第1話「死」
真夏の東京都。築八十年の木造アパート。
家賃三万二千円。共益費込みの四畳半一間は蝉時雨で満たされていた。
ボリュームを絞ったテレビから聞こえるお天気キャスターの声は気温四十二度を観測したという暢気なニュース。
それもそうだろう。エアコンの壊れた室内で朦朧としている俺がいるのだから相当の猛暑だと想像できる。お陰様で熱中症を通り越して瀕死レベルだ。
ミーンミンミンミンミー……。
飽きもせずに繰り返す蝉の求愛がうるさくて気が狂う。
せめて耳を塞ぎたいと身を捩ろうとするが身体はおろか指先すら動かない。まさに救急車を呼ぶに相応しい状態なんだと理解っている。
格安のオンボロアパートでもエアコンぐらいは設置されていた。コンセントが抜けたままのそれは去年の冬にポンッと壊れてから大家に連絡を取らないまま……修理を先延ばしにしているうちに世界レベルの流行り病と経済不況が重なって職を追われ無職になってしまい今に至る。
無職が生活を維持できるワケもなく家賃を滞納し続けて……そんな状態でエアコンの修理を申し出るのも厚顔無恥極まりないと、せめて滞納分は払いきるまではと我慢していたのが徒になった。
すぐに働こうにも学もなければ技術もない。日雇い労働で食い繋いできた五十一歳男性を手放しで歓迎してくれる企業もない。
家賃を滞納し、支払いが遅れ、家賃、電気、通信手段と順番に滞納を重ね続けた結果、ちゃぶ台の上には未開封の督促状が山になっていた。
……こんな状態になってまでどうして生きてきたのだろう?
夢も無ければ希望も無い。なぜなら俺は……あの日突然、すべてを喪ったから。
たった二人の肉親に先立たれた十八歳の誕生日から俺は生きる目的を見失ったまま無気力に生きてきた。
こんなになってまで、どうして生きているんだろうな。
頼れる友人も作れず、依存できる恋愛対象も見つけられず、ひたすら空腹を満たすだけの食事と現実を忘れるための飲酒を日課にしながら最低限の生活を繰り返し続ける人生。せめて最期ぐらいは幸福でありたかったと涙する。
どうせ死ぬのなら最期にもう一度会いたい。それが俺の幸福だ。
目蓋の裏にかつての日々を描く。どれだけ乞い願い泣き叫ぼうとも戻ってこなかった家族との日々を思い起こす。
いつまでも鮮明だと思っていた記憶は経年劣化でセピア色に焼け、母さんの顔も姉さんの声も上手に思い出せなくなってしまった。
これが最期なんだ。若くして亡くなってしまった二人を思い出せる最期の時間なんだ。混濁していく意識を集中させてセピア色の記憶からかつての家族の姿を思い出そうと足掻く。ゆっくりとあの頃へと記憶を巻き戻していく。
……年代物のアップライトピアノから奏でられるショパンの調べ。母が奏でる『別れの曲』のメロディが静かに聞こえてきた。
白い横顔は霞んだままで見えない。ストレートのロングヘアーからふわりと広がる香水の匂いも思い出せない。
遠くから姉さんらしき女性が紅茶を持ってこちらへ向かってくる。どんな表情をしているんだい? こっちに来て声を聴かせてよ。姉さんはどんな声で俺の名前を呼んでくれていたのか教えてほしいのに……思い出すことは無かった。
これが俺の最期。
命が潰える瞬間であろうとも俺の中の家族は色褪せたままだった。
母さん、姉さん、声を聞かせて。優しい声で俺の名前を呼んでくれ。
笑った顔を見せてくれ。そして……たった一言でいいから言葉を交わしたい。
「ごめんなさい」と。
――蝉時雨が消える。炎天下に炙られる部屋が凍えるように寒い。昼なのか夜なのかも分からずに、目を開いても真っ暗闇で、万年床に預けた背中が砂時計の砂のようにサラサラと闇の中に落ちていく感覚。
朦朧とした意識が溶けていく。闇に呑み込まれていく。
御伽噺で聞いた光の階段なんて現れないし、天使だって迎えに来ない。自分という輪郭が暗闇に霧散していく感覚だけになっていく恐怖に俺は泣いた。
最期なら会えると思っていたんだ。天寿を全うすれば迎えに来てくれると思っていたんだ。
白い衣に身を包んだ優しい母さんと明るい姉さんが手を差し伸べてくれると。
……だけど、何も、何も起こらなかった。奇跡は起こらない。孤独な魂は闇に溶け込み一粒の光となって天に昇る。
闇と一体化した意識は肉の器から解放されて宙へ吸い込まれていく。弓弦奏汰という魂は眠るようにその生涯を閉じた――




