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園部陸人③

「ただいまぁ!」


 一階のリビングに顔を出すが誰もいなかった、帰ってくる時間がみんなバラバラな、すみれ荘の住人。夜ご飯はみんな自由に摂っていた。とはいえ誰もいないのは珍しい。


 弥太郎との相部屋で制服からジャージに着替えてバットケースを左肩に下げた。階段を降りて玄関でスニーカーを履いて外に出る。薄暗い街灯の灯り、夜空を見上げるが星はまったく見えなかった。


 道路でバットを振り回すわけにもいかないので、近くの駐車場まで自転車で移動する。テニスコートほどの広さがあるその場所に、車は二台しか停まっていなかった。見通しもよく素振りには丁度いい。


 スマートフォンを動画モードにしてから自転車の荷台に立て掛ける、バランスが難しくてなかなか安定しない。ようやく満足する位置に固定すると全身が画角に入るように自らが動いて調整する。準備完了。


 あとはひたすらバットを振る。何度も、何度も。豆が潰れても、ずっと。百スイング終えた所でスマートフォンの動画をチェックする。キチンとしたフォームで振れているか確認するためだ。


「うーん、なんか違うんだよなぁ」


 誰もいないのを良いことに派手に独り言を呟いた。しかし、漠然としっくりこないだけで原因が分からない。

 

『右肩の開きが早い』


 背後から急に声を掛けられて身体ごと振り向いた。


「え?」


 そこには汚れたハイエースが駐車しているだけで誰もいない。俺は恐る恐る車に近づいた。そっと運転席を覗き見る。やはり誰もいない。


「え、なに? こわっ!」


 声に出すことで恐怖を和らげようと試みた。しかし、思ったよりも自分が落ち着いていることに気がつく。あまり怖くなかった。不思議と。


 素振りを再開する、得体の知れないアドバイスを実行してみると、今までよりも力強くスイング出来ているような感触がある。そのまま百本を終えて再びスマートフォンをチェックした。


「うん」


 全然違う、右肩を意識するだけでこんなに変わるものかと感心する。そのまま千本、休まずに素振りを終えた。すっかり汗だくになりバットをケースにしまおうとして手が止まった。


「あれ、千本だっけ?」


 頭が混乱した、雨が降ろうが熱が出ようが毎日続けているはずの素振り。その回数を忘れるとは。狼狽しながらも過去の記憶を辿る。

 

 私は毎日二千本――。


 不意に雷で撃たれたような衝撃がはしった。一瞬で脳が覚醒して過去の記憶が断片的にフラッシュバックする。同時に心臓の鼓動が一気に加速していった。


 片田舎にある平屋の一軒家、広い庭、空を見上げると都会では考えられない量の星が瞬いている。その下で素振りをする俺、それを縁側で眺める女性。記憶の最深部に沈殿している情報を慎重に掬い取っていく。

 

『バリーボンズこそ最高のバッターよ』


 そう言って俺の部屋に勝手に貼られた馬鹿でかいポスター、朝ごはんを作る華奢な背中、その体格からは想像出来ない鋭いスイング。記憶の中でその女性が振り返って笑顔で言った。

 

『こら陸、ちゃんと黄身も食べなさい』


 同時に涙が右の頬を伝っていった。


「ヒロ……。姉ちゃん……」

 

 園部 七海(ななみ)――。


 お姉ちゃんと呼ぶのが、なんとなく恥ずかしくなった小三の頃、俺は勝手に渾名(あだな)を付けた。


「七つの海ってめっちゃ広いじゃん、もうヒロで良くね?」

「良くねえわ」


 そう言いながら笑ったヒロは満更でもなさそうだった。そこまで思い出したところでゾッと寒気がした。梅雨明け前のじっとりとした、蒸し暑い空気の中で血の気が引いていくのが分かる。


 俺はバットをその場に投げ出して自転車に股がった。そのはずみで固定してたスマートフォンが地面に落ちる。それさえも無視してペダルを漕いだ。


 何かがおかしい――。


 そんな曖昧な不安が纏わりついて離れない。すみれ荘につくと、自転車を乗り捨てて玄関の扉を勢いよくを開いた。


「ヒロ!」


 大声で叫ぶとあやちゃんが顔を出した。


「あら、陸人おかえり」


 その声を無視して靴を脱ぐと階段を駆け上がった。ヒロとあやちゃんが使っている部屋の扉を思い切り開けた。


「こら、陸。ノックくらいしなさい」


 そう言って眉間に皺を寄せるヒロ――。


 はいなかった。シングルベッドに小さなデスク、その上にはパソコンモニタとキーボードが置かれている。あやちゃんが使っているやつだ。それ以外には何もない。明らかに一人で使っている部屋が目の前に展開して頭がパニックに陥る。


「ちょっと陸人どうしたのよ?」


 パタパタと階段を上がってきたあやちゃんが訝しげな表情で話しかけてきた。俺は彼女の両腕を掴んで訴えるように言った。


「ヒロは?」


 涙がこぼれ落ちそうなのを必死に堪えてあやちゃんに聞いた。


「ヒロ……。誰それ」


 あやちゃんはポカンとした表情のまま俺を見つめ返した。そんな馬鹿な。俺はあやちゃんの横を通り過ぎて部屋を出た、そのまま自分の部屋に入ると弥太郎がベッドで漫画を読んでいた。


「弥太郎!」


 大声で叫ぶと弥太郎はビクッとして、手に持っていたドーナツを落とした。


「なんだよ陸人、びっくりす――」


「ヒロは? お前は覚えてるよな?」


 掴みかかりながら弥太郎に訴えた。頼む、一番最初にすみれ荘に来たお前なら覚えてるだろ。そんな祈りにも似た訴えにも、弥太郎はキョトンとするだけだった。


「なに言ってんだよ、誰だよヒロって」

「てめー! ふざけんなよ」


 俺は弥太郎の胸ぐらを掴んで激しく振った、頭を壁にぶつけているがそれでも構わず力任せに。


「ちょ、痛った」

「お前が路頭に迷ってる時に助けたのは誰だよ! すみれ荘に呼んだのは! 毎日欠かさず朝飯作ってたのは誰だよ」

「え? 路頭に、あれ? 俺……なんで……」


 掴んでた手を離すと弥太郎は頭に手を当てて何かを考えている。その表情があまりにも真剣で俺はしばらくそのまま様子を伺った。


「そーいやあ園部先生どこ行った? 今朝はいなかったよな?」


「弥太郎!」


 俺は弥太郎に思いきり抱きついた。こんなにこのデブが頼りになると思ったことはない。溢れ出しそうな涙を堪えて弥太郎から離れると突然、目の前の空間がグニャリと歪んだ。


 涙のせいかと思って片手で拭い、目をパチパチさせてしっかりと前を見る。弥太郎の顔がもはや何だか分からないほどボヤけたかと思うと、俺はそのまま気絶するように意識を失った。

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