白い壁紙についたシミのようなもの
早朝ランニングが習慣となった。登校時刻も早くなり、誰もいない教室に入るのが日常となっている。いつもの調子で扉を開けた。少しばかり遅れたとはいえ、誰か先にきているとは考えもしなかった。
教室の窓辺に、ひとり、女子生徒が立っている。
おもわず変な声がもれてしまったが、それどころではない。誰であっても挨拶くらいはする。挨拶をするていどの間柄でしかなくても、いつも明るい女の子が思いつめた表情をしていたら、無関心は気取れない。声くらいかける。
「変な夢をみちゃって」
きっと彼女も、誰かに話をきいてもらいたかったのだろう。
星々がきらめく天空を舞台に、光と闇の戦いがあったこと。
闇は払われたものの、天使とおぼしき戦士が、地上に落ちていったこと。
「たんなる夢だって、わかっているのにね。あの天使はどうなったんだろうって、すごく気になっちゃって……笑ってくれても、いいんだよ?」
語ってくれた彼女が、本気で心配していることは、誰にだってわかる。
信じてもらえないと、不安に感じていることも。
「感受性が強いというのか、優しすぎるというのか」
「……馬鹿にしないんだ」
「信じろといわれても困るけど、そこまで気になるっていうのなら、なにかあるのかもしれないだろう? すべてを否定するつもりはないよ」
嘘はついていない。
心あたりがないこともないと、口にする気がないだけで。
「ありがとう。話をきいてもらえて、なんだか楽になった」
「それならよかった」
それからしばらく、そんなに心配することないとか、それほど気にしなくてもいいとか、きっと大丈夫だとか、心が軽くなるような言葉を投げかけた。
互いの友人が教室にあらわれるころには、日常を取り戻せたようにおもう。
○
早朝、川沿いのコースを走っているとき、異変に気づいた。50メートルほど離れたマンションの四階あたり、灰色の壁面に、人の形をした何かがみえる。
さすがに気になったので、家に駆け戻り、双眼鏡をもってきて確認した。
金色に輝く髪。パレオらしき白い腰巻。古代ギリシャの彫刻のような、美しい、男性の後ろ姿がみえる。まるでクライミングをするように、手足を壁面につけている彼の背中には、白い翼があった。右側の翼は欠けており、三割ほどしか残っていない。
天使、だとおもった。
翼の欠けた天使が、壁に張りついていると。カブトムシのようなスタイルで壁面に張りついているものの、あれはたぶん、天使であろうと。
だいたいを確認したあと、走って家に帰った。
長く双眼鏡を使用しつづけて、視線に気づかれては困る。
振り向かれて、目が合ったりしたらどうする?
怖すぎるだろう?
「垂直の壁面にはりつくとか、人間には不可能な芸当だ」
だからあれは、変質者ではない。
変質者ではないが、壁面でじっとしている、変な存在ではある。
あれを天使だとは認めたくない。
心を落ちつかせるため、とりあえず見なかったことにした。学校の女子から天使らしき情報を伝えられてしまったものの、認めがたく、こちらの情報を伝える気にもなれなかった。
語らなかったことに後悔はない。
話したところで信じてはもらえなかったはずだ。
馬鹿にされたと勘違いして、嫌われていたにちがいない。
○
翌朝、同じコースを走っているとき、まだいた。
体勢がまったく変わっていない。
まるで羽虫のようだが、さすがに死んでいたら落ちるだろう。
どうして壁面にいるのか。
とりあえず降りたらいいとおもうのだが、「地上におちたらアウト」みたいな、エンジェル規範でもあるのだろうか。
あまり見ないように心がけながら、夜にはいなくなると信じてみた。
○
わからないことだらけだが、どうやら他の人には見えていないらしい。
静かなものだった。
異様に目立つ存在なのに、警察も消防も呼ばれない。
暗くなると薄く光っていたりするのに、周辺地域の平穏は保たれていた。
不思議な存在であることは疑いようもないが、あれはきっと、天使ではない。堕天使でもないだろう。
永きにわたって月の光を浴びつづけ、妖となった羽虫にちがいない。
人をたぶらかそうと画策して方向性を誤った、あわれな妖の姿にちがいない。
確認のしようはないが、とるべき行動に変わりはない。
気にしないように努めるだけだ。
○
一週間が経過した。どうしても確認してしまう、白い壁紙についたシミのようなものは、ようやくとれて、いなくなっていた。




