第15話「凛花」
自室に帰った俺は、早速とばかりに積み上がったマンガ雑誌を片付け始める……つもり……だった。
(巻末の読者投稿コーナー! 掲載されたくて小遣いでハガキ買ってたなぁ〜!)
ついつい小学生の頃にファイリングした切り抜きを読み漁って爆笑していた。過去に戻ってきてから緊張の連続で笑うことなんてなかったから、ダムが決壊したかのように笑い声が溢れ出す。いわばナチュラルハイだ。
「ははっ、あははっ! 笑いすぎてっ腹がっ痛いっ!」
特にお気に入りの特集はマンガのコマを切り貼りしてからフキダシを消して、面白い一言を書き込んで投稿するというコーナー。
ガキの頃はこのコーナーに投稿するために同級生のガキどもが雑誌を求めてコンビニや酒屋やなんかに小銭を握って飛び込んだものだ。
「……ふぅ〜ん」
と、背後から姉さんの声。まさかノックも無しに入ってきて真後ろに立ってるのだから驚いてしまう。
「ね、ねね、姉さん……! の、ノックぐらい」
「したわよ? それなのに奏汰がバカ笑いしてるから興味本位で覗いたの」
「の、覗くなよぉ……男の一人部屋なんだからな、ここは」
「へ? 覗かれて困るようなことが奏汰くんに……ぁ……ああ、あ〜」
誤魔化し下手かよ。年頃の男の部屋に若い女が音も立てずに入ってくるとか危なっかしいだろ……ってことを思ったが当時の俺はかなりこじらせたムッツリスケベだったからな……母さんにも姉さんにも色恋どーのこーのなんて素振りは見せなかったんだ。
だからこそ意外ともいえる俺の言葉に姉さんは口端を持ち上げてニヤニヤと笑っていた。
「な、なんだよぉ……」
「んーん? いや、なんか、奏汰くんもオトコノコだな〜って感心しちゃって」
「感心……そりゃ、俺だって……」
五十一歳のおっさんだからな、なんて言えば昨日の今日だから姉さんがひっくり返ってしまうかもいしれない。
「じ、じゅうはっさいだからァ?」
「え、うん、そうね。お誕生日だったものね」
「そうそう。成人の仲間入りだぞ」
「あら? 成人は二十歳からよ」
あ、そうか。ここは過去なんだっけ……。姉さんは俺の苦し紛れな態度も気にせずにセンターテーブルの前に座ると「弓弦く〜んシッダウン」と対面を指さした。
「教師かよ……」
「教師だもん」
そう、だったなぁ……。姉さんと身内であることは苗字からもバレていて、授業中もクラスメイトの視線がチラチラ突き刺さったものだ。
今ならハッキリと分かるけど、学生生活の彩り……っていうか、男子生徒たちには太陽のような年上の女性、だもんな。
「それじゃ始めよっか。宿題開いて」
……ミンミンミンと蝉の声。集中力が途切れないようにと姉さんが持ってきたクラシックのCDをBGMにふたりきりの授業。
ノートの傍らには汗をかいた麦茶のグラス。エアコンから冷えた風がそよそよと肌をくすぐっていく。三十三年前も夏という季節は同じなのに記憶よりも幾分か涼しいと感じる。
宿題の数式を解く俺の筆致を見つめる姉さんの顔が近い。淡い虹彩を縁取るマツゲが長い……すっぴんの唇は艶めいた桃色で、リップケアとかしているんだろうな……なんて。
こんなにも姉さんの顔を横目で眺めたことは無かったかもしれない。なぜなら……気を抜くと視線が釘付けになってしまう場所があって、だな。
(おっぱいが……でっかい……)
筆記問題を解いている俺は前かがみになるから、自然とその部分に視線がいく。仕方ないんだ、薄着の女性が、こんなにも……無防備な姿で胸元を覗かれていることも気付かずに勉強を教えてくれているのが……こう、なんだ、グッとくる……!
しかも俺の部屋にあるガラステーブルは透明で、無防備な太ももが丸見えになってるし……そういえばこの人、弟も男だってことを理解してなかったな。
まぁ、こんなふうに意識が姉さんにそれるのも……数式が難しくて手が止まってるからなんだけどな。
「ん? そこは∞+∞=∞って意味なんだけど∞って限りなく大きい、ってことであって限りなく大きい数って意味じゃないの。引っ掛かりやすいけど∞っていうのは数値じゃないってことなのね……それで……」
姉さんはノートの端っこにシャープペンシルを走らせて数式を書き込んでいく。凜とした声が数学の答えではなく、そもそもの考え方を教えてくれる。
「だからxが∞になるっていうのは、xが限りなく大きくなっていくという意味なの……これで分かるかな?」
「無限は数値じゃない、から……この場合だとxは限りなく無限に広がっていくってことでいいのかな?」
「そうそう。物わかりのいい弟は好きよ」
あはは……そりゃありがとう。と返事をしつつ、俺の視線は数式よりも姉さんをちら見する回数のほうが増えちゃってるんだけどな。
テーブルに着地する無防備な胸、ショートパンツから伸びるムッチリとした太もも……いかんいかん。と視線をノートに戻すも瑞々しい唇に細い首筋、華奢な鎖骨……そして豊満なおっぱい。
こんなにも魅力的な女性が隣にいるのに勉強なんて集中できるか。と集中力が三万になる俺の額に姉さんの人差し指が突き刺さる。
「隙あり……っなんて」
ふふっと笑う姉さん。なんだよ隙ありって。隙があるのはどっちだよ……。でも、まぁ……あの頃の俺が姉さんに勉強を教えてほしいと言えれば自分のためにマンツーマンの授業を用意してくれるような女性だったんだな。
あの頃の俺は反抗期の延長線と若干の照れ隠しから距離を置いていた。それは母さんにも同じなんだけど、あんな事故が起こるならもっとちゃんと甘えておくべきだったと思う。
だってさ、この年齢でそれに気付いてしまっても……現在の俺は目の前の姉さんですら欲情対象になってしまうおっさんになってしまったんだ。
甘いシャンプーの匂いや、ほのかな汗の匂いが扇情的で思わず生唾を呑み込む。このまま二人きりのレッスンを続けられたら、女日照りだった俺は間違いを起こすんじゃないかって不安すら覚えてしまうほど……ああ、汚れた大人になったんだな、俺。
「ねえ、奏汰くん……ぁ」
凜とした声が名前を呼んだ後、姉さんの足下から携帯電話の呼び出し音がピリリリリリと鳴った。メロディが繰り返されているから友だちからの電話かな?
「今日はこの辺でいいよ。ありがとう姉さん」
「あ、うん……ごめんね。部屋で出てくるね」
と、携帯電話を手に取った姉さんは二人分の麦茶を片付けておいてと頼んでから俺の部屋を出た。
二人きりの授業だったけど、何も集中できなかったな……姉さんに申し訳ないと思いつつ、トレイに並べられたふたつのグラスを見る。
麦茶が半分ほど残っていて、飲み口と思わしき部分にほんのり雫が垂れていた。なんだかそれがめちゃくちゃエロく感じてしまって、恐る恐る姉のグラスから麦茶を飲み込んだ。
乾いた喉に染みこむ薄味の麦茶は……とても甘く感じた。




