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高遠 誠一郎⑤

「いらっしゃーい」


 いつもよりワンオクターブ高い声で妻が出迎えてくれた。リビングからは出汁の効いた良い香りが漂ってくる。


「園部七海と申します、突然申し訳ありません、本当に」


「あら、いいのよぉ気にしなくて。この人が同僚の先生連れてくるなんて初めてなんだから、見た目が根暗でしょ? 友達がいないのよぉ。だからありがとうねー」


 あ、怒っている。彼女が思ったより美人だからか、はたまた急に客人を家に招いたからか。すると耳元で妻が囁いた。


「突然言われても困るわよ、急いでスーパー行ったんだからね」


 ゲシゲシと膝で太ももを蹴ってくる。どうやら後者だったようだ。そりゃそうか。


「悪い、彼女思いつめちゃってさ。俺の手には負えなくて」


「ふーん、まあいいわ。貸しね」


 何をねだられるか考えただけで恐ろしいが今はそれどころじゃない。自分の部屋でスーツを脱いで部屋着に着替えてからリビングに向かった。持ち家ではなく賃貸のマンションだ。今の所マイホームの購入予定は無い。


「げ、鍋かよ」


 夏真っ盛りとは言わないが、近年は六月の末にもなればかなり暑い。


「みんなで食事って言ったら鍋でしょ、ねー七海さん?」


「あ、はい。大好きです鍋」


 園部先生は大きく頷いた。すでにコップに瓶ビールが注がれている。


「パパ、文句あるなら食べなくていいよ」


 蔑んだ目で玲菜が言った。娘は外出先や他人がいるとなぜか私に冷たくなる。ツンデレみたいで可愛かった。


「ごめんごめん、食べるよ。食べさせてください」


 女三人に男一人。まさに四面楚歌の様相を呈してきたが、何とか家長席に腰を下ろした。すぐさま園部先生が瓶ビールを傾けてくる。


「おっとすまない。こんな若くて美人にお酌してもらえるなんて光栄だなぁ」


「いえ、そんな」


「じじくっさ」


「パパキモい」


 あまり喋らない方が良さそうだ。とりあえず一気にビールを煽るとキンキンに冷えた液体が喉を通過していく。この一口目は最高に美味い。しかしあまり酒に強い方じゃないのでペースは気をつけねば、因みに妻は酒豪である。


「おいしーい」


 このクソ暑いのに鍋、しかもキムチ鍋を食べて園部先生は目を見開いた。


「でしょー。出汁からとってるのよ」


 妻が誇らしげに胸を張る。

「えー。レシピ教えてほしー」


「玲菜がつみれ作ったんだよ」


 娘がオタマでつみれを掬って園部先生の取り皿に入れた。


「やばっ! うまっ。なにこれ?」


「蓮根入ってるの」


「すごーい玲菜ちゃん、て言うか可愛いぃ」


 園部先生が娘の頭を撫でると妻とまったく同じように胸を張った。それにしてもやっと彼女の笑顔が見れてホッとした。やはり太陽のような笑顔がよく似合う、周りを明るくさせる不思議な女の子だ。どうやら我が家に招待したのは正解だったようだ。


 誰も見ていないが、付けっぱなしになっていたテレビがニュースに切り替わる。角度的に私からは見えるが園部先生は背を向けているので僅かな音しか聞こえないであろう。しかし、私は立ち上がり何気ない仕草でリモコンを取るとテレビを消した。


「あ、これから月九始まるのにー」


 玲菜が頬を膨らませたがさほど興味はないだろう。男女七人が夏の海で恋愛するドラマが、小学三年生に向けて作られているとは思えない。


「大丈夫だよ、ビデオしてるから」


 妻が答える。もちろん今どきビデオデッキなど売られていないが、我が家ではブルーレイの事もビデオと呼んでいる。理由はない、習慣だ。


 すると目の前で鍋から豆腐を掬おうとしていた園部先生の動きがピタリと止まった。おたまを戻して姿勢を正す。しまった、不自然な行動で事件の事を思い出させてしまったのだろうか、と顔を上げると彼女は真っ直ぐに私を直視していた。その目には強い意志が宿っていて思わず後退りしそうになる。


「高遠先生」


「はい」


 私は返事をしながら妻に目配せした。察した彼女は玲菜にそろそろ寝ようかと促す。こんな時に「やだやだ!」と地団駄踏むタイプの子供ではない事は分かっている。「ちぇー」と多少の不満を漏らしながらも「七海ちゃんまた来てね」と言って歯を磨きに洗面所に向かった。いい子だ、すべて妻の教育の賜物であろう。私は何もしていない。


「先生は今回のような事は初めてでしょうか?」


 今回のような事。自殺未遂の事だろう。


「いえ、教師生活も十八年目に入りますが初めてです、正直面食らっていますよ」


「そう……ですか」


「園部先生、あまり気になさらずに」


 何の慰めにもならない浅いセリフしか出てこない自分が情けない。しかし事実、私にもどう対応して良いのか分からないのだ。


「彼女は、丸野さんはどうなるんですか?」


 そう、彼女は生きている。足の骨折と言っていたから復帰するのに然程時間は要さないだろう、が。事故で骨折した訳ではない。自殺未遂なのだ、交通事故のような偶発的なものではない。彼女自らが死を選んだのだ、まだ小学五年生の丸野愛子が。


「文部科学省のマニュアルに私たちは従うしかありません、どのみち直ぐに復学と言うわけにはいかないでしょうから」


 園部先生は目を伏せた。そしてボソリと呟いた。


「犯人は……どうなりますか?」


 小さな声色の中に彼女の怒りが滲んでいる事が分かった。犯人と言う言い回し一つ取ってもそれは伺える。つまり、彼女は丸野愛子の自殺理由が虐めの類だと確信していて、その当事者はどうするのだと問うているのだ。


「犯人とは、些か物騒ですね」


 箸を置いて彼女を見つめた。伏せた目を見開いて私の事を見返してくる。


「なあなあにしますか?」


「とんでもない、自殺の理由については丸野さんとしっかり話し合いが行われるでしょう。もしも虐めがあった事実が発覚すればキチンと対応する事になりますよ」


 丸野愛子からの証言もないうちに犯人探しなど始めようものならば、すぐに保護者がすっ飛んでくるだろう。私の娘を犯人扱いするのか? 人権侵害だ、名誉毀損だ、教育委員会に訴えてやる。考えただけで頭が痛い。


 しかし、園部先生は納得がいかないのかまた下を向いてしまった。


「なーに悠長なこと言ってるのよ」


 リビングに戻ってきた妻が言った。そのままキッチンに向かい台所の下から赤ワインを取り出す。ワイングラスを二脚、右手にぶら下げて私の横に座った。


「はい、ワイン飲める?」


 妻が園部先生にワイングラスを手渡すと「はい」と答えた。無理やり作った笑顔が張り付いている。


「なんだよ、悠長って」


 私は少し憮然としながら妻に抗議した。


「教育委員会だの上の指示だの待ってても保身と隠蔽しかないわよ。その間に犯人達は証拠を隠滅、涼しい顔して今まで通りの日常に溶け込んでいきましたとさ、ちゃんちゃん」


 妻は鼻を鳴らしてワイングラスを掲げた。園部先生のそれとぶつかり「チン」と間の抜けた音が鳴る。まるで試合開始の合図のように。


「ですよね! 私もそう思います」


 園部先生が身を乗り出してくると、顎先で揃えた黒のボブカットが目の前で揺れた。


「いや、でもイジメによる自殺と決まったわけじゃないでしょう」

「じゃあなんなのよ?」

「いや、家庭の問題とかさ」


 現実に小中学生の自殺理由として多いのは学業不振と家庭問題が大きなウエイトを占めている。意外にも虐めはそこまで多くない。妻もそれは知っているはずだ。


「でも七海ちゃんは何か察したんでしょ?」


 ワインボトルを傾けて園部先生のグラスに注いだ、彼女はジッとその赤い液体を見つめながら答えた。


「はい……」


「え、ちょ、ちょっと待ってよ。園部先生は丸野愛子が虐められていた事を知ってたの?」


「いえ、見たり聞いたりした訳じゃないんです」


「だったら――」


「勘です!」


 私は軽く眩暈がした。メガネを外して目頭をギュッと揉みしだく。メガネを掛け直して一息ついた。


「あのねえ、勘で犯人探しを始めたら警察官は何人いても足りないよ」


「そうですけど……」


 意気消沈する彼女にすぐ援軍が入る。


「あなた何言ってるの? 疑わしきは罰せよでしょ」


 頼むから余計なことを言わないでくれ。


「ねえ七海ちゃん、目星は付いてるの?」


 妻が彼女の顔を覗き込むとハッキリとこう言った。


「はい!」


「おっけ、じゃああなた。全面的に七海ちゃんに協力して真犯人を見つけ出すのよ! わかったわね」

「いや、ちょ、勝手にそんな」


「嫌なら離婚! こんなか弱い女の子の味方にもなれない男なんてゴメンだわ」


「そ、そんなぁ」


 なんとも間抜けな声を出すと園部先生はクスクスと笑っていた。その笑顔をみて、まあいっかと思えてしまうのが彼女の魅力なのである。かくして私たち二人の丸野愛子自殺未遂事件の犯人捜索は秘密裏に始まった。

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