国に上る気分で、ふわふわと夢心地の気持ちよさと下半身で膨らみを増す劣情のせめぎ合いがアンバランスで妙な気分だ。

 耳の中ではカサコソと耳掻きが動き、顔に柔らかい何かがふわりと着地している。ああ、たぶん……なんて言わないでもこれは母さんの胸だ。華奢な身体だからこそ妙に目立つ大きなバスト。男なら誰しもが揉みしだきむしゃぶりつきたいと思うグラマラスな乳房。

 バスローブに包まれた無防備な柔肉がふんわりと顔に着地して、それを意識すると俺はもう……辛抱堪らない気持ちが勝ってくるのを感じた。右耳を掃除してもらって今度は左耳。母さんの下腹部に顔を押し当てて風呂上がりの匂いがダイレクトに伝わってくる頃には顔面を真っ赤にした俺がやや前屈みにうずくまってしまっていた。

「はい、終了」

 耳掻きを持った母さんがニコリと笑うのを見上げる俺の瞳は快感の涙で濡れていた。触覚と嗅覚で堪能した耳掻きが終わると俺の頭は気持ちのいい酩酊感にクラクラしていた。

「宿題は全部終わったかしら?」

「え、ああ、うん……姉さんの助けもあって、おかげさまで」

「そう、よかったわね。新学期になったら凛花のことはちゃんと先生って呼んであげてね」

 くすくすと笑う母さん。この夏休みが終わったら、こうやって過ごす時間も減ってしまうのかな……。俺は友だちもいないし無趣味だし、部活も入っていないから学校が終わったら真っ直ぐ帰ってくるのだろう。愛おしい我が家に。


 思えば、俺の人生は長い長い夏休みだったのかもしれない。


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