第1話 シン・スカイウォーカー
最初に見えたのは透き通るような青さを湛えた空だった。
心を透かすかのような優しい青い天蓋に、斑のようにポツポツと小さな雲が浮かび、ゆっくりと流れている。心地の良い風が地面を覆い尽くした草葉を鳴らし、そっと自分の顔を撫でる。鼻孔をくすぐる微かに甘い匂いは、雑草に紛れて咲いている白い花の香だろうか。すぐ近くに川もあるのだろう、水の流れる音も聞こえてくる。風の音色と水のせせらぎの合唱。大自然の奏でる演奏は人間の生み出すどんな音楽よりも心を安らげてくれる。そこへさらに、甲高い鳴き声が加わった。遠くの方で鳥の群れが空を舞っているのが見える。遠すぎて種類はわからないが、10羽ほどが同じ方向へ飛んでいく。
その向こう側には地面から屹立するものがいくつも見受けられる。緑の葉に覆い尽くされた樹木だ。森のように群れているのではなく、平坦な大地にポツポツと点在するようにそびえ立っていた。
そしてさらに向こう――全ての動植物を俯瞰するが如き圧倒的な威容を誇る巨大な山が見える。緑に覆われた優しい山などではなく、切り立った岩肌を真っ白な雪で覆われた、一切の生命の侵入を拒む高峰。どう見ても数千メートル級の山で、山頂は雲に覆われて見えない。
あれ? オレなんでこんなとこで寝てんだっけ……?
どう見ても自宅じゃない。ってか家の中ですらない見慣れない光景にオレは困惑し、寝ぼけた頭で記憶を探ってみた。
最後に覚えているのは、身体の感覚がなくなり、意識が薄れていく浮遊感にも似た奇妙な感覚で……
そこでようやく思い出した。
そうだった! オレは癌に蝕まれ、自宅のベッドの上で1人寂しく臨終のときを待っていたはずだ。なのに、気づいたらこんな自然あふれる場所で寝ていた。
つまりそういうことなのだろう、と理解する。
オレは死んでしまったのだ。
そしてここはあの世――天国だ。
……天国って案外普通の場所なんだな。雲の上の楽園みたいな場所をイメージしてたんだけど。
身体を起こしてみると、ビックリするくらい普通に動いた。最期の方は癌による苦痛や倦怠感でまともに動くことも出来なかったはずなのに、健常であった頃と同じくらい普通に動かせる。痛みや怠さなんかもまったく感じない。
身体が動く。たったそれだけで涙が出そうになった。
にしても太陽が眩しいな。日光を遮ろうと手を現前に翳したた時、オレは異変に気付いた。
オレの腕ってこんなに太かったっけ? プログラマーという職業のイメージ通り、生前のオレの体格は所謂ヒョロガリだった。そもそもまともに運動すらしたことなかったし。おまけに癌でまともに物を食べられなかった最後の方は、ほとんど骨と皮だけになっていた。
なのに、いまオレの腕はまるで鍛えられたボクサーみたいにがっしりとした筋肉質なものになっている。おまけに何故かフィンガーレスグローブまで嵌めていた。
ってかちょっと待て。これ見覚えあるぞ!? いや見覚えなんてレベルじゃない。オレが自分でデザインした『シン・ジークフリート』の装備アイテム、《ヴリトラのグローブ》だ!
弾かれたように身を起こしたオレは、いま自分が纏っている衣服――装備品を見て愕然とした。
爪先から膝上までを覆う黒い金属製のブーツは《天翔神靴》。
黒の下地に純白の金属の縫い込まれたSFチックなコートとズボンは《ウィガール》。
よく見れば腰には黒い長剣をぶら下げている。メカメカしいギミックの施された、それでいて身震いするような圧倒的存在感を放つ漆黒の剣の名は《リンドヴルム》。
どれもこれも、オレがデザインして実装させた『シン・ジークフリート』の武器と防具――主人公シンの最強武器と防具だ。
「おいおいおい」
まさかと思い、オレは近くにあった川へと駆け足で向かい、水面を覗き込んでみた。
そこに写っていたのは見慣れた自分の顔ではなかった。
記憶にあるオレの顔は抗がん剤の副作用せいで髪は抜け落ち、食欲不振で瘦せこけたミイラじみた不気味な顔だったはず。だが水面に写っているのはそれとはかけ離れた、生気溢れる15、6歳の少年の顔だった。銀色の髪にどこか中性じみた丸みのある顔立ち。それでいてまるでネコ科の猛獣を思わせる獰猛な生命力を宿した赤い瞳。
「ウソだろ……」
オレの言葉に合わせて水面に写った少年の口が動く。
間違いない。間違えるはずがない。
オレが拙い筆先で何度も何度も描き、PCに取り込み、《アレサ》のサポートを得て何日も掛けてグラフィックでデザインした、『シン・ジークフリート』の主人公。もう1人の自分ともいえる存在――
シン・スカイウォーカーの顔が、そこにあった。
「なんだ……なにがどうなってるんだ?」
訳が判らなかった。
オレは死んだんじゃなかったのか? ここはあの世じゃないのか? それとも夢を見てるのか? 試しに頬を抓ってみたが普通に痛いだけだった。
ちょっと意味が判らない。癌で死んだはずのオレが、なんでシン・スカイウォーカーになって生きてんの?
いや待てよ。シン・スカイウォーカーになってるってことは、ひょっとして魔法やスキルなんかも使えたりするかも。
徐に少し離れた地面に手を翳して――
「【力弾】」
その瞬間、自分の掌の先に光る魔法陣のようなものが浮かんだと同時に、目に見えないなにかが発射されたのを感じた。一瞬後、大音響とともに川の中心部で、魚雷でも爆発したかのような巨大な水柱が、3階建ての建物くらいの高さまで舞い上がる。水飛沫が頭上から雨のように降り掛かってきたが、当のオレは瞬きさえ忘れて呆然とその光景を眺めるしかなかった。
「……ナニコレ?」
いやほんとなにこれ?
【力弾】は無属性の攻撃魔法で、半物質化した魔力の塊を相手にぶつけてダメージを与えるというものだ。一応初級魔法のはずだが、どう見てもそうは思えない。
なに、このメラ〇ーマだと思ったらメ〇だった的な威力は?
今度は腰に下げた剣を抜いてみる。
《リンドヴルム》。『シン・ジークフリート』における最強の武器。
一応、剣の形状をしているが、実はそうではない。
『シン・ジークフリート』のキャラクターは、主人公であるシンを始め、その全員に「職業」を設定してある。大きく分けて「剣士系」、「格闘系」、「戦士系」、「魔導士系」、「僧侶系」、「銃士系」、「特殊系」の6つがあり、主人公シンはゲームスタート時にその中から1つを選択しなければならない。それによって使用する武器や習得するスキルが変化する。そしてある程度の戦闘を経て経験値が溜まるとクラスアップし、上級職から次の職業を選択しなければならない。例えば初級職である「剣士」がクラスアップすると「ナイト」、「魔法剣士」のどちらかにクラスアップ出来る。そしてこのクラスアップは4回――クラス5まで可能になっている。
つまりシンは選択する職業やクラスによってメインウェポンが変わるということだ。シン専用の最強武器である《リンドヴルム》はシンの職業、クラスによってその形状を変化させる性能がある。剣士系であれば剣に、魔導士系であれば杖になる。どの職業、クラスを選択しても最強武器は《リンドヴルム》なのだ。
恐る恐るオレは《リンドヴルム》を構えた。ゲーム中でシンが敵と戦う際の構えだ。
まるでそれが当然であるかのように身体は自然と動き、それを再現して見せた。大きく息を息を吸い込み、吐くと同時にオレは剣を奔らせた。
風を裂くかのような鋭い斬閃――前進しつつ斜め上からの袈裟懸けから入る、連続八回斬りの基本モーション。
普通の人間が重さ2~3kgある剣を連続で八回も振るえば必ず息が上がる。だが、初撃からフィニッシュまでを終えた時、オレはまったく息も上がっていなければ腕の痺れすら感じていなかった。
まるで何回も、何年も繰り返していたかのように身体が自然と動き、オレがPC画面と睨み合いながら何度も設定とやり直しの試行錯誤を繰り返した末に完成した斬撃フォームを完璧に再現していた。
末期癌に蝕まれ、最後はベッドから起き上がることも出来なくなっていた身体が、動いた。
視界が歪み、頬を熱いものが流れ落ちている感触を覚えて、オレはようやく自分が涙を流していることに気付いた。
オレになにが起こったのか、さっぱり判らない。
ここはどこなのか。自分になにが起こったのか。
だがもし、これが夢や幻ではなく現実なのだとしたら、オレはシン・スカイウォーカーとしてゲームの世界に迷い込んだということか?
それとも、いわゆる「異世界転生」「異世界召喚」というやつか? かつて子供の頃、父親の暴力に脅えていた頃、ひと時の癒しを求めて何度も何度も読み、憧れた出来事が、オレにも起こったということか?
それが事実だとしたら……異世界にシン・スカイウォーカーとして転生したのだとすれば……
まさにオレが今際で望んでいた、最後の願いそのものだ。
父親に散々殴られたオレが、親父にもぶたれたことのない主人公と同じセリフを吐くのは複雑だが、叫ばずにはいれれない。
「こんなに嬉しいことはない!」
かつて自分が作ったゲームを評価してもらえた時と同じくらい、或いはそれ以上の爆発的な喜びが身体の奥底から湧き上がってきた。
もしかしたら、これはただの夢なのかもしれない。
人が死ぬ間際に見る走馬灯というもので、臨終寸前のオレの脳が見せている一瞬の幻想なのかもしれない。
けどこの際、なんでもいい。
夢だろうが幻だろうが、それが晴れるまで、オレは今度こそ精一杯この世界で生きてやろう。
そして今度こそ悔いのない人生を送ってやろう。
命が燃え尽きるその時まで、全身全霊で駆け抜けてやろう!
オレ――シン・スカイウォーカーの異世界人生はこうして始まったのだった。