幻想日月神示について
幻想というものを描いた一作。
ひふみふで。
ひふみふでとは、神による、予言の書。視るべき未来を来るべき先の事を知らせるふでの事である。いわば、人間にとって、大事な事を告げ知らせる事がひふみふでの目的と言えよう。
いわば、人間のあり方について、ふででは述べている。
「フニャフニャ腰がコンニャク腰になって、どうにもこうにもならんことになるぞ。その時、このふで心棒にいれてくれよ。百人に一人ぐらいは何とか役に立つぞ。あとはコンニャクのお化けだぞ。」
いわば、神がさしているにも関わらず、その様な醜態をさらして、生きている事を知っておくべきである。いわば、神は何でも知っているが、”どうにもこうにもならん”と言われている事から、知ってはいても、”どうにもこうにもならん”と言われているのだから、人間個人の問題として、個人のレベルで、役に立たん人間ばかりに成る事が予言されている。
個人のレベルというのは、個人的に計る事が出来る指標に基づいてである。
偉そうに言ってはいても、私自身も役に立つかどうかすら分からないのだから、いわば、論語読みの論語知らずと成っているかも知れないのだ。
しかし、本を読まないという点で、ある意味において、学に通じていない。いわば、語学を学として学んでいないという点で、優位にあるのは、知っている。学がなければ、本は読めない。学に通じていなければ、本は読めない。また、学を学んでいなければ、本は読めない。
学尽くしなのだ。中途半端な学がない事がいわば、いい事なのだ。学をもって、しか、物事を視れないという”コンニャク腰”ではないのはいいにしても、ひふみふででは、こう言われている。「皆、神がさしているのだ。」
という事は、学を学ぶのも神がさしている事であり、まず、幻想すらも神がさしている事の筆頭なのである。学力は、学力、神力は神力として、幻想の神は存在される。いわば、幻想ありきの存在であられるので、幻想に「せよ。」と命じれば、それはその通りに成り、神かかるのも結局は、やる事は変わらない。「せよ。」と命じられて、その通りに成るまでである。すなわち、幻想には幻想たらしめる要因があり、結果があり、それで全体で幻想と成るのである。投げるまでは分からないサイコロの様なものである。六が出ても、一が出ても、それは幻想の神の想うがままであり、すなわち、すべて、幻想の神の想いに命じられて、幻想は成るものである。決して、私的な財産ではなく、あるいは、公的でもなく、ただ、ある為に、端を発するものである。
あってある者、エーイェに近い存在が幻想であり、幻想の神は、それを実現する者である。
ただ、あるだけで、存在感を放つのも幻想たるゆえんである。
幻想とは、神の思惑以上の可能性を持ってはいない。しかし、可能性という点で、幻想の神を引き寄せる事が出来るのである。
その幻想を学ぶ事で、ひふでふでを視る事も出来る。幻想の神はクニノトコタチノカミではない。ゆえに、神と括っておられるのだが、神とは、八百万の神や幻想の神、自由の神、渾沌の神等も含んでいる。いわば、第三世界のイエス・キリストの玄孫に当たられる方々がこの幻想の神、自由の神、渾沌の神なのだ。
即、第三世界の主が幻想の神、クリスティーお嬢様と呼ばれる方なのである。
結局は、端を発する幻想があり、幻想の神が来られ、それでいて、実現されるか?されないのか?を決められるのである。
無論、理不尽な幻想というものは、淘汰されていくはずのものである。
しかし、時代の移り変わりと相容れず、変化しない幻想もあるのである。
流行り廃りに関わらず、図太く生き延びて行く幻想もあるのだ。それなら、個人のレベルで、幻想を持ち続けて行く幻想もあるのだろうな。しかしながら、同じく、流行り廃りに関わらず、選ばれる事はない。それは、理不尽というだけで、淘汰されるべきものだったのだから。
幻想の神は物分かりがいい割に、頭が固い側面もある為、いい意味で、頑固であられ、すなわち、人間単位の理解ではなく、幻想単位の理解であるから、つまりは、その場に流されないのである。つまり、人間向けの動画を配信したとしても、神向けの動画を配信しなければ、その幻想が受け入れられる事はない。つまり、人間向けの幻想であるにも関わらず、神が選ぶというミスマッチを犯している為に、まず、何も益がないという理由でなぎ倒されるのが、彼の幻想達である。人間本位の幻想が受け入れられる事はない。すなわち、肉欲だとか、征服欲だとか、金銭欲だとか、の理由で受け入れられる幻想はないのだ。