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白い壁紙についたシミのようなもの

作者: 京本葉一
掲載日:2020/03/25

 早朝ランニングが習慣となった。登校時刻も早くなり、誰もいない教室に入るのが日常となっている。いつもの調子で扉を開けた。少しばかり遅れたとはいえ、誰か先にきているとは考えもしなかった。


 教室の窓辺に、ひとり、女子生徒が立っている。


 おもわず変な声がもれてしまったが、それどころではない。誰であっても挨拶くらいはする。挨拶をするていどの間柄でしかなくても、いつも明るい女の子が思いつめた表情をしていたら、無関心は気取れない。声くらいかける。


「変な夢をみちゃって」


 きっと彼女も、誰かに話をきいてもらいたかったのだろう。


 星々がきらめく天空を舞台に、光と闇の戦いがあったこと。

 闇は払われたものの、天使とおぼしき戦士が、地上に落ちていったこと。


「たんなる夢だって、わかっているのにね。あの天使はどうなったんだろうって、すごく気になっちゃって……笑ってくれても、いいんだよ?」


 語ってくれた彼女が、本気で心配していることは、誰にだってわかる。

 信じてもらえないと、不安に感じていることも。


「感受性が強いというのか、優しすぎるというのか」

「……馬鹿にしないんだ」

「信じろといわれても困るけど、そこまで気になるっていうのなら、なにかあるのかもしれないだろう? すべてを否定するつもりはないよ」


 嘘はついていない。

 心あたりがないこともないと、口にする気がないだけで。


「ありがとう。話をきいてもらえて、なんだか楽になった」

「それならよかった」


 それからしばらく、そんなに心配することないとか、それほど気にしなくてもいいとか、きっと大丈夫だとか、心が軽くなるような言葉を投げかけた。

 互いの友人が教室にあらわれるころには、日常を取り戻せたようにおもう。





 早朝、川沿いのコースを走っているとき、異変に気づいた。50メートルほど離れたマンションの四階あたり、灰色の壁面に、人の形をした何かがみえる。

 さすがに気になったので、家に駆け戻り、双眼鏡をもってきて確認した。


 金色に輝く髪。パレオらしき白い腰巻。古代ギリシャの彫刻のような、美しい、男性の後ろ姿がみえる。まるでクライミングをするように、手足を壁面につけている彼の背中には、白い翼があった。右側の翼は欠けており、三割ほどしか残っていない。


 天使、だとおもった。


 翼の欠けた天使が、壁に張りついていると。カブトムシのようなスタイルで壁面に張りついているものの、あれはたぶん、天使であろうと。


 だいたいを確認したあと、走って家に帰った。


 長く双眼鏡を使用しつづけて、視線に気づかれては困る。

 振り向かれて、目が合ったりしたらどうする?

 怖すぎるだろう?


「垂直の壁面にはりつくとか、人間には不可能な芸当だ」


 だからあれは、変質者ではない。

 変質者ではないが、壁面でじっとしている、変な存在ではある。

 あれを天使だとは認めたくない。


 心を落ちつかせるため、とりあえず見なかったことにした。学校の女子から天使らしき情報を伝えられてしまったものの、認めがたく、こちらの情報を伝える気にもなれなかった。


 語らなかったことに後悔はない。

 話したところで信じてはもらえなかったはずだ。

 馬鹿にされたと勘違いして、嫌われていたにちがいない。





 翌朝、同じコースを走っているとき、まだいた。


 体勢がまったく変わっていない。

 まるで羽虫のようだが、さすがに死んでいたら落ちるだろう。

 どうして壁面にいるのか。

 とりあえず降りたらいいとおもうのだが、「地上におちたらアウト」みたいな、エンジェル規範(ルール)でもあるのだろうか。


 あまり見ないように心がけながら、夜にはいなくなると信じてみた。





 わからないことだらけだが、どうやら他の人には見えていないらしい。


 静かなものだった。

 異様に目立つ存在なのに、警察も消防も呼ばれない。

 暗くなると薄く光っていたりするのに、周辺地域の平穏は保たれていた。


 不思議な存在であることは疑いようもないが、あれはきっと、天使ではない。堕天使でもないだろう。

 永きにわたって月の光を浴びつづけ、(あやかし)となった羽虫にちがいない。

 人をたぶらかそうと画策して方向性を誤った、あわれな妖の姿にちがいない。


 確認のしようはないが、とるべき行動に変わりはない。

 気にしないように努めるだけだ。





 一週間が経過した。どうしても確認してしまう、白い壁紙についたシミのようなものは、ようやくとれて、いなくなっていた。

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