絶対に押すな!!
歩哨任務として指定された地下施設は、近未来的な場所だった。
温度、湿度が完全に管理された人工環境。
コンクリートの壁に囲まれた無機質な空間だった。
照明は白く冷たく、足音が廊下に反響した。
軍から指定された制服と武器を装備した私は、安心していた。
長年の訓練の結果、これら装備はもはや私の体の一部として機能するからだ。
少なくとも、これを身に着けている限り、私の戦闘能力が最低限保証されている。
そんな自信があった。
しばらく進むと、予定通り配属先の部隊の隊員が待っていた。
軍人らしく、直立不動の姿勢で待っていた。
私が到着するや否や、彼が敬礼で対応を行ってきたので、私も対応をする。
「シェパード少尉、こちらとなります。」
それから彼の先導で指定された場所への案内が始まった。
彼は、私をさらに奥へと案内していく。
地下へと続く階段を下りていった。
大規模な施設の割には人を全く見かけなかった。
それがとても奇妙に思えた。
「シェパード少尉。こちらの部屋が、歩哨の開始地点であります。」
案内役の歩兵は、厚い金属製のドアに立ち止まり、敬礼した。
ドアには『最重要機密』と刻まれている。
「ああ、分かった。ありがとう。」
私はブリーフィングで受けた説明を思い出しながら、そのドアの向こうへと進んだ。
分厚い金属ドアが、作動音とともに自動で開いた。
部屋に入ると、中央に鎮座している一つの赤く大きなボタンが目に入った。
直径三十センチほどの丸いボタンは、床から腰の高さまである金属製の台座の上に据え付けられていた。ボタンの周囲は黄色と黒のストライプの警戒色で塗装されている。
透明なアクリル製のカバーで囲われているが、手を伸ばせば誰でも開けられそうだ。
室内灯に照らされた人工空間の中で、そのボタンだけが妙に明るいように思えた。
そして、その周囲には様々な言語で同じ警告が繰り返されている。
『絶対に押すな!!』
『絶対に押すな!!』
『絶対に押すな!!』
警告文は全て同じ意味を繰り返していた。
「ジェームズ・シェパード少尉か。」
声の方を振り向くと、エリック・ハリントン少尉が入ってきた。
エリックは私と同じ所属の隊員だった。
彼と私は同じ時期に入隊してて、これまで一緒にやってきた仲だった。
エリックと私の仲は良好だ。
しかし、彼は妙に律儀なところがあって、必ず私の名前をフルネームで呼ぶのだ。
その理由は何度聞いてもよく分からない謎の一つだった。
「エリック、これが何か知ってるか?」
私は彼に尋ねた。エリックは首を横に振った。
「いや、知らないな。」
短く、切り詰めた口調。
そのエリックの声には無関心さが滲んでいた。
でも私は納得できなかった。
このボタン、ただ者ではない。
壁際には監視カメラが設置されており、誰かが常にこの部屋を見張っているようだった。
赤いランプが小さく点滅している。
「これが気にならないか?」
私は彼に尋ねた。
「ああ?まあ、俺たちには関係ないだろ。俺たちの任務は、この施設の歩哨だ。このボタンのことは何も言われてない。」
模範的な回答だった。
彼は常にそうだ。
命令に忠実で余計なことを考えない。
良い兵士の見本のような男だった。
私は、ボタンをじっと見ながら、頭の中でいくつかの可能性を整理してみた。
この施設は核攻撃から身を守るためのシェルターかもしれない。
なにしろ、ここは地下深くに位置していた。
しかし、核兵器を発射するなら、一つのボタンではなく、複数のマスターキーやパスコードを必要とする複雑なプロセスがあるはずだ。
だとすれば?
このボタンを押すといったい何が起動するのか?
「おいおい、いつまでもここにいても仕方ないだろ。持ち場に就かないと。先に行くぞ。」
エリックが私の腕を引っ張った。
しかし、私の視線はボタンから離れなかった。
「ちょっと待ってくれ。これが気になるんだ。もしかしたら、重要なことかもしれない。」
エリックは大きなため息をついた。彼の顔には『またか』という表情が浮かんでいた。
「重要なことなら、俺たちに教えてくれるはずだ。それに、こんなに目立つボタンが重要なことに関係すると思うか?押したら、風船が飛んでくるか、音楽が流れるか、そんなもんだろ。」
エリックは軽口を叩いた。いつもの調子だった。
でも今回は、その冗談が頭に入ってこなかった。
このボタンには意味がある。深い、重要な意味が。
私はこれまで軍人として模範的な経歴を築いてきた。
常に冷静で、規律正しく、命令に従う兵士だった。
しかし今、このボタンを前にして、私の中の何かが揺らいでいる。
これまでの全てを天秤にかけてしまうほど、このボタンには不思議な魅力があった。
これほどまでに警告が書かれているボタン。
これを押せば何かが起動するのは間違いないだろう。
「じゃあ、エリック。君がこれを押してみてくれ。君が言うとおりなら、大したことは起こらないはずだな。」
意図的に挑発するような口調で言った。
エリックの反応を確かめたかった。
エリックは少し考え込んだ。
珍しい表情だった。
彼は通常、考えるタイプではない。
彼の額に浮かんだ筋が物語っている。
「考えすぎだ。こんなもの、きっと何の役にも立たないガラクタさ。俺は持ち場に戻る。お前もすぐに来い。」
そう言い捨てると、エリックは部屋を出て行った。
重厚なドアが閉まる音が、部屋に反響した。
静寂が訪れた。
私は一人残され、ボタンと対峙することになった。
自分の心臓の鼓動が、耳に届いてくる。
規則正しく、しかし少し早い。緊張しているのだろう。
赤いボタンと、その周囲の黄色と黒のストライプが、私の視界を占めていく。
警告色。危険を意味する色だ。
透明なアクリル製のカバーの下にあるボタンは、まるで禁断の果実のように私を誘惑していた。
室内の温度は低いのに、額から汗が流れ落ちてきた。
『絶対に押すな』『絶対に押すな』『絶対に押すな』
その警告が、危険なまでに私の好奇心を刺激する。
なぜ押してはいけないのか。
何が起こるのか。その答えを知る唯一の方法は…。
考えを整理しようとしたが、頭の中は混乱していた。
思考がまとまらない。
軍人としての義務感と、真実を知りたいという欲求が葛藤している。
もしこれが単なるいたずらだったら?
でも、もし本当に何かを起動するボタンだったら?
その結果は計り知れない。
自分のキャリア、名誉、もしかしたら命さえも危険にさらすことになるかもしれない。
指先がじわりと汗ばんでくるのを感じた。喉が乾いている。
唾を飲み込む音が、妙に大きく耳に届いた。
決断すべき時が来た。
私の手は、カバーに向かってゆっくりと動き始めた。少しずつ、確かに。
カバーを開ければ、ボタンに触れることができる。
迷いながらも、指は確実に目標に近づいていく。
手が勝手に動いているような感覚。
深く息を吸い込み、透明な保護カバーに手をかけた。
大した抵抗もなくアクリル製の保護カバーが開いた。
乾いた音が部屋に広がる。
赤いボタンが露わになった。
鮮やかな赤色に輝き、私を誘っている。
まるで内側から光を発しているようだった。
指先とボタンの間には、わずか数センチの距離しかない。
ゆっくりと私の指が赤い領域と近づいていく。
ゆっくりと…。
しかし、確実に…。
その時、部屋のドアが勢いよく開かれた音がした。
振り向くと、エリックが息を切らせながら駆け込んできた。
彼の顔には焦りの色が浮かんでいた。
「シェパード、待て!今、上官から連絡があった!」
エリックの声が部屋に拡散した。
しかし、彼の声は遠くから聞こえてくるように感じられた。
水中で聞く声のような不鮮明さ。
私の意識は既にボタンに集中していた。
もう手を止めることはできなかった。
体が自らの意思で動き出す。
指がボタンに触れる直前、エリックの必死の声が再び響いた。
「おい!シェパード、そのボタンはな!」
しかし、エリックの言葉が終わる前に、私の指は冷たいプラスチックの表面を押していた。
表面は思ったよりも冷たかった。
カチリという小さな音がした。