第七夜(Ⅶ)
「華胥國……皇帝?」
そう呟いた者がどれほどいたのか、静寂な広間に広がった声は、当人もぎょっとする大きさだった。どういう、と言いかけたマーガレットの口を、ウェンリーは物理的に手で塞ぐ。
「殆どの方は初めてお会いする。我が名は......」
『きゃー悠理、久しぶりね、会いたかったわ!』
皇帝の名乗りを遮ったのは、後ろにいた黒髪の女性だ。見慣れぬ衣装を纏い、目元を覆うベールを被ったみまま、王妃に抱き着く。
『珠喜、久しぶり。抱擁をしたい気持ちはわかるけれど、お父様の自己紹介を遮らないで』
『あらーお父様ごめんなさい』
『......相変わらずだね、うちの娘たちは』
ふう、と溜息をひとつ吐いて、皇帝は言う。
「華胥國皇帝、華諒と申す。第二公主華陽――ユリアーナ女王の父だ」
「お父様、まだ王妃です」
「そうだった。ついうっか」
「そうだ、わたくしたちもこちらの言葉で名乗らないといけないわよね。わたくしは華胥國が第一公主にして北慶王、華藍です。悠理の義姉と覚えてくださいな」
「うん我が娘、悉く父の言葉をぶった切らないで......」
「ごめんお父様! 許しててへぺろ!」
「謝罪がとっても軽い! お父様は悲しい!」
「私は華胥國が第一皇子にして沙耀王、華勒。同じく悠理の義兄と覚えていただきたい」
「我が息子は冷静!」
「お父様、突っ込むのはいいんですが身元について言及していただけませんか」
「あ、本題忘れてた」
息子と娘によって放り棄てられた威厳をいそいそと回収し、凛々しい顔つきで皇帝は告げる。
「悠理の――ユリアーナ王妃の身元については、我々3名と、国元に残してきた第二皇子、第三皇子の計5名が保証しよう」
父無し子と普段から隠れもせず言っていた貴族たちが青ざめる。
華胥国は東の大陸を統べる大帝国だ。東西三千里、南北に千里という、途方もない領土を、千年にわたって治めている。
「クレスウェル側からは、王太后と上王の三名が保証を」
「国主同士が、どうやって子を成したというのです。ましてや二国は海を隔てている」
弟上王は片眉を吊り上げた。
「ジェレミー、君は身分主義者だから、上位の者の発言に割って入るのは初めてではないかね」
「......非礼を働きましたこと、お許しを。ですが私は罰せられる身、これ以上罪状が増えようと構いはしません」
「無礼なのはこの際目を瞑ろう。ユーリの出自を知ることが、身分主義者の君への最大の罰となるだろうから――彼のように、国主同士がどうして子を成したのか、疑問を抱く方も多いと思いますので、説明をしたいのですが、構いませんか?」
「どうぞ」
皇帝の許可を得て、兄上王が口を開いた。
「20年前、内乱に遭い華胥國西方に逃れた陛下の船が遭難し、西の大陸に流された。折しもシェルヴィー国王の元を訪れていた王太后殿下が皇帝陛下を保護し、二人は契りを結ばれた。そしてユリアーナが生まれた。しかし、閨の記録がなく、私たちとの子でもなかったため――恥ずべきことであるが――私たちの父であるビアズリー公爵がその命を狙った。そこで、王太后殿下は華胥國にユリアーナの養育を委託し、皇帝陛下の元で、10年間、育てられた」
空白の10年の謎が明らかになり、貴族たちは目を瞠る。
「証拠として、折々の可愛い可愛い悠理の手帳を持ってきました。肖像画もありますよ、小さいものだけですが」
「あとで是非拝見させてください」
「お願いですから娘の黒歴史を掘り返すのはやめてください、お父様、父上方」
3人の父親はにっこり笑い、口をそろえて言う。
「「「いやだ」」」
「無慈悲な......!」
「あお父様、悠理が5つのときに描いた家族の集合絵持ってきたけど、それもいるかしら」
「珠喜!?」
「素晴らしい、流石は我が娘」
「ちょっと、裏切り者!」
先程の為政者の雰囲気はどこへやら、いじられている末娘は姉の手から手帳を奪おうと試みて失敗した。
「ユリアーナ。では、貴女は真実王太后の娘であり、父は大帝国の国主ということか」
「ええそうよ。あなたが父無し子と蔑み、指一本たりとも触れようとせず、下賤と呼んだわたくしの父母は、このお二方」
ジェレミーは笑った。
「なるほど、俺が愚かだったということか」
「そうね。生まれでばかり判断するあなたが、残念で仕方ないわ」
「仕方がない。生まれた時にすべては決まる」
「では平民の父を持ちながらわたくしに助力したユージンはどうなるのかしら」
ジェレミーは押し黙る。
「......例外だ」
「そう、ならば平民で出仕している者たちも例外なのでしょうね。もう10人くらいいるけれど」
「人は生まれた時の身分に応じて責任が生じる! 王妃を軽んじた罪でマーガレットを咎めるお前が何を言う!」
「生まれに応じて否応なく責任が生じる。それは正しいわ。貴族は民の上に立つ、だからこそ民に利益を還元する必要がある」
「そうだ! 序列は必要不可欠だ!」
私は序列を軽んじているのではない、と王妃は言う。
「ただ、平民生まれというだけで可能性の芽を潰す必要は無いと言っているの」
「平民は平民らしく貴族に守られていればいいのだ!」
「平民であっても誰かを守りたいと願う気持ちはあるのよ」
「守れる範囲で守ればいいだろう! 誰も貴族と同じ程度のことを平民に要求しない!」
「だからこそ試験を設けているのよ。平民も貴族も、登用試験を受けなければ官職を得られない。試験を突破した者たちは、等しく働く者よ」
「……っ、平民が試験を突破出来たのは、お前が教えを与えたからだろうが!」
「その通り。教育次第で人はどうにでもなるのよ。覚えておきなさい」
ジェレミーは目を見開いた。何かを言おうと口を開き、結局閉ざす。
「......俺が、間違っていたのか?」
「知らないわよ、自分で考えなさい。正しさとは、人によって異なるものなのだから」
ジェレミーは俯いた。その横で、蒼白になりながらもフェリックスが発言の許可を求める。
「王妃殿下。罪人に発言の許可を賜りたく」
「許しましょう」
「エーミールは私の実子ではないとはいえ、戸籍上は私の子として登録され、私に養育されました。法に従えば極刑です。しかしあの子はまだ1歳。どうか、減刑をお願いしたく」
「幼子に罪はない。許しましょう」
「ありがたく」
叩頭したフェリックスから視線を移し、王妃は一度手を叩く。
「――皆の者、これでわたくしの出生に関する疑いは晴れたと思うが、いかに」
もはや異論を唱える貴族はいなかった。異論を唱えるということは、二国の国主を敵に回すことだと理解したからだ。流石の公爵夫人も押し黙る。
「さて、本題に入る前に話に片をつけてしまいましょう。先程話に上がった仮死状態を作り出す秘薬は、華胥國皇太子より依頼されたもの。ここに証文がある」
「その薬についてはわたくしも関わっているから、証人にもなれるわよ」
「珠喜、ありがとう」
そこで唯一空気を読まずに発言したのは、夫の物理的な口封じから逃れたマーガレットである。
「アナ、いえ、王妃様は、華胥を追放されてしまったの? それでこちらに来たのね?」
時が止まった。
協力者を順繰りに見て、はて、とユリアーナは首を傾げる。
「どうしましょう。わたくし、クレスウェルの言葉が理解できなくなったかもしれません」
「安心してくれ我が義娘。正直今何を聞いたのか僕らも分からない」
「父上に分からないのなら理解不能ですね」
「だって、華胥の公主さまがクレスウェルに来る理由なんてないじゃない? あ! もしかして、男の人にちやほやされたかったのかしら。もしかしてわたし、何度も話の邪魔をしてしまった?」
「二つとも違うわ。わたくしはお母様に依頼され、クレスウェルへ来た。歪な男女観を壊す為に」
「歪な男女観?」
マーガレットは首を傾げる。
「ずっと疑問だったの。女人尊重と言いながら、女子にはまともな教育が施されず、爵位継承においては、令嬢の夫が主体となる。これでは女は女を産めと言われているようなものだわ」
「ひどいわ王妃様! みんなは女の人を尊重してくれているのに!」
「尊重、ね。尊重している人間に対し、一も二もなく合議室への入室を禁じるかしら。武芸が出来ないと断じて武具に触れることを禁止するかしら。会話がうまくないと言って、夜会での会話を控えるように命じるかしら」
「それは、王妃様を気遣ったのよ!」
「あなたとわたくしでは気遣いの定義が大幅に異なるようね。会話をするのも疲れてきたからそろそろ黙っていただけて?」
「申し訳ありません、妃殿下。眠らせることは?」
「うーん。あまり許可したくないのだけれど」
「口を手で塞ぐのも疲れるんですよ」
「あと5分! 頑張り次第で王宮の調理人派遣!」
「引き受けましょう」
食べ物に釣られて鮮やかに掌を返したウェンリーにマーガレットを任せ、王妃はトバイアスを見た。
「元第一国王。月の間の鍵の謎を、あなたはとうとう解かなかったわね」
「......はい」
「日の差さない部屋の太陽――その意味、今も分からないかしら?」
トバイアスは頭を巡らせる。
「......合議室の宝座でしょう」
「ええ。ユージンが諦めてあなたに提示した答え。その過程を、理解出来て?」
「......女のいない部屋の太陽」
「そう。合議室は国の中枢よ。宝座が用意されているにも関わらず、王妃は立ち入ることができない部屋。滑稽よね。無用のまま、空のまま、飾られている椅子は」
「だがっ.......それは、おま、妃殿下が教育を受けていないと思っていたからで」
「いいえ。歴代王妃、ただのひとりも、合議室に入ったことはないわ」
「!」
「あまりにも権限がない。最高位と仰がれながら、その意見は悉く無視される。そんな王妃の位に、一体何の意味があるのかしら?」
誰も答えなかった。
「それゆえに、わたくしは女に権限を与えることを、女に教育を与えることを――男と女を対等に扱うことを望みます。手始めに、わたくし、ユリアーナ・ウィステリア・クレスウェルは、ひと月後、王妃の位を退位し、女王として即位します。同時に、男児の継承権を認めます。各家は子息の才能に見合った爵位継承をなさい」
ざわり、と場が騒めく。
「私はこの国のあり方を歪だと思う。男は女の機嫌を取りながらも実権を与えずただ鑑賞物のように愛でるだけ。それは、尊重なのかしら」
王妃は目を伏せる。
「――わたくしは10年、華胥で育った。それがゆえの思考だと、理解している。それでも、どうか、自らを貶めないでほしい。学識のない、品性のない振る舞いは己の価値を落とす。男も女も、互いに対等だと認め合ってほしい。人数差ゆえ仕方ないと、そう言われるかもしれない。だが、人数差は、学識に差をつける理由になろうか。権利に、意欲に、差をつける理由になろうか。閉じ込められる、理由になろうか。わたくしはそうは思わない。たとえ1対1でなくとも、愛を感じられる関係であってほしい。話すことから始めてほしい。互いを認め合える、そんな関係になってほしい。自らを統べる者は、自らであってほしい――そう、願っている」
静まり返った広間を見て、王妃は微笑む。視界の端でとらえたマーガレットは、ただ目を丸くしていた。
「今日はわたくしの王宮帰還のためにお集りいただきありがとう。気をつけて帰るように」
王妃が踵を返す。付き従って、ユージンとノア、上王一家と皇帝一家、教皇と司祭が出ていき、罪人たちは、反対側の扉から連れられて行く。
貴族たちは沈黙に取り残され、長い間、動くことができなかった。




