第17話「姉という女性」
――夏休みも残すところ三日。
宿題に向き合う俺は人生という名のブランクに姉の助力なしでは数式を解くどころか、その他教科の記憶もおぼろげになっていた。
もともと勉強がそれほど得意ではなかったのを理由に姉との個人レッスンの時間を作ってもらっては始業式までに課題を終わらせようと必死になる俺。
……だけど、今日の姉は少し様子がおかしい。
「…………すぅ……っ……はふ……」
数式を解く俺の隣でうつらうつらと船を漕ぐ姉さん。昨日の夜、遅くまで部屋の電気がついていたから寝不足といったところか。
「眠いの?」
「……ふぇ? ぁ……ごめ、うん。昨日遅くまで友だちと電話してたから」
と恥ずかしそうに笑う。姉さんの友だちというのは十割九分の確立はほぼ同性の友だちだ。姉さんは友だちが多い。家にいても電話やメールが引っ切り無しだ。
「人気者だね」
そう返すと姉さんは深い溜息をついてゲンナリと俺のほうを見てきた。
「好かれるのは女友達ばかりよ」
なんだろう? 普段は電話の内容をこれでもかと話してくるのに、今日の姉さんは
いつもと違う雰囲気だ。
「どうしたの? そんなふうに悪態つくなんて」
指摘されるとハッとしてから「ゴメン」と小さく謝る。もしかして友だちと喧嘩でもしたのだろうか? それはそれで一方的に話してきそうなんだけど……。
「愛里沙って覚えてる? 大学時代の友だちで仲良かった子……なんだけど、あの子結婚するのよね」
「へぇ、おめでとう」
「そう。おめでたいのよねぇ……」
頬杖をついて深い溜息。なんだろう? 何を気にしているんだろう……? 姉さんだって若くて可愛いし、スタイル抜群だし、性格だって整っているんだから男からの誘いは引っ切り無しだと思ってる。でも、そんなこと……無かったり?
(それは無いだろ……授業中だって鼻の下伸ばしてる奴がいたぐらいだ)
それだとしたら友人に想い人を盗られた……とか? 興味本位で聞いてみたい気持ちはあるけど、なんとなく憚れる気分だった。
姉さんだって大人だ。子どもならまだしも、顔も知らない異性と大人の付き合いをしている姉さんを思うと……なんだか落ち着かない。
美人だし。器量もいいし。明るく朗らかで一緒にいるだけで楽しい女性。
「……なんで奏汰が溜まりこむのよぉ~」
頭の中がグルグル回ってて黙り込んでいた俺に何を感じたのか、姉は気の抜けるような奇妙な声を吐きだしてテーブルに突っ伏した。
「……奏汰くんはいる? 好きな女の子」
その言葉の意味を考えるのに暫く時間を要した。もしかして友人の婚約に羨ましくなってしまったんだろうか……?
「いや、俺は……引きこもりの無趣味だし……さ」
「アイドルとか女優さんでもいいの」
「うー……ん。そう、だなぁ……好みのタイプって無いかもしれない」
姉さんはキョトンとした顔で「どうして?」と訊ねる。そう言われても、俺には姉さんと母さんぐらいしか女性との接点は無かったし、そんなふたりこそ理想の女性像……って感じで、気にしたことも無かったっていうか。
「姉さんこそいないの? 生徒や先生から言いよられたりしないの?」
「興味なぁ~し」
そう、なんだ。あれ? そうなると姉さんは一体なんのことで凹んでいるんだ? 女性の気持ちに疎い俺には彼女の心境を理解してあげられない。
「例えばさ、奏汰くんから見て私ってどう?」
投げかけられた質問に疑問符が浮かぶ。そりゃ姉さんは素敵な女性だし、理想の女性だとも思う。だけど、それをストレートに伝えていいものだろうか……?
「……分かんないよ」
数秒の間の後に俺は回答をはぐらかした。だって姉さんは素敵な女性だけど、それは弟っていう身内の評価だからかもしれない。あくまで家族なんだ。
姉さんの質問に答えようとすると男である自分のフィルターを通さなきゃならない。でも、そんなことしたら……意識してしまう。姉さんのこと、女性だって。
「……そっかぁ~」
またも大きな溜息。続いて大きなあくび。両腕を高く伸ばしてからだらんと脱力する姉の姿に「今日はもういいから寝ておいで」と声を掛けると、眠そうな目蓋をしぱしぱさせながら「うん……」と姉さんは俺の部屋を出ていった。
……姉さんの姿が消えても、部屋の中に姉さんの気配が残っている。ふんわり柔らかい柔軟剤と甘いボディーソープの匂いが混じって、室内に漂っている。
女性特有のフルーティーで花のような芳しい匂い。濃厚なバニラと甘酸っぱさを濃縮した独特の残り香に……俺はいささか興奮してしまった熱を冷ました。




