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田村弥太郎⑨

 翌日、僕は寝坊した。昨夜は興奮で中々寝付けなかったのが原因だと思う。人生初のチャレンジ、その成功に後藤くんたちは大いに喜んでくれた。何よりも自分が大人になったような気がして誇らしかった。クラスの何人がこの体験をしたのだろう、出来ればもっとたくさんの人と、この偉業を讃えあいたかった。


 横ではお母さんがすうすうと寝息を立てて寝ている、朝方に帰ってきたのだろう、穏やかな寝顔だった。今更急いでも間に合わないから開き直ってゆっくりと朝食を食べると、何だか余裕のある大人みたいだ。鏡に映る顔にも自信が満ち溢れている。


 お母さんを起こさないように気を使いながら家を出ると、雲一つない青空と初夏の日差しが僕を照らす。今日から僕は生まれ変わる。そんな決意を歓迎してくれているみたいで足取りも軽い。校門はすでに閉まっていたから横の扉から学校に侵入した。時計を見るといつもより三十分は遅い、すでに一時間目が始まっているのだろう、校内はシンと静まり返っていた。


 ところが六年生の教室がある三階に差し掛かると、ザワザワとした喧騒が聞こえてきた。気のせいだろうか、泣き声のようなものまで混ざっている。ただならぬ空気に緊張感が走る。六年一組、僕は手前の教室の後方にある扉に手を掛けた所でピタリと静止した。

 

「先生、わたし田村くんの隣はもう無理です」

「俺だってやだよ気持ちわりー」

「警察に通報してください」

「いや、警察ってお前たちなぁ――」


 その場で固まって動けなくなった、心拍数が一気に上がる。心臓の音が聞こえる。頭が混乱した。


「先生だって、あの動画見たらドン引きするよ」

「本当に気持ち悪い、無理」

「瑠璃菜が可哀想」

「いや、だからその動画を先生に見せてくれよ」

「激ヤバ小学生で検索すれば出てくるよ、田村の動画は再生数えぐいよ」

「そんなやばい動画なのか?」

「だーかーらー、田村が二組の橋本をオカズにしてシコってる動画なんだって」


 鎌田くんの声だ、僕の心臓は短距離走をした後のようにバクバクと波打っていて、今にも体を突き破り出てきそうな勢いだった。


「でも。いったい誰がそんな動画を?」

「分からないよ先生、それに問題はそこじゃないだろ」

「しかしだな、それは生理現象だからだなあ」

「瑠璃菜はどうなるのよ! 瑠璃菜が可哀想……」


 女子の甲高い叫び声と咽び泣く嗚咽が教室内から聞こえてきて思わず身がすくむ。この騒ぎの原因が自分の行為のせいだと理解すると血の気が引いてきた。でも動画? 何のことだかさっぱり分からない。


「とにかくそんな動画はすぐに削除してもらってだなあ」

「誰にですか?」

「誰って、そのサイトの管理者に……」

「それが分かったら苦労しないよ、何しろ色々な小学校の激ヤバ動画を集めた鬼畜サイトだからね。俺が作りましたなんて名乗りをあげる奴いないっしょ」


 後藤くんの声だ。僕はその場から一歩も動けずに固まっていると教室の扉が開く音がした。ビクッと体が反応して音の先を見る。開いたのは僕の教室ではなく隣のクラスの前方の扉だった。そして園部先生が出てきて僕と視線が交差する。すぐに先生は扉を閉めるとコチラに駆け寄ってきた。


「弥太郎くん、大丈夫?」

 先生は声をひそめて質問してきたけど、何が大丈夫? なのか分からずに曖昧に首を縦に振った。

「ちょっとごめんね」

 先生が僕の後ろに回り込みなぜかランドセルを開いた、ゴソゴソと何かをした後に閉じる時、「私に任せておいて」と、それだけ言って小走りで去って行った。授業中にも関わらず。


「とにかく、ちょっと対策を考えるから自習していてくれ、分かったな、騒ぐんじゃないぞ、あと教室を出るなよ」

「イェーイ!」

「ラッキー!」

「先生、瑠璃菜と話させてください!」

「だから騒ぐなって、橋本は今保健室だから話せないよ、とにかく静かにな」


 教室前方の扉がガラガラと開かれた、ダンゴムシのように固まったまま動かない僕と、菅谷先生の目が合った。先生は害虫を見つけた時のような、嫌悪感たっぷりの表情を一瞬見せた後に無理やり笑顔を作った。園部先生と同じように小走りで駆け寄ってくる。


「田村、こっちに来なさい、今教室に入ったら大変だ」

 先生はそう言って僕の手を引いて、職員室のある一階に向かった。階段を下りながら「ったくめんどくせぇな」と舌打ちしたのが聞こえて息苦しくなる。職員室には教頭先生の他に誰もいなかった、菅谷先生は忙しなくスマートフォンを操作しながら自分の席に座った。僕はその前にただ立ち尽くした。


「どうかされましたか?」

 教頭先生が立ち上がり、遠慮がちに聞いてきたのを菅谷先生は「ちょっと田村がトラブルを起こしまして」と、スマートフォンを操作しながら答えた。それを怪訝そうな表情で聞いた後に再び席についた。


「あ、これか!」

 そう呟いて菅谷先生はスマートフォンを横にした、動画を見る時にそうするように。僕からは画面は見えない、ただ先生の表情がみるみる青ざめて行くのが分かって不安を煽る。


「田村……これ、お前か?」

 先生は目を見開いたままスマートフォンを僕に渡してきた、それを受け取り僕は動画を確認する。


 そこに映っているのは間違いなく昨日の僕だった。下半身を丸出しにして、性器を上下にしごいている。恍惚に彩られた表情が、モザイクのかかった背景にヤケにマッチしていた。真正面から撮影された動画の画角が切り替わる。斜め後方からの画角には、僕が激しく肩を揺する後ろ姿越しにテレビがあって、もちろんそこには橋本さんが映し出されていた。僕とテレビ以外の部分は濃いモザイクがかけられていて、そのコントラストでより一層クッキリと僕と橋本さんが浮かび上がっていた。


 どうして? 世界が静止したように静かな場所で最初に浮かんできた疑問だった。なんでこんな動画が残っているのか、それがネット上にアップされているのか。当然それは後藤くんたちの仕業に他ならないのだけれど、その真実に向き合えずに、誰か第三者があの部屋に隠しカメラを設置していて後藤くんも預かり知らない内にアップロードされてしまったのではないか。そんな希望的観測が頭の中を駆け巡っていた。


「田村、その動画はなんなんだ?」

 うんざりした表情で菅谷先生は聞いてきた。


 その動画はなんなんだ?


 知らない、僕は何も知らない。


「いや、その行為自体は別にな、良いんだよ、でも橋本が……まずいだろう」


「あ、はあ……」


 なんて答えて良いか分からない、動画に映っているのは間違いなく僕と橋本さんで、僕は橋本さんをオカズにオナニーをしている。紛れもない事実を突きつけられて僕は何て答えたら正解なのだろうか。誰か教えてほしい。


「自分であげたのか?」


「いえ、違います」


 先生、こんな動画を自分であげる人間がいますか? そんな疑問も頭の中でぐるぐるするだけで言葉にはならない。ただ、僕はどうなってしまうのだろう。インターネットに流されたって事は、世界中の人が僕の卑劣な行為を見る事になる。いや、実のところそれはどうでも良かった。それよりもこんなものをクラスメイトや先生、お母さんに見られたら僕は生きていけないだろう。

 僕にとって見知らぬ何億人よりも、この小さなコミュニティに見られてしまう事の方よほど重要だった。


「じゃあ誰なんだよ?」

 頭を掻きむしりながら僕を睨み付けた。


「えっと、後藤くん……かな?」

「後藤? 翔がどうしてそんな事するんだよ」


 どうして? それは僕が聞きたい。黙っていると先生はイライラしてきたのか足を揺すりだした。タバコを一本引き抜いてテーブルにトントン叩きつけている。


「消せないのか?」


 この動画を、と理解して僕は首を横に振る。すると「バァン!」とテーブルを強く叩いて先生が怒鳴りつけてきた。


「こんなもんが拡散したら大変だろ!」


 いや、だから僕は知りませんて。

 なぜかこの段になると、やけに冷静に周りが見えるようになった。なぜだろうか、おそらく全てを悟ったからだろう。スットロイ僕でもさすがに気がつく。

 

 後藤くんたちは僕を嵌める為に近づいてきたのだと――。


 そして、それはあまりにも当然のような、僕に相応しいような、そんなふうにスッと自分自身に落とし込めた。


「僕に言われても知りませんよ」


 どうでも良かった、もうどうなっても構わない。底辺だった立ち位置がさらに低くなった所で、何が変わるというのか。投げやりに答えた後に左頬が熱くなった。平手打ちされたのだと気がつくのに数秒かかる。


「恥ずかしくないのか!」


「ちょ、菅谷先生!」

 教頭先生が立ち上がり、何か言っているけど僕の耳には入ってこない。ただ、どうでも良かった。何もかもがどうでも良くて、もう死んでもいいや。そんな想いがムクムクと膨らんでいった。

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