第10話「赦」
リビングの壁掛け時計は午前八時を指している。だらしなくソファに身を預けた姉さんのパジャマのポケットから携帯電話の電子音が鳴り響いたことにより、この団らんが終わるのだと察した。
「あ、あ、祥子から電話だっ! あの子、昨日フラれちゃったとかで話聞いてほしいらしくて……へ、部屋で出てくる~! じゃあね!」
小さな携帯電話を握りしめた姉さんがパタパタとスリッパの足音を立てて二階の階段を上がっていく。
残されたのは俺と母さんのふたり。ああ、あの人はこういう人だったと懐かしんで表情を弛める。
「清楚とはほど遠いね」
「ふふっ。凛花が聞いたら怒るわよ。でも、奏汰くんの落ち着きを分けてあげてほしいぐらいよね」
それを聞いたら姉さんがまた怒るよ? なんて会話に顔を見合わせて笑う。天真爛漫な姉と、物静かだがお茶目な母親のふたりに再会できた俺の胸はいまだ締め付けられる思いでいっぱいだが、変わりのない二人の姿にこの団らんを終わらせる覚悟が決まった。
「それじゃ、俺も部屋に戻るよ」
「ええ。いってらっしゃい」
普通の声。普通の日常。たったそれだけのことがこんなにも愛くるしいということを人生の最後にしれた喜びに満ちあふれていた。
「うん。……ありがとう母さん」
母に背を向けてリビングから二階に繋がった階段を一段ずつ上っていく。本当はもっと二人と過ごしたかったという未練も残っていたが、これ以上長くここにいると存在しない過去の地縛霊になってしまいそうだ。
トントントン。と階段を上り、自室のドアを開ける。懐かしい風景の部屋に戻って思い出に浸りたい気持ちも残ってはいたが、人生最後の出来事にドッと疲れてしまってベッドに倒れ込んだ。
カーテンの隙間から漏れる光。付けっぱなしのサーキュレーターが空気を揺らす。懐かしい香りがするタオルケット。この頃に使っていたシャンプーの香りが残った枕……こんなにも懐かしい物に囲まれた俺は幸せ者だと目を閉じる。
神なんて存在を信じたことはなかったけど、走馬灯としては充分な夢を見させてもらったから最後くらいは信じてもいいって思えた。
もう何も怖くない。未練もない。後悔もない。
目を閉じれば、眠ってしまえば終わってしまう過去の夢も……この走馬灯にもいつか終わりがくる。
(俺の生い立ちに同情した閻魔が浄玻璃の鏡で見せてくれたのかな)
だとしたら次は三途の川だ。夢の中ではふたりの命を救った俺も、現実世界では大切な家族を傷つけて死に至らしめてしまったんだ。
身包み剥がされて罪の重さを量れば相当だろう。それでもいい、この先の俺は地獄に行くだろうから天国の母さんと姉さんには会えないけど……叶うならば、来世なんてものがあるのなら……俺はもう一度あなたたちに会いたい。
何十年も費やして求めていたものは……赦し。
俺自身が、最後に自分自身を許せたことが冥土の土産になる。
ありがとう。これでもう、思い残すことは無い。




