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身魂磨きについて

身魂磨きについて、詰め合わせ。

ふでは神示と描いて、ふでと読む。

それぞれの訳し方で、ふでを筆と訳しているやり方があるが、間違い。

ふではひふみふでと読んで、日月神示と描く。

身魂磨きを描き知らせる為に、ふではあったのだが、具体的にどういう事だろうか?まず、磨く為には、はかりと成る真実を用意して、磨く必要があるのである。

(見るではなく、視る。聞くではなく、聴く。書くではなく、描く。思うではなく、想う。これぞ、身魂磨きである。)

真実を視るだけではなく、述べる事で、はかりと身魂磨きが為されるのである。

視る。聴く。描く。想う。

この四種を使い分けて、始めて、身魂磨きに成るのである。

ある種の真実を追求し、心の中で信実を追い求める。

すなわち、変化しようがないものを信実をもって、変化させる。

それが身魂磨きの本質である。

身魂磨きとは、いわば、真実と信実にその本質がある。

私として述べるならば、視る聴く描く想うだが、しかし、公としては違う。まず、磨くという事は形を変える事だという事を認識しなければ成らない。

形を変える事は、いわば、真実形に成る事である。~だろう。というより、だから、~である。という形式の方が良かろうと想うのである。

もしも、曖昧あいまいに真実を流すならば、それは身魂磨きに成らない。

すなわち、真実をあえて、前面に押し出すやり方でないと身魂は磨けないのである。

何度も言うが、身魂磨きとは、形を変える事である。

身魂を磨くには、戦う必要がある。

真実との戦い。信実との戦い。両方に勝利しなくては成らない。

戦う事でフォームも変わり、臨戦態勢に成る為に、身魂が磨けるのである。

フォームが洗練され、スポーツで言う美が備わるのである。

神はこれをこそ、身魂磨きと呼んでいる。

磨くという事は、戦うという事である。なぜなら、己との戦いが磨くという行為だからである。

それを克己したなら、身魂が磨けたという事である。

己との戦いを制したなら、それはもう、磨く必要がないのであるが、しかし、戦いは続く。なぜなら、真実と信実と戦う事は、飽くなき探究と一緒の事だからである。飽くなき探究は、いわば、探究心に基づいて、納得いくだけ、探究するものである。ある意味において、探究心とは、真実と信実を追い求める心のあり様であるから、やはり、人間の探究心とは、真実と信実と共にある事なのである。

探究心を持つ事で、いわば、身魂磨きのセットが用意されるのである。セットが用意されたなら、身魂磨き以外にないだろう。

いわば、身魂磨きをするに当たって、探究心とは、セットであるから、ちょうどいいものである。

いざ、身魂磨きをしようという時に、これを持っていれば、何の問題もなく、身魂磨き出来るのである。

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